格闘探偵団バトラーツ

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格闘探偵団バトラーツ(かくとうたんていだんバトラーツ)は、かつて存在した日本プロレス団体

歴史[編集]

旗揚げまでの経緯[編集]

1995年11月19日プロフェッショナルレスリング藤原組でスポンサーから所属選手の大幅なリストラを提示されて反発した藤原喜明を除く所属選手が退団。12月、石川雄規を中心に設立。団体名はプロレスプロモーターの荒井英夫の命名。元所属選手全員は、あくまでスポンサーに対して反発したのみで藤原との確執は無くプレ旗揚げ戦の際に藤原が来場して「わが息子達を宜しくお願いします」とリングで挨拶。

旗揚げ[編集]

1996年4月13日小田原市川東タウンセンターマロニエホールで旗揚げ戦を開催。

成長[編集]

スター不在と言われながらも選手の個性が最大限に発揮される姿勢が支持を得ていく。アレクサンダー大塚PRIDEでの活躍もあって知名度も高まる。

1998年11月23日両国国技館大会を開催。

混迷[編集]

2001年9月、プロレスリングZERO-ONEで開催される「火祭り」に協賛して所属選手を送りリーグ戦の一部をバトラーツの興行で実施することを発表したが石川雄規が尊敬するアントニオ猪木の助言でキャンセル。PRIDEと関係していた猪木とPRIDE参戦選手と無断で交渉を行ったZERO-ONE代表の橋本真也の対立が背景にあるとされている。バトラーツ公式サイトで発表時は「ビッグマッチに向けて猪木軍入りして異種格闘技戦の開催を計画している。猪木と橋本間のトラブルであり両者間の和解が無い場合どちらかを選択する必要があり今回は猪木軍を選んだ」と理由を述べた。しかし猪木からの利益を最優先するため発表済みカードを消滅させた点などからファンの批判や所属選手の離反を招くことになる。また「バトラーツのリングは火祭りのリーグ戦開催以前から火祭りだったと自負している」と無意味な開き直りも公式サイトに記載したため批判はより強まった。猪木は「迷惑な話だ」と自身は関わっていない姿勢を見せた。三沢光晴は「筋が通ってない」、「自分の尻も拭けないのか」などとバトラーツの姿勢を批判。10月26日、活動停止。

2002年6月9日、活動再開して一部の元所属選手が集結して桂スタジオを中心に興行を開催。

2008年、バトラーツの女子部「女王バチ」を発足。

2010年8月3日、唯一の所属女子選手の及川千尋が引退したため以降は目立った活動を行っておらず自然消滅。

解散[編集]

12月26日、桂スタジオの閉鎖などもあり来年春の解散することを表明。12月28日、バトラーツ公式サイトで解散することを正式発表。

2011年3月22日、解散に先立ち矢野啓太が退団。理由が契約満了とされたが矢野の精神状態や薬物使用など様々な憶測が飛び交う突然の退団劇だった。11月5日新宿FACE大会を最後に解散。

ルール[編集]

バトラーツルール
  • フリーダウン制、場外戦なし、3カウントフォールなし。
  • 決着はKO、ギブアップ、タップアウト、レフェリーストップ。

所属選手[編集]

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

リングガール[編集]

過去の所属選手[編集]

エピソード[編集]

旗揚げ初期の頃に事務所に迷いネコが住み着いた。この迷いネコを「ガッチリ」と命名してバトラーツが飼いマスコットキャラクターにしてグッズを販売していた。当時まだ知名度が低かった所属選手のグッズよりもネコのプリントしたTシャツが売れていたという。ネコは1999年の事務所移転の時に失踪[1]

脚注[編集]

  1. ^ 週刊プロレス 2011年11月16日号「解散直前バトラーツ プレイバック特集」より