東京倶楽部

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一般社団法人東京倶楽部(とうきょうくらぶ)は、日本の会員制社交クラブ1884年(明治17年)5月14日開設。交詢社日本倶楽部などと並び、日本の社交クラブの草分けとして知られる。会員は旧華族や皇族の他、政・財・官の大物など多岐にわたる[注釈 1]。「立派な紳士であること」が入会条件。

歴史[編集]

日本が日英修好通商条約の改正に取り組んでいた時代に、イギリスの駐日大使ハリー・パークスビクトリア女王に宛てて「日本は紳士が集う社交クラブがない野蛮国」といった内容の書簡を送ったという情報を聞きつけた明治天皇が、イギリスに留学経験のある伊藤博文から社交クラブに関する情報を集め、外務卿鹿鳴館の設立者井上馨に命じて作らせ、「内外人の交際を一層親密ならしめんとの旨趣」[1]が鹿鳴館の設立意図とも重なる事から、同館の一室に拠点を置いた。設立当初の会員は75人。

1908年(明治41年)に社団法人として認可され、1912年(大正元年)に麹町(現・霞が関)の国有地に赤レンガのビルを建築し、拠点を移動。1945年(昭和20年)に東京大空襲でビルが焼けて、クラブの今後が危ぶまれたが、跡地にバラックを建てて活動を再開。その後、吉田茂から国有地を払い下げてもらい、1964年(昭和39年)に地上6階地下1階の自己保有ビル「東京倶楽部ビルディング」を同地に建設し、5・6階に拠点を移動。1980年代にはその他の階をアリタリア航空ルフトハンザ航空などに貸し、また、麻布に土地を購入してトヨタに貸すなどし、不動産収入により国際親善事業を行っていた。

近隣の再開発計画が進行し、2000年代半ばに東京倶楽部は六本木に拠点を移した。2007年(平成19年)には「東京倶楽部ビルディング」が地上14階地下1階のビルとして同地(霞ヶ関)に新築された。

エピソード[編集]

  • 1980年代半ばまで、設立当初に参考にした英国の社交クラブの「女人禁制」の伝統を受け継いでいた。ただし、当の英国は1970年代から徐々に方針転換し、1980年代初頭には超保守的なカールトン・クラブでさえマーガレット・サッチャーの入会を認めている。
  • 会員の田中銀之助赤星鉄馬今村繁三は、新柳二橋で若い頃から評判客だった[2]

相互利用[編集]

このクラブは会員のほか、「Reciprocal club」と呼ばれる、友好関係にある他の同種のクラブとの一時的な相互利用を認めている。海外の同種のクラブが大半であり、以下のクラブとの間に協定を結んでいる。 なお、利用の条件等はクラブ同士でかわされる協定によって異なる。

参考文献[編集]

  • 太陽』 1983年10月号 (平凡社) - 『東京倶楽部』を探訪する P.17-19

出典[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 極東国際軍事裁判で日本側の弁護を務めたG・A・ファーネス、小説家の藤島泰輔などが入会していたこともある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]