柳旦

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柳 旦(りゅう たん、生没年不詳)は、北周からにかけての政治家軍人は匡徳。本貫河東郡解県柳慶の子。柳機の弟。

経歴[編集]

北周に仕えて左侍上士を初任とし、兵部下大夫に累進した。580年益州総管王謙が乱を起こすと、柳旦は行軍長史に任ぜられて、梁睿の下で乱の平定にあたり、功績により儀同三司の位を受けた。581年、隋が建国されると、開府儀同三司の位を受け、新城県男に封ぜられた。羅州刺史・淅州刺史・魯州刺史を歴任し、有能なことで知られた。605年竜川郡太守に任ぜられた。学校を開設し、山洞で生活していた人々の風俗を漢化させた。608年、召還されて太常少卿となり、判黄門侍郎事をつとめた。在官のまま死去した。享年は61。

家庭[編集]

男子[編集]

  • 柳燮
  • 柳則
  • 柳綽
  • 柳楷
  • 柳濬
  • 柳亨

女子[編集]

  • 隋の襄城王楊恪(楊勇の子)の妻

伝記資料[編集]