村田吉次

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村田吉次
村田出羽吉次(福岡市博物館蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄8年(1565年
死没 元和7年10月29日1621年12月12日
改名 井口与一助→井口吉次→村田吉次
別名 通称:兵助
官位 出羽守
主君 黒田孝高長政
筑前福岡藩
氏族 井口氏村田氏
父母 父:井口与次右衛門
母:広峯神社の神主の娘
兄弟 男子三人、吉次
黒田武俊
吉常、正治、三太夫、七之助
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村田 吉次(むらた よしつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将筑前国福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は兵助出羽守

略歴[編集]

永禄8年(1565年)、井口(いのくち)与次右衛門の四男として誕生。

三人の兄はいずれも黒田孝高の家臣となり、若年のうちに戦死している。天正5年(1577年)より同様に孝高に仕え、同年に孝高の子・松寿丸(後の黒田長政)が人質として羽柴秀吉に預けられた際、付き人として長浜城に同行した。

天正8年(1580年)元服して兵助と名乗り、英賀城攻めで初陣。天正12年(1584年)の岸和田合戦の際には、敵に忍び寄って相手を殺害し、相手の武具・刀・槍・馬を奪って戻ったという。天正16年(1588年)、豊前国で250石を拝領。文禄・慶長の役では足軽大頭を務めた。

慶長5年(1600年)、孝高が鍋島直茂の陣営を訪れた際に同行。この際、直茂が家臣の村田隠岐を「今まで一度も傷を負ったことが無い武士」と紹介した。それに対して孝高は吉次の兄三人が討死したことに触れ、幸運な村田隠岐にあやかって吉次に村田の姓を頂けるように願い、当人から許されたため、これ以後「村田」の姓を名乗ることとなる。

慶長6年(1601年)、黒田氏の筑前入国後に夜須郡2,000石を拝領し、桐山信行の組下に置かれる。慶長9年(1604年)の孝高の没後、「出羽守」を称し、大組頭となった。元和6年(1620年)の大坂城再建工事では石垣を担当したが、その石材を運搬する際に吉田重成の組と道でかち合い、諍いを起こしている。

元和7年(1621年)10月29日、死去。享年57。

人物[編集]

宝蔵院流槍術の免許皆伝であった。また、粗暴な性格で、「気に食わない」という理由で自身の領内の80人余りの首を斬ったり、家臣が暇を乞うと長屋牢に閉じ込めたり、吉次を恐れて逃亡すればその一族の者の首を刎ねたり、罪人を生きたまま斬り刻んだりしたという。

出典[編集]