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杜譲能

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杜 譲能(と じょうのう、841年 - 893年)は、唐代官僚政治家は群懿。本貫京兆府万年県

経歴

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杜審権と李琛(李翺の娘)のあいだの子として生まれた。杜如晦の叔父の杜淹の八世の孫にあたる。崔程の娘たちが美しく徳があると耳にして、杜譲能と娶せようとしたところ、最終的に、崔程は従兄弟の娘を杜譲能に嫁がせた。

咸通14年(873年)、進士に及第し、宣武軍節度使の王鐸の下で宣武軍節度推官となった。中書舎人翰林学士を歴任した。中和4年(884年)、兵部尚書に任じられ、建平県子に封じられた。龍紀元年(889年)、尚書左僕射に任じられ、晋国公に進封された。大順元年(890年)、太尉となった。

景福2年(893年)、鳳翔節度使の李茂貞が不遜であり、その無法に耐えられなくなったことを理由に、昭宗が李茂貞を討伐するために出兵しようとすると、杜譲能はこれに反対し、「李茂貞の領地は大きく、兵は強いため、唐の朝廷の力では未だ李茂貞を討つことができません。また、李茂貞の本拠地の鳳翔府は京師に近いため、自らを危険に晒すことは簡単ですが、後悔するという難を生じるため、かつて鼂錯を誅殺しようとしたが達成できなかったときのことを想起して、今回もそのようになることを恐れています」と述べた。昭宗は杜譲能の諫言を聞かず、杜譲能に命じて禁軍の兵3万人を統率させ、鳳翔府に迫った。李茂貞は、6万の兵馬を率いてこれを迎撃した。後に禁軍が大敗すると、李茂貞は、宰相を殺害する詔書を発するよう昭宗に対して要求し、9月20日、西門君遂李周潼段詡ら3人を殺害するところとなった。李茂貞は兵を退却させず、京師に進軍すると放言し、勝利に乗じて三橋に至った。杜譲能は自らの死を覚悟し、「臣は死をもって難を解くことを願います」と述べた。昭宗は涙を流し、「卿の決めたとおりにせよ」と述べた。また、杜譲能は雷州司戸参軍に左遷された。10月1日、杜譲能と戸部侍郎杜弘徽兄弟は、死を賜った。『新唐書』では、杜譲能の弟の杜彦林もまた害せられたと記載されているが、これは誤りである。

家族

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  • 長男:杜光義(字は啓之)
  • 次男:杜暁(字は明遠。後梁の中書侍郎・同中書門下平章事)

参考文献

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