松平直員

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松平直員
時代 江戸時代中期
生誕 元禄8年4月21日1695年6月2日
死没 明和5年4月14日1768年5月29日
改名 亥之助(幼名)、直員
別名 求馬、頼母(通称
戒名 徳本院
墓所 東京都港区虎ノ門天徳寺
官位 従五位下弾正少弼志摩守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家継吉宗家重家治
出雲母里藩
氏族 新庄氏越前松平家支流母里松平家
父母 新庄直詮、小牧氏
松平直丘
兄弟 新庄直祐直員松浦信尹新庄孝寛
京極高周関長張正室、松平親純
新庄直矢
小沼氏
嶋氏、草深氏
直道直行大久保忠敬正室、
戸田光智正室
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松平 直員(まつだいら なおかず)は、江戸時代中期の大名出雲国母里藩3代藩主。官位従五位下弾正少弼志摩守。直政系越前松平家母里藩分家3代。

生涯[編集]

家督相続[編集]

元禄8年(1695年)4月21日、常陸国麻生藩主・新庄直詮の六男として誕生。正徳2年(1712年)12月に母里藩2代藩主・松平直丘が死去した後、正徳3年(1713年)2月29日に養子として家督を相続した。

馬鹿殿様の治世[編集]

直員は、母里藩最悪の暗君として知られており、「驕奢淫逸」と表された。家督を継ぐと、年貢増徴を行なって領民を苦しめ、遂には領民が逃散するという有様となる。さらに藩内の富豪から御立金と称する強制借金を行ない、その返済期日である宝暦9年(1759年)8月4日に返済が不可能になると、家老の今村氏・前田氏らを切腹させて責任を取らせている。宝暦10年(1760年)には藩の施設を競売にかけた上、苗字帯刀の特権を金で売官するなど、その治世は目に余るものが多かった。しかもこれらで得た金銭は、自身の享楽に使われ、藩財政は悪化の一途をたどった。

このため、同族の出雲広瀬藩主・松平近朝の娘・輝姫との縁談が進められていたものの、近朝は直員のこのような素行を知って破談に持ち込んでいる。

明和2年(1765年)11月18日、家督を長男・直道に譲って隠居した。しかし隠居後に、かつて直員が寵愛した家臣の平山弾右衛門による母里騒動が起こり、さらに直員自身も次男・直行を擁立しようと直道の廃立を試みるなどして、藩政のさらなる混乱を招いた。

明和5年(1768年)4月14日に死去した。享年74。

系譜[編集]

脚注[編集]