松浦佐用姫

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鏡山山頂にある佐用姫の銅像

松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれる。弁財天のモデルであり、日本全国にある同様な伝説の本家である。

伝承[編集]

537年新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。『万葉集』には、この伝説に因んで詠まれた山上憶良の和歌が収録されている[1]

また肥前国風土記には、同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。こちらでは、別れた後、狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これが沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう一つの佐用姫伝説とされることもある。

引用例[編集]

歌川国芳/画 松浦佐用姫「賢女烈婦傳」

平安時代の兵法書『闘戦経』内に石化した貞婦=佐用姫の話が引用されている。内容は、危うい時に逃げる謀略家と違い、純粋に夫を慕い続けて石となった婦女は後世まで残り、一方、謀略家が郷里に骨を残す例は聞いたことがない、というもの。佐用姫を引用して比較する例は『平家物語』にも見られ、治承2年(1178年)9月20日頃の話として、孤島に残された俊寛が半狂乱した語りにおいて、松浦佐用姫ですら孤島に1人残された俊寛の心境には及ばないだろうといった旨の記述がある。

なお、世阿弥作の能に、佐用姫伝説に取材した能〈松浦佐用姫〉がある。観世宗家に世阿弥自筆の能本が伝来していたものの、永らく上演されない廃曲となっていたが、2000年に26世観世宗家・観世清和によって観世流の正式の演目に加えられた。

関連する地名など[編集]

唐津市の鏡山は、佐用姫が領巾を振って見送った山とされているため、「領巾振山(ひれふりやま)」という別称がある。同市和多田には、佐用姫が鏡山から跳び降りて着地したときについたという岩があり、小さな足跡のようなくぼみがある。衣干山は、川に入った佐用姫が衣を干して乾かしたことが名前の由来となっている。

鏡山山頂には佐用姫の銅像が、また道の駅きゅうらぎには、高さ十数メートルの佐用姫の白像がある。像は台座から上が常時時計回りに回転しており、1周20分ほどで厳木町を見渡している。加部島にある田島神社の境内社・佐與姫神社は、佐用姫であったという石を祀っている。

脚注[編集]

  1. ^ 『万葉集』巻第五、868、871、872、873、874、875番。