東急5200系電車

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東急5200系電車
大井町線時代の東急5200系電車2両目に5000系デハ5117が組み込まれている(1985年2月、緑が丘駅)
大井町線時代の東急5200系電車
2両目に5000系デハ5117が組み込まれている
(1985年2月、緑が丘駅)
基本情報
製造所 東急車輛製造
主要諸元
編成 3両または4両
軌間 1067 mm
電気方式 直流1,500V
架空電車線方式
車両定員 先頭車130(座席54)人
中間140(座席60)人
車両重量 デハ5200形(Mc) - 29.5t[1]
デハ5210形(M) - 29.0t[1]
サハ5250形(T) - 21.0t[1]
全長 18,000 mm
車体長 17,500 mm
全幅 2,744 mm
車体幅 2,744 mm
全高 4,118 mm
車体高 3,934 mm
台車 TS-301
変速段 弱め界磁起動1段、直列12段、渡り2段、並列11段、弱め界磁3段、発電制動20段
主電動機 SE-518形(定格出力110kW/端子電圧750V)
主電動機出力 110kW
駆動方式 直角カルダン駆動方式
歯車比 52:9 (5.78)
制御装置 東芝PE-11B形電動カム軸式抵抗制御器
制動装置 AMCD、手ブレーキ
保安装置 東急形ATS
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東急5200系電車(とうきゅう5200けいでんしゃ)は、1958年昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて東急車輛製造で合計4両が製造され[2]1986年(昭和61年)まで東京急行電鉄に在籍していた通勤形電車である[3]

日本最初のステンレス鋼製車体の電車であり[4]、外板に多数のコルゲーションが入っていた外観から、「湯たんぽ」、あるいは5000系「青ガエル」のステンレス版であることから「ステンレスガエル」などの愛称が付けられた(ただし東急の公式な愛称ではない)が、6000系の登場以降は、「湯たんぽ」は6000系の愛称となり、「ステンレスガエル」がより定着していった[5]

概要[編集]

国鉄サロ153形900番台と並び電車としては日本で初めて、車体外板にステンレス鋼を用いた。1958年に東急車輛製造で(←渋谷)デハ5201-サハ5251-デハ5202の3両が製造され、同年12月1日から営業運転を開始した。

基本性能は5000系と同一であるが、5000系が軽量効果の高いモノコック構造を採用していたのに対し、当系列は通常の構造だったため、重量は超軽量車の5000系よりむしろ重くなった。骨組みは普通鋼であり、一般にセミステンレス車両と呼ばれるものである。狙いとしては無塗装によるメンテナンスフリー化と腐食しないため部材を薄くできることがあった。なお扉と窓の配置は5000系と同じだが、車両全長は5000系の18.5mに対し0.5m短い18mである。客用扉は落成時点では窓ガラス面積が大きいものを採用していた。

変わった特徴としては、2段式の客室窓がつるべ構造になっていた点がある。内窓を上げるとワイヤーで連動した外窓が下がって上下で通風できるようになっていたが、後に通常の窓構造に改造された。1972年(昭和47年)の更新工事の際には室内の強制送風機も扇風機に変更され、客用扉も小窓のものに交換された。デハ5202号は1977年(昭和52年)に接触事故にあい、その際の復旧時に前面下部のコルゲーションが3本なくなり、顔つきが変わった。

導入当初は東横線で使用され、1959年(昭和34年)には中間電動車デハ5211を増結して4両編成となった。1964年(昭和39年)には田園都市線へ転属。1979年(昭和54年)3月には中間に5000系デハ5117号を挟み5両編成となり、1両だけ色違い、形違いと編成美が崩れたが、同年8月の田園都市線・新玉川線の直通化により大井町 - 二子玉川園(現・二子玉川)間が大井町線として分断された際、東横線に転属となり、桜木町方に5000系2連(デハ5054 - デハ5050)を併結した6連で運用された。しかし1980年(昭和55年)の東横線5000系運用終了と同時に大井町線に復帰した。その際には再びデハ5117号を組み込み5両編成[注釈 1]となったため、1両だけ緑塗装車が組成される珍編成が復活し目立つ存在だった[7]。先頭車の前照灯は当初白熱電球1灯だったが、1983年(昭和58年)3月には6000系とともにシールドビーム2灯化された。同年8月には2度目の更新で台枠を補修し、車体側面下部のコルゲーションが3本なくなり、戸袋窓も一回り小さくなった。1985年(昭和60年)6月には大井町線の5000系運用終了に伴い5200系も目蒲線に転属し、サハ5251号を抜いた全電動車3両編成で運用されたが[注釈 2]、1986年(昭和61年)5月に5000系ともども運用終了となった。

1986年(昭和61年)に上田交通(現・上田電鉄)の架線電圧1500V昇圧に伴って5000系とともに譲渡され、モハ5201 - クハ5251(デハ5202を電装解除)の編成となったが、1993年平成5年)、7200系への一斉置き換えに伴い営業運転を終了した。

デハ5201号は東急に返還され、長津田検車区に保存されていたが、その後東急車輛製造横浜製作所(現・総合車両製作所横浜事業所)の構内に保存され、「東急車輛産業遺産制度」の第1号として永久保存されることが決定した[8][9]。現地では、2009年8月に同遺産に指定された東急7000系デハ7052号と背中合わせで保存されている[10]。なお、この2両は2010年5月15日に産業考古学会(JIAS)から推薦産業遺産の認定を受けている[11]ほか、2012年8月7日に日本機械学会から機械遺産第51号(2012年度認定分の一つ)の認定を受けた[12]

その他の車体は先頭車クハ5251号と中間車1両(最初にデハ5211号が、後釜にサハ5251号が→サハ5202に改番)ずつ計2両が上田電鉄の下之郷電車庫で倉庫として使用されていたが、のちに中間車は解体され、先頭車のみが倉庫として使用・静態保存されている。その後、この先頭車は2006年にイベント用として松本電気鉄道(現・アルピコ交通)からパンタグラフを譲り受けて装着し、東急時代の状態に復元された。

車両一覧[編集]

上田交通に譲渡された5200系
(2006年5月6日、下之郷車庫)

下表は、全車両の竣功日と東急での廃車日、そして処遇の対照表である。デハ5117のみ5000系であるが、編成に含まれていた時期があるため参考として記載する。上田交通での処遇については本文も参照のこと。

車両番号 竣功日[2] 廃車日(東急)[3] 処遇
デハ5201 1958年12月5日 1986年7月28日 上田交通(モハ5201)[3]
デハ5202 1958年12月5日 1986年7月28日 上田交通(クハ5251)[3]
サハ5251 1958年12月1日 1986年9月4日 東急から直接廃車[3]
デハ5211 1959年11月5日 1986年7月28日 上田交通(倉庫として利用)[13]
デハ5117 1958年4月23日 1986年3月19日 東急から直接廃車[3]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時の大井町線は20m車5両編成か18m車6両編成が多くを占めていたが、5000系列のみ18m級の車両にも関わらず5両編成であった。18m車6両が108mなのに対し20m車5両は100mと短い反面、18.5mの5000系は6両で111mに及び踏切や信号などの設備に影響があった。5200系は18mだったが5000系列として5000系に合わせていた[6]
  2. ^ それ以前の1983年(昭和58年)6月にも1週間ほど目蒲線に応援に入り運用されており、このときは登場時と同じMTMの編成であった。これは池上線で事故が発生したことによるものであった。

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍[編集]

雑誌記事[編集]

  • 金子智治、焼田健「東京急行電鉄 現有車両プロフィール2004」、『鉄道ピクトリアル』第749号、電気車研究会、2004年7月、 195-243頁。
  • T記者「お手並み拝見〔48〕 わが国初のステンレスカー東急で新造」、『電気車の科学』第129号、鉄道図書刊行会、1959年1月、 34-35頁。
  • 「東京急行電鉄 社歴表」、『鉄道ピクトリアル』第749号、電気車研究会、2004年7月、 245-261頁。
  • 「2010年度功労者表彰・推薦産業遺産」、『産業考古学』第136号、産業考古学会、2010年6月、 42-43頁。

関連項目[編集]