東條かつ子

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夫の元内閣総理大臣東條英機とかつ子。中央は孫娘の由布子1941年)。
父親の伊藤万太郎

東條かつ子(とうじょう かつこ、1890年明治23年)10月8日 - 1982年昭和57年)5月29日)は、第40代内閣総理大臣東條英機の妻である。英機との間に7人の子供をもうけた。通称に勝子

人物[編集]

福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)出身で、地元の長者の伊藤万太郎の娘。かつ子は小倉高等女学校(現・福岡県立小倉西高等学校)時代に万徳寺(英機の母・千歳の実家で、縁戚であった)に下宿していた。1906年(明治39年)に日本女子大学校国文科に入学のため上京。英機の父・英教に保証人になってもらい、東條家に出入りしていた。

1909年(明治42年)4月11日陸軍歩兵中尉だった東條英機と学生結婚する。結婚後も通学するも、家事に追われて中退した。

終戦後、英機は次女と三女はかつ子の実家に行かせるなど、子供らを家から避難させたが、かつ子は夫の勧めにもかかわらず自宅を離れなかった。1945年(昭和20年)9月11日、米軍MPの急襲直前、英機の指示によりかつ子は隣家に身を寄せ、英機の自殺未遂の際には隣家でその気配を聴くばかりであった。この自殺未遂も含めて、終戦後に東條英機は世論から激しい非難を受けており、かつ子も新聞記者に追われ、捏造された発言が報道されたりしていた。後にかつ子は、自分たちがこうした目に遭ったことも、戦争の犠牲者のことを思えば苦になることでないと発言している。

熱心な浄土真宗の信者であった。巣鴨拘置所に収監された東條英機が仏教に帰依した理由に、かつ子の影響があったといわれている。

戦後、かつ子はほとんど取材を受けていなかったが、1976年(昭和51年)ごろにノンフィクション作家の保坂正康に取材を受けている。

参考文献[編集]

  • 保阪正康『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫、2005年) ISBN 978-4480421630
  • 保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年) ISBN 4-04-355603-9
    「東條英機」と東條家の戦後 p126〜p152 
  • ロバート・J・ビュートー『東條英機(下)』時事通信社 1961年
  • 『「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻』 文藝春秋 1988年
    東條勝子「戦後の道は遠かった」(39・6)
  • 東條由布子『東條家の母子草』恒文社21 2003年
  • 佐藤早苗『東条かつ子の生涯ー"A級戦犯"の妻としてー』時事通信社 1987年
先代:
近衞千代子
内閣総理大臣夫人
1941年 - 1944年
次代:
小磯馨子