柏原長宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

柏原 長宅(かしわばら ながいえ、生年不詳 - 1621年元和7年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将土佐藩上士播州赤松流柏原氏。通称は半右衛門。家紋は「左三つ巴」。

生涯[編集]

播州赤松氏の旧臣・柏原久宅(新之丞)の二男として播磨国に生まれる。母は中村対馬の娘。

1582年天正10年)、播磨国で父・久宅と共に山内一豊に召抱えられ、はじめ長宅は格別御児扈従として仕えた。1588年(天正16年)、豊臣秀吉聚楽第へ行幸の節、山内一豊が御束帯を着て供奉する際に、その御太刀持ちとしての御供を仰せ付かる。

1600年慶長5年)、関ヶ原の戦いの功績により主君・山内一豊が土佐国へ封入されると、御入国御先達の御人数を差下されるに付き、11月18日「御掟御書附」を渡され、先達って土佐国へ入国し、諸事を下知することを仰せ付けられた。その後、知行500石を格別に下し置かれ、御扈従組頭を仰せ付けられた。また、高知城築城の時に一豊が巡視を行った際、一豊と同装束六人衆(野中玄蕃・市川大炊・柏原長宅(半右衛門)・乾宣光(七郎左衛門)・乾和三(猪助))の一人に抜擢され、藩主の側近として仕えている。

土佐藩主・山内忠義の代になると、父・久宅の家督・役儀ともに無相違仰せ付けられ、かつ長宅の元々食んでいた500石と併せて都合1000石を下し置かれた[1]。また、尾州名護屋御城を御普請の節、普請奉行を仰せ付けられ、名護屋へ罷り越して築城に従事した。

1621年(元和7年)、病死[2]。墓は土佐国高岡郡須崎(現 高知県須崎市下分乙長竹)にあり、位牌は「元亨院」(所在地 高知県須崎市下分乙328)に祀られている。

家族[編集]

  • 父:柏原久宅(新之丞)
  • 母:中村対馬の娘
    • 本人:柏原長宅(半右衛門)
    • 妻:山内可氏(左衛門佐)の養女。(実は広瀬之為の娘)
      • 養子:柏原元宅(太郎兵衛)(実は入江仁兵衛の倅)
      • 長女:柏原元宅の前妻(死別)
      • 二女:柏原元宅の継妻

補注[編集]

  1. ^ 『御侍中先祖書系圖牒』の本文に久宅の家督を長宅が相続した文章を載せるが、久宅の隠居の記録が無く、久宅の歿年が1612年(慶長17年)で、長宅の養子の元宅の家督相続が1611年(慶長16年)であるため、実際には「久宅-長宅-元宅」の順に相続されたのでは無く「久宅-元宅」と相続された可能性がある。この点は江戸時代に既に指摘されており、『御侍中先祖書系圖牒』の傍注に、この件に関する考察が記載されている。
  2. ^ 墓碑による。

参考文献[編集]