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松沢求策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松沢求策の胸像(安曇野市穂高交流学習センター「みらい」隣、三枚橋公園、白沢菊夫制作)

松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日1855年7月28日) - 明治20年(1887年6月25日)は、現在の長野県安曇野市出身の自由民権家

来歴

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  • 1855年安政2年) - 信濃国安曇郡等々力町村(千国街道穂高宿)に醤油醸造を業とした若松屋に生まれる。
  • 1865年慶応元年) - 高島章貞の主宰する星園塾を卒える。
  • 1873年明治6年) - 安曇野最大の用水堰である拾ヶ堰の堰守となる。この役職は地域の灌漑用水の管理・分配を一手に担うもので、本来は名主たちに受け継がれて来た名誉職であった。また隣村の伊東とめ(17歳)と結婚。
  • 1874年(明治7年) - 長女の万喜代が生まれる。
  • 1875年(明治8年) - 学校の世話係に任命される。10月、武居用拙の塾に入る。
  • 1877年(明治10年) - 上京し、講法学舎の大井憲太郎松田正久フランス法自由民主主義を学ぶ。
  • 1878年(明治11年) - 松沢に自由民権運動の薫陶を与えた坂崎紫瀾の跡を受けて『松本新聞』の主筆となり、新聞紙上に自由論を説く。
  • 1879年(明治12年) - 貞享騒動の中心人物、多田加助を主人公にした「民権鑑加助の面影」を松本常盤座で初演させる。 
  • 1880年(明治13年) - 奨匡社を創立。大阪の愛国社からの要請で国会願望有志大会に出席。東筑摩郡松本町の青松寺にて奨匡社結社大会が開かれた。南安曇郡選出の県会議員となる。
  • 1881年(明治14年) - 東京で西園寺公望の『東洋自由新聞』の印刷長となる。しかし、西園寺が職を辞して廃刊となる。それに際し全国各地の民権家に檄文を送るが、大衆扇動の罪により、5月16日懲役70日の刑を受ける。11月1日八丈島に向かう。
  • 1882年(明治15年) - 「南海開島会社」を興し、八丈島で事業を行うが、三井財閥系の「伊豆七島物産会社」と対立し、翌年倒産する。
  • 1883年(明治16年)12月 - 長野県会議員に当選。
  • 1886年(明治19年) - 代言人(弁護士)の試験問題漏洩事件に関与したとして逮捕される。
  • 1887年(明治20年) - 結核により獄中で病没。辞世の句は「思ふ事 つくしてもはてず さそはれて かへらぬ旅に 心のこして」。

参考文献

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  • 中島博昭 『鋤鍬の民権-松沢求策の生涯』銀河書房、1974年1月
  • 角憲和 『ほんとうの信州』岳風書房、2003年5月
  • 『安曇野の美術』安曇野市教育委員会、2021年3月

関連項目

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外部リンク

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