板倉重昌
![]() 板倉重昌像(板倉温故会蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正16年(1588年) |
死没 | 寛永15年1月1日(1638年2月14日) |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町入の長圓寺 |
官位 | 従五位下、内膳正 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 三河深溝藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 父:板倉勝重、母:粟生永勝の娘 |
兄弟 | 中嶋重好(異父兄)、重宗[1]、重昌、重大 |
妻 |
正室:山口直友の娘 継室:林吉定の娘 |
子 |
重矩、重直(次男) 娘(小笠原政信正室)、娘(溝口信勝正室) |
板倉 重昌(いたくら しげまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。三河深溝藩主。福島板倉家の祖。
生涯[編集]
天正16年(1588年)、徳川氏の家臣・板倉勝重の次男として駿河駿府にて誕生した。
慶長10年(1605年)4月10日、主君・徳川家康の参内に伺候し従五位下内膳正(ないぜんのかみ)に叙任された[2]。松平正綱・秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、豊臣方との交渉の任にあたった。
寛永14年(1637年)11月、島原の乱鎮圧の上使となった。嫡子の重矩を伴い、副使の石谷貞清と出陣。動員された西国の諸侯を率いる命を受け下向するが、九州の諸侯は小禄[3]の重昌の指揮に従わず[4]、小身の重昌では統制が取れないことや一揆勢の勢いの強いこと、長期化した際に幕府の権威が揺らぐことや、海外からの勢力の参加の可能性などを恐れた幕府は、老中松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援も決定した。
重昌は功を奪われることに焦慮を覚えたとされる。翌寛永15年(1638年)1月1日に総攻撃を命じるが、やはり諸軍の連携を失い、4000人とも伝わる大損害を出す。重昌自身は板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作が放った銃弾の直撃を受け、戦死した。享年51。墓所は島原市の江東寺。辞世は、「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」とされるが、「咲く花の」とする説もある。
残された嫡子の重矩は、元の副使石谷貞清と共に原城陥落の際、抜け駆けを行った佐賀藩勢に遅れじと突入を行った。この際、一騎討ちで敵将・有家監物を討ち取る功を挙げているが、佐賀藩との抜け駆けと当初の敗戦の軍律違反により、1年ほど謹慎処分を受ける。しかしその後は老中や京都所司代を務め、5万石にまで加増する。重昌の子孫はその後、下野烏山藩、武蔵岩槻藩、信濃坂木藩、陸奥福島藩と転封され、明治まで続いた。
人物・逸話[編集]
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系譜[編集]
父母
正室、継室
子女
登場作品[編集]
参考文献[編集]
- 『世界人物逸話大事典』角川書店
注・出典[編集]
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編 『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、114頁。
- ^ 「柳原家記録」(村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年)
- ^ 深溝藩は高直しによってやっと1万5千石余。重昌の幕府役職は御書院番頭でしかない。副使の石谷貞清に至っては大名ですらない。
- ^ 江戸中期に書かれた『常山紀談』19巻388条に、重昌が派遣される際、柳生宗矩が「小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5000石である)である重昌を総大将にすれば、九州大名の統制がとれず討伐は失敗する」と考えて反対したという逸話が収録されている。