柳斎重春

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柳斎 重春(りゅうさい しげはる、享和3年〈1803年〉 - 嘉永6年5月29日1853年7月5日[1])とは、江戸時代後期の大坂浮世絵師

来歴[編集]

滝川国広及び柳川重信の門人。一説には師はいないとも言われる。姓は山口、名は安秀。俗称は甚治郎。崎陽亭、玉柳斎、玉柳亭、烽山とも号す。肥前国長崎鍛治町の両替商大島屋山口善右衛門の子として生まれた。初め大坂の三津寺町に住んでいた。まず大坂で滝川国広に師事して。文政4年(1821年)梅丸斎国重、長崎国重と称し、崎陽亭、瀧川国重の号も使用した。その後、柳川重信が文政5年(1822年)に大坂に上り、重信の門人になったといわれている。そして文政9年(1826年)春頃に柳斎重春と改名している。天保元年(1830年)からは玉柳亭、玉柳斎、山口重春、烽山重春、日華と号している。始めの頃には江戸絵に近い垢抜けした雰囲気の役者絵を描いていたが、急速に上方絵のもつ特有な濃密な画風に傾倒していき、天保頃には次第に形式化、固定化していった。

浮世絵版画では、春梅斎北英とともに文政後期から天保期の上方浮世絵界を先導しており、文政年間から役者絵の他に芝居看板絵、天保2年(1831年)刊行の読本『忠孝二見浦』(楠里亭其楽作)前編五巻後編五巻10冊や絵入根本『契情稚児淵』などの挿絵を遺し、特に嘉永2年(1849年)から嘉永3年にかけて刊行された読本『扶桑皇統記図会』13冊の挿絵は当時大評判であったといわれているが、肉筆浮世絵の作例は極めて少ないものと思われる。肉筆浮世絵「竜虎紋様着衣太夫の図」は師である柳川重信の作風に加え、同じく上方の絵師である祇園井特三畠上龍などと共通する表情が感じられる作品である。着衣に描かれた竜虎の絵からは重春の画力の程が窺える。重春の作風は幕末の上方浮世絵における中判時代に影響を与えている。享年51。

門人に柳狂亭重直重房がおり、また重広、重政も門人であるとされる。

作品[編集]

錦絵[編集]

  • 「自来也 (三世)中村歌右衛門」 大判 天保3年3月 角座『柵自来也談』より
  • 「小野小町 梅花 僧正遍正・文屋康秀・在原業平・喜撰法師・大伴黒主 芝翫」 大判 天保5年正月 角座『六歌仙容彩』より
  • 「島之内ねり物」 大判揃物 天保7年頃
  • 「(四世)中村歌右衛門の七化」 大判7枚揃 天保9年 中座『昔慕やはり七化』より
  • 「朝比奈藤兵衛 市川鰕十郎」 大判

版本[編集]

  • 『月宵鄙物語』後編 読本 桃花園三千丸作 文政11年
  • 『都鄙物語』 読本 手塚兎月作 文政12年
  • 『傾城狭妻櫛』 絵入根本 文政13年
  • 『忠孝二見浦』 読本 南里亭其楽作 文政14年
  • 『役者風俗三国志』 芝居絵本 花笠文京編 天保2年
  • 『契情稚児淵』 絵入根本 天保3年
  • 『絵本和田軍記』 読本 速水春暁斎作 天保5年
  • 『三傑奇譚』 読本 東籬亭作 天保12年
  • 『扶桑皇統記図会』 読本 好華堂主人作 嘉永2年‐嘉永3年

肉筆浮世絵[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
竜虎紋様着衣太夫の図 絹本着色 摘水軒記念文化振興財団
素尊斬蟒図 板地著色 絵馬1面 119.6x149.0 金刀比羅宮 1844年(天保15年) 款記「烽山重春」/「烽山」朱文方印 木枠に「奉納」「天保十五甲辰三月吉日」「淡州吉田傳次郎座中[2]

脚注[編集]

  1. ^ 『原色浮世絵大百科事典』第2巻は享和2年(1802年)‐嘉永5年(1852年)5月29日とする。
  2. ^ 伊藤大輔責任編集 『平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝─絵画』 金刀比羅宮、2004年9月1日、pp.206、370。

参考文献[編集]

関連項目[編集]