李秀成

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李秀成像
忠王府(蘇州)
忠王府(蘇州)
忠王府(蘇州)
李秀成自述

李 秀成(り しゅうせい、Li Xiucheng1823年 - 1864年8月7日)は、太平天国の指導者の一人。

広西省藤県出身。客家人。太平天国軍が藤県を通過した際に、蜂起に参加した。1858年洪秀全が五軍主将を再建した際に、後軍主将となり、翌年に忠王に封ぜられた。1860年第二次江南大営攻略を成功させ、江蘇省南部を攻略、蘇州に忠王府を建てた。同年、蘇州には配下の慕王譚紹光を駐屯させ、自分は安慶の救援作戦に赴いた。李秀成は西進して武漢三鎮を攻撃したが失敗に終わり、安慶の包囲を解くことに失敗してしまった。1861年杭州を陥落させ、浙江省を次々を手中に収めていった。1862年上海を攻撃するが、清朝と外国人の抵抗にあって激戦となったが、清軍が天京(南京)を包囲したため、救援に赴くため撤退を余儀なくされた。1863年、洪秀全は天京の包囲を解くために、李秀成に長江を渡って安徽省を攻撃するよう命令を下したが、食糧不足のために失敗し、江南に退いた。この戦いで太平天国軍は大きな損失を出した。蘇州が陥落したのちは情勢が悪化し、李秀成は洪秀全に天京を放棄するように進言したが拒否された。それより李秀成は天京の守りについた。

1864年初めから天京は湘軍に包囲され、激しい攻防戦の末に7月に陥落すると幼天王洪天貴福を守って脱出したが、曽国荃率いる清軍に捕らえられた。処刑前の供述は『李秀成自述』として後世に伝えられている。

養子(一説に実子)に李容発がいる。