松平昭訓

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松平 昭訓
時代 江戸時代後期
生誕 嘉永元年12月29日1849年1月23日
死没 文久3年11月23日1864年1月2日
改名 余四麿(幼名)→昭訓
諡号 孝順子
墓所 京都市東山区長楽寺
官位 従五位下侍従従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川慶篤
常陸水戸藩
氏族 水戸徳川家
父母 父:徳川斉昭
母:万里小路睦子
兄弟 賢姫、祝姫、徳川慶篤、松姫、
徳川慶喜池田慶徳池田茂政直侯、八代姫、武聰喜連川縄氏昭訓
徳川貞子忠和土屋挙直、愛子、
徳川昭武喜徳頼之、正姫ら22男15女
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松平 昭訓(まつだいら あきくに)は、江戸時代後期の水戸藩主一門。従五位下侍従従三位徳川昭武の同母兄。15代将軍・徳川慶喜の異母弟。

略歴[編集]

水戸藩の前藩主[注釈 1]徳川斉昭の十四男として誕生した。母は万里小路睦子。幼名は余四麿

文久3年(1863年)3月、16歳の昭訓は藩主である長兄の徳川慶篤と共に上洛した。慶篤は程なく江戸に帰ったが昭訓は留まり、京に駐屯した水戸藩兵(後の本圀寺勢)の将となった。朝廷幕府、各藩の間を周旋する多忙な立場となり良く勤めたが、年若いだけに攘夷を生真面目に捉えており、表面攘夷を装っておきながら実行する気のない「ぶらかし策」が理解できず、心労が大きかったらしい。ついに6月頃から健康を害したが、世情騒がしい京において静養する状態にはなく、8月頃には病状が重くなり、国許の貞芳院(斉昭の正室)より京から帰って療養するよう勧められたが、国家非常のとき帰ることは出来ないと断った。8月16日、朝廷は昭訓の働きに対し、従五位下侍従に叙し、ついで左衛門佐の官名を賜った。いよいよ重篤となった11月19日、近習に墓は禁裏に向けた方角にするようの遺言を残し、11月23日に死去した[注釈 2][1]

孝明天皇は昭訓の病重篤(実際には死去)を聞き、特旨して従四位下に叙し、また昭訓の看病の名目で弟のいずれかを上洛させるよう、二条斉敬に内意を示した[1]。結果、他家に養子入りしていなかった同母弟・余八麿(後の徳川昭武)が上洛し、昭訓の後任となった(翌年1月に上洛)。

元治元年(1864年)5月11日喪が発せられ、6月12日に京の東の鷲尾山長楽寺後に葬られた[1]

1911年明治44年)6月1日、贈従三位

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 昭訓の出生当時、斉昭はすでに家督を嫡男の慶篤に譲って隠居していた。
  2. ^ 弟・昭訓(昭武)の京到着後、数か月置いて死を公表し喪を発したため、公的な没日は元治元年(1864年)5月11日

出典[編集]

  1. ^ a b c 須美裕『徳川昭武 万博殿様一代記』、中央公論社中公新書〉、1984年。p4-6ISBN 978-4-1210-0750-6