東方会議 (1927年)

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東方会議の様子。右から3人目が田中義一(総理兼外相)

東方会議(とうほうかいぎ)は、1927年(昭和2年)6月27日から7月7日まで、東京の外務大臣官邸で開かれた会議。大日本帝国政府の中国大陸政策についての議論が行われ、いわゆる幣原外交を是正する「対支政策綱領」が発表された。

経緯[編集]

1920年代当時、中原は旧清朝崩壊後の混乱状態にあり、群雄割拠する軍閥が、大陸内に租界などの権益を持つ列強各国と結びつき、互いに対立していた。

その最中、軍閥の一つである蔣介石を総司令とする国民革命軍は、中原統一を志して、1926年(大正15年)7月に北伐を開始、9月初旬には漢陽漢口を占領、10月には武昌に入り揚子江を制圧した。翌1927年(昭和2年)3月には上海南京が占領された。3月24日南京になだれ込んだ北伐軍は在留外国人に対し暴行掠奪を行う南京事件が発生した。米英の軍艦3隻は射撃をあびせ、陸戦隊を上陸させるなど、居留民の保護にあたったが、当時の日本(第1次若槻内閣)は幣原喜重郎外相によるいわゆる幣原外交を党是としており、日本海軍は幣原外交の指令にもとづいて、北伐軍兵士の暴行と狼藉を傍観するのみであった。このため、幣原外交は「弱腰外交」として痛烈に非難された。

1927年4月、若槻内閣は昭和金融恐慌への対処を誤って崩壊し、田中義一内閣が成立(外相は田中義一首相が兼任)。田中内閣は幣原外交からの脱却を図り(強硬外交)、居留民保護のために、山東省に兵を送った(山東出兵)。

そして同年6月、外務大臣官邸に閣僚・外務省幹部、軍幹部、現地外交官幹部などが集められ、対中国政策についての方針を決めるための会議が開かれた。

出席者[編集]

当初は6月16日開会の予定であったが、在外公館の関係者の帰朝が現地情勢の緊迫化によって遅れたため、11日繰り下げられた。

議事内容[編集]

上記出席者の意見陳述及び討議の結果は、以下のとおりである。

大陸情勢についての認識[編集]

  • 中原情勢について。蒋介石軍閥は、ソビエト連邦との連携(国共合作)の是非をめぐって分裂し、容共派の汪兆銘武漢に独自の勢力を築いている。汪派は、分裂当初に頻発していた過激分子の暴発は抑えられ、体制が整いつつある。汪派が共産党分子と手を切ることがあれば、蒋汪両派再統一の可能性はある。しかし仮に統一しても、軍閥内の野心的対立に起因する闘争の懸念は依然として存在し続ける。
  • 蔣による北伐は、汪派との再合流や共産主義勢力の一掃などに蹴りがついたら、必ず再開される。日本が支援する北方の張作霖は、劣勢である。

今後の大陸政策について[編集]

南方
当分は軍閥間の抗争が続くが、特定軍閥への肩入れは成果を得難く、強権的に合同させるのも、軍閥間の対立から、混乱を引き起こす。穏健公正、地元民衆への同情的態度をとることで、官民の信頼を勝ち取るのが、長期的には望ましい。中原の民衆間での自治の機運が高まるのを待つべきである。
民衆レベルでの自治が根付くまでは、当面は、蔣・汪両派合同後の国民党勢力をとりあえずの"民意"とみなして、これを対手するのが良い。ただし、共産主義勢力の伸長は断固として抑えるべきである。
北方
東三省は、日本の権益の都合上、特別の取り扱いを行うべきである。ただし、従来のように、張作霖軍閥を盲目に支援するのではなく、張閥の自立を期する方向で臨むこと。また、中原政権による潜在主権を尊重すること。
共産主義の浸透や中原情勢の影響を受けることによる動揺に注意を払うこと。

田中首相訓示[編集]

会議最終日、田中首相兼外相より、訓示が発せられた。概要は以下。

  • 大陸情勢の安定は民衆の自発的意思によるべきであり、特定党派への肩入れは慎むべきである。
  • 穏健分子による政情安定は民衆、列強の希望するところである、我が国としても協力すべきである。
  • 統一政府の短期の成立は困難であり、当面は各地の穏健分子の統合を待つべきである。
  • 統一政権樹立の暁は、その出自を問わずこれを歓迎、助成に当たるべきである。
  • 不逞分子の暴動に対し、現地軍閥の取り締まりが不十分の時は、断固として在留邦人の保護にあたるべきである。
  • デマによる現地の対日感情の悪化は排除するべきである。
  • 満蒙・東三省について、門戸開放が本邦の権益に資するならば、これを歓迎する。
  • 満蒙において、中原の動乱が波及した折には、断固として在留邦人の保護にあたるべきである。

脚注[編集]


外部リンク[編集]

関連項目[編集]