コンテンツにスキップ

村岡耕一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村岡 耕一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県佐賀市
生年月日 (1960-07-17) 1960年7月17日(64歳)
身長
体重
172 cm
67 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 内野手
プロ入り 1981年 ドラフト3位
初出場 1983年10月10日
最終出場 1990年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

村岡 耕一(むらおか こういち、1960年7月17日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴

[編集]

1960年7月17日佐賀県佐賀市で生まれる。大分県立日田林工高等学校では遊撃手として1978年第60回全国高等学校野球選手権大会に出場するが、3回戦(対天理高等学校)で敗退する。卒業後は社会人野球電電九州に入社し、1980年第51回都市対抗野球大会1981年第52回都市対抗野球大会に連続出場を果たした[1]。同僚にはのちに1981年のドラフト会議において阪急ブレーブスから指名される南牟礼豊蔵、村岡と同時に横浜大洋ホエールズへ入団する右田一彦が在籍していた。

同年のプロ野球ドラフト会議横浜大洋ホエールズから3巡目で指名され、入団する。2年目の1983年に一軍初出場を果たすと1984年以降は一軍に定着し、1985年には自己最多となる103試合に出場した。遊撃手ながら二塁・三塁もこなせる器用さと走力を武器に活躍し、1988年には二塁手三塁手で18試合に先発出場し、うち11試合は2番で起用された。テレビ番組の「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」では、自軍ベンチへファールを打ち込み、次の球では加藤博一がベンチ内でファールを捕球しようとグラブを持って構える姿が取り上げられた(結果は見逃し三振)。

1990年の開幕直前に、駒崎幸一青山道雄秋元宏作との交換トレードで、河野誉彦と共に西武ライオンズへ移籍した。西武では不振の田辺徳雄に代わって起用されるなど、代走および守備要員として戦力となった。同年の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)においても第3戦の8回裏に、指名打者の安部理の代走として起用された。

1991年は一軍出場が無く、同年を最後に現役を引退した。引退後はマスターズリーグ大阪ロマンズ東京ドリームスに所属したほか、少年野球の指導を担当している。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1983 大洋 3 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1984 62 42 34 7 5 3 0 0 8 0 2 0 6 0 2 0 0 7 1 .147 .194 .235 .430
1985 103 94 78 29 16 4 0 0 20 3 8 6 7 0 7 0 2 13 0 .205 .287 .256 .544
1986 89 84 72 14 12 0 0 0 12 3 12 2 9 0 2 1 1 10 0 .167 .200 .167 .367
1987 18 17 14 5 2 1 0 1 6 2 1 0 2 0 1 0 0 2 0 .143 .200 .429 .629
1988 63 107 91 18 21 1 0 0 22 5 7 1 7 0 8 0 1 16 0 .231 .300 .242 .542
1989 51 98 82 10 20 4 0 1 27 4 4 4 7 0 9 0 0 10 1 .244 .319 .329 .648
1990 西武 58 46 32 8 4 2 0 0 6 1 6 0 5 0 9 0 0 5 1 .125 .317 .188 .505
通算:8年 447 489 404 91 80 15 0 2 101 18 40 13 43 0 38 1 4 63 3 .198 .274 .250 .524

記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 43 (1982年 - 1987年)
  • 45 (1988年 - 1989年)
  • 14 (1990年 - 1991年)

脚注

[編集]
  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]