クリトモ一休・三休

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クリトモ一休・三休(くりともいっきゅう・さんきゅう)は、日本漫才コンビ

リーガル千太・万吉門下の漫才師としてスタート。NHK漫才コンクールで優勝するなど若手の中でもテンポの良さで売り出し東京漫才を担うと期待されたが、一休は三河島事故で急死した。

メンバー[編集]

来歴[編集]

一休は日本大学経済学部の卒業後、天理教の教師であったが結核を患いサナトリウムで療養している中、慰問に来た青空うれしと面識を得た。その後退院し1958年リーガル万吉の弟子となる。三休は上野高校卒業後、製薬会社に入ったが、すぐ照明器具会社に転職。そこもすぐ退職し、母が寄席『栗友亭』の席亭夫人と知人だったことで栗友亭で前座や司会を始める。1958年リーガル万吉の弟子となる。同年4月コンビ結成。寄席『栗友亭』に因みクリトモ一休・三休とした。

師匠譲りの上品で、テンポの良い芸風を身につけ、若手のホープとして期待された[1]

1960年10月の第8回NHK漫才コンクールでは3位となり、1961年3月の第9回NHK漫才コンクールでも3位となった。

1962年3月、第10回NHK漫才コンクールで優勝。一躍実力派として認められ、師匠からも近々「リーガル」の名を許される話も出た。東京漫才の一角を担う若手として活躍し始めたが、一休が三河島事故に巻き込まれ、急逝。

葬儀では師匠のリーガル万吉が「リーガル一休」の名を許す、と弔辞で読み感動させた。戒名は「久遠院法悟日欽信士」[1]

三休は漫談司会などを行っていたが、大空平路の斡旋で、畦元直彦(第一球)とコンビを結成。はじめは一休・三休であったが、のち、「第一球・三球」と改名する。

第一球は父が獣医部将校で日本統治下にあった満州旅順関東町病院で出生する。間もなく父の転勤で東京へ引っ越し、育つ。旧制山水中学入学。親の転勤で京都に引越し自身も京都一中へ。

1945年、終戦を迎え、父は失職。家庭の事情から祖父のいる鹿児島県南さつま市へと転居。加世田中学に進学するが、学制改革によって高校卒業。卒業後、立教大学社会学部に合格し、上京。この頃からラジオ番組に出演したり、舞台芸術学院に入学。1953年新宿セントラル劇場に入団し、コント軽演劇に出演。浅草喜劇曾我廼家五一郎一座に入り、「曾我廼家蝶太」という芸名をもらう。声優としても活躍したが、東京を離れる。縁を頼って、栃木県の劇団「らくりん座」に所属し、学校まわりをする。間もなく、セントラル時代の知人、須賀三郎の紹介で、相方を失ったばかりのクリトモ三休と出会う。意気投合する所があり、1962年末よりクリトモ三休とコンビを組み、「第一球・三球」と名乗る。奇抜な味わいのある漫才で注目を集め、1964年3月第12回NHK漫才コンクールに出場し、『発明発見物語』というネタで2位。畦元氏(第一球)曰く自信作だったとのこと。コンビ仲も悪くなかったが、張り合いがなくなりつつあり、有耶無耶のうちに1964年頃コンビを解消することとなった[1]

地方の司会や演劇の舞台出演などで活動を続け、生計を立てていた。1963年5月15日春日照代と結婚。コンビ解消と結婚を機に、夫婦漫才結成をする流れとなった。1965年2月11日、なりゆきながらも春日照代とコンビを組んだ。

その後春日三球・照代として人気漫才師となる。

出典[編集]

  1. ^ a b c 喜利彦山人 (2020年2月1日). “クリトモ一休・三休と第一球” (日本語). tokyomanzai0408.com. 2020年2月14日閲覧。