李秉衡

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李 秉衡(り へいこう、Li Bingheng1830年 - 1900年)は、末の官僚。字は鑑堂奉天省奉天府海城県出身。

県丞の地位を買い、やがて知県に昇進した。1879年冀州知州となり、飢饉に対処した。1881年永平知府となり、「北直隷第一の廉吏」と称された。張之洞の推薦で浙江按察使に抜擢されたが、任地に赴く前に広西按察使に転任となった。清仏戦争の際には補給と医局の開設にあたり、さらに馮子材とともにランソンフランス軍に勝利をおさめた。

1894年日清戦争が勃発すると山東巡撫に起用されたが、威海衛の防衛に失敗した。1897年大刀会がドイツ人宣教師を殺害する曹州教案が発生し、ドイツ公使の圧力で李平衡は山東巡撫を解任された。その後、四川総督に遷されたが、ドイツの圧力でまたも解任された。

1900年、長江水師大臣に起用された。同年、義和団の乱が発生すると、兵を率いて北京に入り、西太后に主戦論を説いた。そして楊村に出撃し、八カ国連合軍と戦ったが敗北し、通州に退いたところで自殺した。忠節の諡号が贈られた。

出典[編集]

先代
潘鼎新
広西巡撫
1885
次代
張曜
先代
張曜
広西巡撫
1886-1887
次代
沈秉成
先代
沈秉成
安徽巡撫
1894
次代
福潤(フルン)
先代
福潤(フルン)
山東巡撫
1894-1897
次代
張汝梅
先代
鹿伝霖
四川総督
1897
次代
裕禄(ユル)