李英和

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李英和
各種表記
ハングル 리영화
漢字 李英和
発音: リ ヨンファ[1]
日本語読み: り えいか
ローマ字 Lee Yonghwa[2]
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李 英和(リ・ヨンファ、朝鮮語: 리 영화1954年(昭和29年)[2] - 2020年(令和2年)3月28日)は、在日朝鮮人北朝鮮研究者。2005年(平成17年)4月1日から関西大学経済学部教授[3][4]。専攻は北朝鮮社会経済論。「在日党」(略称)代表でもあった[1]

人物・経歴[編集]

1954年(昭和29年)、在日朝鮮人3世として大阪府堺市に生まれる[5]大阪府立堺工業高等学校卒業後、溶接工を勤めながら関西大学夜間部入学[1]。在学中は反スターリン主義のノンセクトラディカルズとして活動したが、民主青年同盟と激突したことで、所属していた朝鮮総連系の留学同(在日本朝鮮留学生同盟中央本部)を除名された[1]。関西大学大学院博士課程修了[5](経済学専攻[2])。その後、関西大学経済学部の助手に採用された[1]

関西大学専任講師だった1991年(平成3年)4月から12月まで、開発経済学者として平壌朝鮮社会科学院への短期留学を経験する[6][注釈 1]。当時、「北朝鮮留学第1号」として毎日新聞が大きく報道した[6]。以後、第2号はいないので、彼が唯一である。

平壌留学では、北朝鮮国家の極端な個人崇拝と監視社会の実態や経済破綻を知り失望する。そして、危険を冒して集会を行う反体制知識人とも接触したと証言している[5]。帰国後の1993年(平成5年)、北朝鮮民主化を目指す「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)を結成し、代表を務める[2]

1997年(平成9年)、北朝鮮の最高人民会議代議員選挙に金正日に対抗して立候補届を在日本朝鮮人総聯合会に郵送したが、受け取りを拒否された。

2003年(平成15年)から2004年(平成16年)にかけて、韓国で発売禁止となった李友情著『マンガ金正日入門』シリーズの日本語訳・監修を担当した。

2020年令和2年)3月28日、死去。65歳没[7][8][9]

拉致問題について[編集]

平壌留学の経験もある李英和は、1950年代から1960年代にかけては、日本から在日韓国・朝鮮人が拉致されたケースが少なくなかったと述べ、具体例として、留学中に出会ったある在日男性から「中学生のとき、米国の遊園地に行こうと誘われて日本を出たが、着いたのは北朝鮮。そのまま日本発行の再入国許可証と外国人登録証を取り上げられ「代わりの人間が日本へ渡ったから、もうお前は戻れない」と宣告されたという話を紹介している[10]。李英和は、これについて、在日が忽然と姿を消しても日本人ほどの騒動にはならないという計算も働いていただろうと分析している[10]。なお、李英和は帰国直前の1991年11月に朝鮮社会科学院の教官から、詳細な「拉致講義」を受けている[6]

それによれば、北朝鮮工作機関による計画的な日本人拉致作戦は、1976年から1987年の間に金正日総書記の指示で実行したもので、背景には1971年からの「人民経済発展6か年計画」など計画経済の失敗があり、金正日が汚名挽回のために打ち出した新機軸として「対南テロ作戦」(経済破綻で全面戦争ができなくなったので、代替として韓国を標的に立案したテロ作戦)を発動したことがある―など、1992年当時としては驚くべき内容であり、李英和は帰国後この内容を秘かに日本政府に伝えたが、当時の政府はほとんど無反応で、聞く耳さえ持たなかったという[6][注釈 2]

外国人参政権運動[編集]

外国人参政権運動にも熱心で、関西大学専任講師時代の1992年(平成4年)6月に政治団体「在日外国人参政権'92」(略称:在日党)を設立し代表に就任。同団体から同年7月の第16回参議院議員通常選挙に立候補しようとしたが、届出を受理されなかった。1993年2月、李は不受理を不服として大阪地裁へ提訴をおこなったが、1994年12月に棄却された(李は大阪高裁へ控訴)[11]。以降、国政選挙で何度か「在日党」公認候補として立候補の届出をしようとし、受理されないという事が繰り返されている。手続き不受理となった後、外国人参政権の必要性を訴える街頭演説を行うのが定番となっていた。

「収容所国家」とRENK[編集]

短期留学で北朝鮮に入国してみると、金日成・金正日に対するあまりに極端な個人崇拝や監視社会の実態、あるいは庶民生活の経済破綻を知るに及び、同国に激しい失望の念をいだいたという[6]。この経験が、のちの一連の著作につながっている。帰国後の1993年に高英起とともに立ち上げた「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)では脱北者の支援や北朝鮮内部の資料、映像を世界へ公開する活動を展開した。

金正日および「収容所国家」と化した北朝鮮の国家体制に対しては厳しい批判を寄せる一方、北朝鮮民衆に対しては温かい思いをいだきつづけ、支援を呼びかけてきた。また、金大中よりはじまる韓国の対北宥和政策、いわゆる「太陽政策」にはきわめて批判的である。

著書[編集]

単著[編集]

  • 『在日韓国・朝鮮人と参政権』明石書店〈双書在日韓国・朝鮮人の法律問題 3〉、1993年11月。ISBN 4-7503-0556-1
  • 『北朝鮮秘密集会の夜 留学生が明かす“素顔”の祖国』クレスト社〈Crest〉、1994年4月。ISBN 4-87712-014-9
  • 『北朝鮮収容所半島』小学館、1995年6月。ISBN 4-09-389461-2
  • 『朝鮮総連と収容所共和国』小学館〈小学館文庫〉、1999年9月。ISBN 4-09-403431-5
  • 『極秘潜入 金正日政権深奥からの決死レポート』小学館、2003年8月。ISBN 4-09-389462-0
  • 『暴走国家・北朝鮮の狙い 「金正日後」に本当の危機がやってくる』PHP研究所、2009年10月。ISBN 978-4-569-69962-2

共著[編集]

編著[編集]

日本語訳・監修[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ それまで誰にとっても考えられなかった北朝鮮留学が実現したのは、1990年9月26日の金丸訪朝団(自由民主党金丸信副総裁を代表とする朝鮮訪問団が金日成と会談)の効果といわれる[6]
  2. ^ 「拉致講義」によれば、金日成は拉致した日本人について「絶対に殺さず、生かして平壌に連れ帰れ。拉致被害者は平壌近郊で『中の上』の暮らしをさせるから、安心して拉致して連れ帰れ」という厳命を下していたという[6]。もし、無関係な日本人の民間人を殺害するようなことがあれば、新米工作員に心理的動揺をきたし、訓練の失敗につながる恐れがあるからであり、したがって、拉致被害者は誰も現場で殺害されたり、海洋に投棄されることなく平壌の工作機関の拠点まで生きて連れて来られた[6]。金日成は、平壌到着後も「絶対に死なせるな」との厳命を下し、工作機関は厳しい管理・監督責任を負わされるので、事故や病気での死亡を厳格に防いだため、ある意味、拉致被害者は「本人が死にたいと思っても、自殺もできない」という完全な管理下に置かれたという[6]

出典[編集]

参考文献 [編集]

関連項目[編集]