東日興業

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東日興業株式会社
Tonichi Kogyo K.K.
種類 株式会社
市場情報 非上場 / 買収消滅
本社所在地 日本の旗 日本
100-0006
東京都千代田区有楽町1-12
毎日新聞東京本社内
設立 1949年12月
業種 サービス業
事業内容 ニュース映画、劇映画の製作
代表者 鈴木郁三
主要株主 毎日新聞社
主要子会社 東日興業スタジオ 事業所
関係する人物 清川峰輔
特記事項:1952年 売却
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東日興業株式会社(とうにちこうぎょう-)は、かつて存在した日本の映画制作プロダクションである。日本初のアメリカ合衆国との合作映画『東京ファイル212』を製作したことで知られる。

1949年昭和24年)12月に設立[1]、翌1950年(昭和25年)9月、東日興業スタジオを開設したが[1]1952年(昭和27年)には東宝資本に売却され、東京映画となって消滅した[1]

データ[編集]

本店
撮影所

略歴・概要[編集]

1949年(昭和24年)12月、鈴木郁三が東京・有楽町の毎日新聞東京本社内に設立した[2]。鈴木は、前年に東京民報社の代表に就任し、「東京民報」を「東京日日新聞」に、社名も東京日日新聞社に改称した人物で、1946年(昭和21年)には現在の世界文化社の前身となる企業を設立している。同年同月、社内に保険部を設立、損害保険代理業を始める[3]

翌1950年(昭和25年)初頭、新演伎座と製作提携し、設立第1作『傷だらけの男』の製作に着手する[4]。主演は長谷川一夫八住利雄のオリジナル脚本を得て、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)が監督した[4]。撮影は同年1月に製作を再開した東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)を使用しようとしたが、東宝争議以来の荒れ放題で思うようにセットが建たず、有楽町の日本劇場(現在の有楽町センタービル)の地下をスラムに見立てて、ロケセット撮影を行った[4]。同作は、同年4月9日に東宝の配給で公開された[4]

同年7月、アメリカのNBCテレビが製作したニュース映画を購入する契約を取り付け、その日本版の製作を開始、作品は大映が配給した。同年9月、目黒駅山手線内側に位置する品川区上大崎二丁目の旧・陸軍大学校の敷地の一部を払い下げ、同地に東日興業スタジオを開設した[1]。同年、アメリカの映画プロデューサーで、フランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』(1934年)に出演したこともあるという俳優ジョージ・ブレイクストンと契約を結び、日本初の日米合作映画『東京ファイル212』の製作に着手する[2]。日本側からは斎藤達雄灰田勝彦ハヤフサヒデトらが出演した[5]。翌1951年(昭和26年)1月26日に東京映画配給(現在の東映の前身の一社)が配給して公開された[5]

同年7月、保険部を切り離し、毎日新聞生協保険部に業務を移管した[3]。この保険部は、現在の毎栄として存続している[3]

1952年(昭和27年)、同社はスタジオ資産も含めて東宝資本に売却され[6]、東宝は東京映画を設立、東日興業スタジオは東京映画撮影所(のちの日映新社撮影所)と名称を変更した[1][2]

フィルモグラフィ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e キネマ旬報』第698号、キネマ旬報社、1976年、p.475.
  2. ^ a b c d 『日本映画発達史 III』、田中純一郎中公文庫、1980年 ISBN 4122003059, p.354.
  3. ^ a b c 会社概要・沿革毎栄、2009年11月15日閲覧。
  4. ^ a b c d 『映画渡世・地の巻 - マキノ雅弘自伝』、マキノ雅弘平凡社、1977年、p.250-258.
  5. ^ a b 東京ファイル212、キネマ旬報、2009年11月15日閲覧。
  6. ^ 『日活五十年史』、日活、1962年、p.103.

外部リンク[編集]