松原 (佐賀市)

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松原
—  町丁  —
松原神社参道(新馬場通り)
Flag of Japan.svg 日本
都道府県 Flag of Saga Prefecture.svg 佐賀県
市町村 Flag of Saga, Saga.svg 佐賀市
面積
 - 計 0.244km2 (0.1mi2)
人口 (2015年(平成27年)9月30日時点)
 - 計 1,330人
等時帯 JST (UTC+9)
郵便番号 840-0831
市外局番 0952
ナンバープレート 佐賀

松原(まつばら)は佐賀県佐賀市の地名。郵便番号は840-0831。

地理[編集]

松原は佐賀市中心部の地名で、江戸時代には松原小路の通称があった。佐賀城北堀の北側、国道264号線(貫通道路)に沿って東西に長く広がる町。西から一丁目・二丁目・三丁目・四丁目と並ぶ。町の北端から東端に沿うように裏十間川、西端に多布施川、中央を東西に松原川が流れる。何れも城下町に上水を供給することなどを目的として掘削された人工河川であり、松原川の川筋には佐賀城やその城堀の見通しを避ける為に細長く続く松並木が設けられた。これが地名の由来となっている。北西から時計回りに中の小路、中央本町、呉服元町、柳町、材木、水ヶ江城内、堀川町に接する。

町の西部は佐賀県警察本部佐賀中央郵便局、佐賀県自治会館分館、佐賀消防署中央出張所など公的機関が多い。1975年までは佐賀市役所もあり、跡地はくすかぜ広場として公園となっている。中央部は佐嘉神社松原神社以外は飲食店が多く繁華街となっており、3丁目には昭和天皇の佐賀行幸の際に宿泊地となり、ミシュランガイド福岡・佐賀版で佐賀市内唯一の二つ星を獲得した料亭「楊柳亭」がある。楊柳亭は1882年(明治15年)創業で、当初の屋号は『新川崎屋』であったが、初代佐賀県知事鎌田景弼がしだれ柳の多かった場所にちなんで『楊柳亭』と命名したものである。2丁目にはかつて映画館が集中し、東映・日活・東宝・松竹・洋画の有楽会館などが立ち並んでいた(日活のみ住所は中央本町)。現在は佐賀東宝があったセントラルプラザで単館系の作品を上映するミニシアター「シアターシエマ」が営業するのみとなっている。東部は住宅や商店も多いが歴史的な建物も多く残り、一部は佐賀市歴史民俗館として整備されている。

面積は約0.24㎢。平成27年住民基本台帳による世帯数及び男女別人口は以下の通り。

' 世帯数 人口数
総人口 男人口 女人口
松原一丁目 156世帯 303人 150人 153人
松原二丁目 181世帯 389人 160人 229人
松原三丁目 52世帯 93人 49人 44人
松原四丁目 297世帯 545人 229人 316人

歴史[編集]

徴古館

松原小路は佐賀城下の武家屋敷地。『弘化二巳総着到』(鍋島報效会所蔵の佐賀藩士名簿)によると居住する武士は16人。総石高は2700石(平均169石)で諸小路の中でも高い部類に属する。人材育成を目的に設置された藩校弘道館や、藩祖鍋島直茂を祭神とする松原神社は8代藩主鍋島治茂によって建てられた。鍋島家は私立佐賀図書館(大正2年)、徴古館(昭和2年)も建設した。さらに昭和8年鍋島直正を祭神とする佐嘉神社が建立されている。

1881年(明治14年)に松原町となり、1889年(明治22年)に近代市町村制の施行により佐賀市が発足するとその一部となる。1968年住居表示により松原町の一部と水ケ江町・東魚町・白山町の一部が合わさり松原1~4丁目、中の小路、中央本町となり、翌1969年に残余が白山1~2丁目、八幡小路となった。

松原2丁目の徴古館を運営する鍋島報效会(鍋島直映により設立)が戦後、神社西側の土地に引揚者を受け入れると市場が開かれ「松原マーケット」「松原親和市場」と呼ばれる商業地区が成立・発展した。戦後の混乱期であったことも影響したのか一部は風俗店になってしまい、一時は神社敷地内にストリップ劇場が存在する異様な光景となっていたが、中心市街地の空洞化に合わせて店舗は減少。さらに城内公園の整備構想が立ち上がったことで地権者の鍋島報效会はマーケット内の店舗が閉鎖した場合、借地契約を更新しないという対応を取っている。そのため商店はかなり減少しており、市場の零細業者による佐賀企業組合も2014年に閉所されている[1]

また松原4丁目には同じく引揚者が借地に開いた闇市をルーツとする「寿通り商店街」があった。こちらは1980年に借地を購入し、80年代のバブル期までは賑わっていたが景気後退や郊外への大型商業施設の進出などで客足が遠のき、2017年に閉鎖・解体されている[2]

河童伝説[編集]

松原河童社(まつばらかわそうしゃ)と松原川

松原川には河童伝説がある。河川の工事を命じられた奉行、兵部大輔は不足する作業員を補う為、人形に呪いをかけ働かせ工事が終わるとまた人形に戻し川に投げ捨てた。これを憎んだ人形は河童に姿を変え、特に兵主部(ひょうすべ)の一派は子供を川に引きずり込んで多くの命を奪った。そのため、城主鍋島藩主鍋島直茂は淀姫神社に願をかけ兵主部をとらえることに成功した。兵主部は元の人形に戻してもらえれば今後は子供達を護りますと頼み、以来子供達を水難より守っている、というものである。松原神社創建のころ(安永元年-1772年)作と伝えられる兵主部の木像が松原神社に奉納され、2010年に改めて松原河童社を創建し祀っている。この伝説を元に、松原川には河童の親子像が設置されており、長男河童の手を握ると石橋から水が噴出する仕掛けも作られている。また、佐賀を中心に活動しているローカルヒーローマツバライザーK」はこの兵主部の子孫という設定となっている。

佐賀米穀取引所[編集]

1871年(明治4年)、税の納め方が米で納める米納制度から金納制度に変更されると、米穀を換金するために米穀相場を建てる米穀市場が必要となった。佐賀でも一旦設立された市場が3年と持たずに閉鎖されるなど紆余曲折の末、馬責馬場の鍋島家所有地(現在の松原4丁目)を借り受けて1888年(明治21年)に佐賀取引所が開設された。さらに1893年(明治26年)に改正取引所法が公布されると、佐賀取引所を母体に新たに佐賀米穀取引所が設立された。取引所の売り上げ、出来高は順調に伸び、佐賀経済の発展に大いに寄与したが1939年(昭和14年)取引所法が改められると、米価が一定値段に統制されたため解散した。松原町出身で日本最初の女性科学者黒田チカは父が取引所の理事を務めていたことがある[3]

交通[編集]

南端に国道264号線が東西に走る。また南北には1丁目と2丁目の堺に県道29号線が、3丁目と4丁目の堺に県道30号線が通る。それぞれ「貫通道路」「中央大通り」「大財通り」の通称があり、市内で営業する各バス会社がそれぞれ路線を運行している。また佐賀県庁本館正面から北に延びる市道は県庁前通りと呼ばれている。さらに松原2丁目、佐嘉神社北からエスプラッツに向かう市道には「復興通り」の通称がある。これは昭和8年に火災があり、その被害から復興したことからその名がついたものである。

その他施設[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 平成27年版佐賀市統計データ」、佐賀市 総務部 総務法制課 情報公開・統計係(統計担当)
  • 『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』 角川日本地名大辞典編纂委員会、角川書店、1991年9月1日ISBN 4040014103
  • 「弘化二巳総着到」 (弘化2年)