東郷重方
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東郷 重方(とうごう しげまさ、慶長9年(1604年) - 万治2年(1659年))は、江戸初期の薩摩藩士。剣客。通称は藤兵衛、肥前。諱は重方。示現流の流祖東郷重位の子で示現流二代目。なお、「示現流聞書喫緊録附録系図」では慶長12年生まれとしている。
経歴[編集]
幼少より父重位より示現流を学ぶ。タイ捨流の癖が残っていた重位よりも技術は優れており、重位が太鼓判を押す手練だった。
島津光久はじめ藩主一門にも教授し、剣名が高く、多くの弟子を育てた。
重方は武人として優れていただけでなく、老荘の学に通じ、また勧農の才があり、郡奉行[1]や坊泊郷(現在の南さつま市坊津町泊)地頭[2]等を歴任して2万4千石余りの新田を開くという多大な功績を挙げた。剣客としてだけでなく、江戸初期の薩摩藩を支えた吏僚としても重要な人物である。40余歳で師範を長子に譲り、示現山能学寺の近くに住む。
長子の重利が跡を継いだ。
墓所は父と同じく曹洞宗松原山南林寺。法名は雄山州英庵主。
親族、家族[編集]
余談[編集]
- 「平姓東郷氏支族系図」では重方は鹿児島近在武村[3]に小寺を建てて、父と善吉和尚の碑を安置し、この寺の名を父の法名(能学俊芸庵主)をとって能学寺としたとある。なお、「三国名勝図会」ではこの寺を、示現山能学寺といい、寛永16年に武重宗の父、武五郎右衛門が開基し、初め松陰軒と称し、曹洞宗玉龍山福昌寺の末寺であった。承応2年に東郷重位と善吉和尚の碑を安置して能学寺と改め、宝永4年に志布志の臨済宗大慈寺末寺となる。明治初年に廃寺。
- 「鹿児島市史Ⅲ」の「古記」によると、重方は私領のうち、高20石の納米を毎年、能学寺に寄附したという。
- また、「鹿児島城下絵図散歩」では今の鹿児島市下荒田1丁目の地に能学寺があり、広さは490坪だったらしい[要出典]。
脚注[編集]
- ^ 慶安2年(1649年)に猪俣則康とともに薩摩藩初代郡奉行に就任(職掌紀元)し、重方は万治元年まで同職に就いた。
- ^ 任期は明暦2年2月-明暦9年まで
- ^ 現在の鹿児島市西田や武、天保山等を含む地域
参考文献[編集]
- 鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
- 「鹿児島県史料集IV 諸家大概ほか」
- 本田親礼「平姓東郷氏氏族系図」(天明2年11月 鹿児島県立図書館蔵)
- 「坊津町郷土史」」
- 塩満郁夫、友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』
- 「鹿児島市史Ⅲ」