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李勣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李勣・『清宮殿蔵本』より

李 勣(り せき、開皇14年(594年) - 総章2年12月3日669年12月31日))は、中国軍人。原名は徐世勣。唐より国姓の李を授けられて李世勣となり、後に太宗李世民を避諱して李勣と改めた。懋功(ぼうこう)。本貫曹州離狐県李靖と共に初唐の名将とされ、高句麗征服など数々の功績を挙げた。

経歴

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出身

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末に滑州衛南県に移り住んだ。富家の出身で、多くの下僕を抱え、穀物の蓄えも豊富にあり、父の徐蓋とともに困窮した者を別け隔てなく援助した[1]

翟譲・李密に従う

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大業の末年、17歳の時に群盗の翟譲に従った。翟譲は徐世勣の案を採用して、地元での略奪を避け、宋郡・鄭郡の黄河を行き交う商船・旅船を襲って物資を手に入れ、勢力を拡大していった[2]

楊玄感の乱に参じた李密が雍丘に逃れてくると、翟譲を説得して李密を主君として推戴した。隋将王世充を奇計で破り、右武候大将軍・東海郡公となる[2]

当時、河南・山東地方で大水害が発生し、皇帝は飢えに苦しむ人々に黎陽倉の食糧を配給するよう命じたが、官吏が発布しなかったため、日に数万人もの民衆が亡くなっていた。徐世勣は李密に「天下の大乱の原因は飢えによるものです。黎陽倉を得ることができれば大事を成せるでしょう」と説き、同意を得た。黎陽倉を攻め落とし、倉を開いて人々に食糧を自由に取らせると、わずかの間に20万の兵が集まった[1]

大業14年(618年)3月に煬帝が宇文化及に殺害されると、李密は隋の恭帝侗に帰順し、徐世勣は右武候大将軍に任じられた。宇文化及が黎陽を攻めた際、徐世勣は黎陽倉の周囲に深い堀を設けて守りを固め、地下道から奇襲をかけて撃退した[1]

武徳元年(618年)10月、李密がに帰順して長安へ去ると、徐世勣は李密の旧領である河南・山東一帯を統治し、いかなる勢力にも帰属しなかった。そして長史の郭孝恪に言った。「この人々や土地はみな魏公(李密)のものだ。私がこれを献上すれば、主君の敗北を利用して自分の功績とすることになり、私はそれを恥とする。郡県の戸籍と軍人の数を記録してすべて魏公に報告しよう。魏公が自ら献上すれば、これは魏公の功績となる」。こうして李密に使者を派遣した。唐の高祖李淵は自分への上表がないことを不審に思ったが、その本意を知ると「徐世勣は恩徳を感じて功績を譲る、まことの純臣である」と喜び、黎陽総管・上柱国・萊国公に任じた。のちに右武候大将軍・曹国公に改め、国姓の李姓を与えた。河南・山東の兵を統率させ、王世充に備えさせた[1]

その後も李密のために黎陽を守っていたが、同年12月に李密が唐に叛いて殺されると、李淵に願い出て李密の遺体を引き取り、君臣の礼をもって黎陽山の西南に埋葬した[3]

唐の臣下として

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高祖時代

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武徳2年閏月(619年3月)、黎陽の民衆と河南十郡をもって唐に帰順し、黎州総管・曹国公となった。李姓を賜り李世勣と改名する[4]

同年、竇建德の攻撃を受けて黎陽が陥落し、李世勣は降伏した。父の徐蓋が人質となり、引き続き黎陽の守備を命じられたが、武徳3年(620年)に唐へ亡命した。武徳4年(621年)に秦王李世民に従って洛陽の王世充を討伐し、虎牢関で沈悦を降伏させ、王行本を捕らえた。竇建德・王世充を平定して帰還する時、李世民が上将、李世勣が下将となり、金色の甲冑を身につけて兵車に乗り、太廟に勝利を報告した[1]

また、李世民に従って劉黒闥徐円朗を破り、左監門大将軍に累進した。徐円朗が再び反乱を起こすと河南大総管となり、これを平定した。武徳7年(624年)に李孝恭輔公祏を討伐した際、李世勣は歩兵1万人を率いて淮河を渡り、寿陽を奪取し、江西の敵の砦を攻撃した。馮惠亮・陳正通を相次いで破り、輔公祏は平定された。武德8年(625年)に突厥并州に侵攻すると行軍総管となり、太谷で突厥を撃退した[1]

太宗時代

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貞観元年(627年)、李世民が即位すると并州都督に任命された。貞観3年(629年)には通漢道行軍総管となり、突厥の頡利可汗を白道で破った。突厥が和睦を請うと、唐は赦免の使者として唐倹を派遣したが、李世勣は李靖に「頡利が沙漠を渡って九姓鉄勒の庇護を受ければ追跡は難しくなってしまう。唐儉を遣わした今なら必ず警戒を緩めるはずだ。そこを襲撃すれば戦わずして賊を平定できる」と説いた。李靖は「韓信田横を滅ぼした策略そのものだ」と喜び、進軍して突厥を逃走させた。李世勣は沙漠へ逃れようとした頡利を阻み、その部族を降伏させて5万人以上を捕虜にした[1]

晋王李治(後の高宗)が并州大都督を遙任すると、李世勣は光禄大夫・并州大都督府長史となった。貞観11年(637年)に英国公に封ぜられる。并州を約16年間治め、厳正に職務を遂行した[1]。太宗はその働きを「煬帝は優れた人材を選んで辺境の防衛にあたらせるというやり方がわからなかった。ただ遠くまで長城を築き、多くの兵士を駐屯させたが、遂に何の役にも立たなかった。私はただ李世勣を晋陽へ置いているだけで、辺境が安寧になった。まさに、数千里の長城に勝る方法ではないか」と高く評価した。また、太宗は李世勣と李靖の功績について「李靖と李世勣の二人には白起の韓信、衛青霍去病といった名将も及ばないだろう」と賛辞した。

貞観15年(641年)に兵部尚書となった。長安へ赴任する前に薛延陀の大度設が李思摩の部落に侵攻したため、李世勣は朔州行軍総管に任じられて討伐に向かい、王の一人を斬り、首領と5万人以上を捕虜にした。この功績により一子が県公となる[1]

李世勣が急病にかかった時、太宗は髭の灰が治療に効果があることを知り、自分の髭を切って薬を調合した。李世勣は血が出るほど頓首し、泣いて感謝したが、太宗は「国家のためにしたのだ。そこまで深謝することはない」と述べた。貞観17年(643年)に李治が皇太子となると、太子詹事・左衛率に任命され、さらに同中書門下三品へと昇進した。太宗は李世勣に「卿は以前から皇太子の長史を務めており、今をもって宮中のことを任せる。卿の働きに見合わないかもしれないが怪訝に思わないでくれ」と告げた。また、太宗はかつて宴席でこう言った。「朕の幼子を託すにあたり卿ほどふさわしい人物はいない。公は昔、李密を忘れなかった。今どうして朕に背こうか」。李世勣は涙をぬぐって礼を述べ、指を噛んで血を流した。太宗は自分の衣服を脱いで酔いつぶれた李世勣にかけた。太宗が李世勣を信任する様子はこのとおりであった[1]

貞観18年(644年)、唐の高句麗出兵の際に遼東道行軍大総管となり、蓋牟城遼東城白崖城などを攻め落とし、駐蹕山の戦いの勝利にも貢献した。その功績により一子が郡公に封じられる[1]

貞観20年(646年)、薛延陀の部落で騒乱が起きると、烏德鞬山で大戦して破り、薛延陀を滅ぼした。貞観22年(648年)、太常卿に転任し、引き続き同中書門下三品を務め、まもなく太子詹事に再任された[1]

貞観23年(649年)、太宗は死期が迫ると皇太子の李治に言った。「李世勣はお前に恩がない。私が今、彼を遠ざけるから、私が死んだ後、彼に僕射を授けよ。そうすればお前に恩義を感じて必ず死力を尽くすだろう」。かくして李世勣を疊州都督に任じて左遷した[1]。『資治通鑑』では「李世勣が(疊州への)赴任をためらうようならば殺すべきだ」との助言も李治に残しており、李世勣は勅令を受けると家にも戻らずただちに赴任先へと向かっている[5]。このことについて『資治通鑑』の注釈では「太宗は策略を用いて李世勣を制御し、李世勣もまた巧みに君主に仕えた」と記している[6]。 

高宗・武皇后時代

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永徽元年(650年)に高宗が即位すると、検校洛州刺史となり、洛陽宮の留守を務めた。開府儀同三司同中書門下に進み、機密に参与した。尚書左僕射に任じられたがまもなく辞職し、開府儀同三司の地位に留まって政務に当たった。永徽4年(653年)に司空に昇進した[2]

また、太宗李世民を避諱して李勣と改めた。太宗の時代、凌煙閣にはすでに李勣の肖像画が飾られていたが、高宗は再び李勣の肖像画を描かせ、自ら序文をつけた。小馬に乗って東台・西台に出入りすることや、下級官の一人に送迎させることを許された[2]

高宗は王皇后を廃位して側室の武昭儀(のちの武則天)を皇后に立てたいと考え、重臣の李勣・長孫無忌于志寧褚遂良に相談を持ちかけたが、李勣は病気と称して欠席し、褚遂良らは反対、于志寧は沈黙した。その後、高宗はひそかに李勣を訪ね、「武昭儀を立てたいが顧命の臣が皆反対している。今はやめておこう」と告げると、李勣は「これは陛下の家事ですから、他人に尋ねる必要はありません」と答えた。高宗はついに決意を固めて王皇后を廃位し、李勣・于志寧に命じて武昭儀を皇后に冊立させた[2]。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。

麟徳2年(665年)、泰山封禅の儀を行う際に封禅大使となった。武皇后は滑州に住まう李勣の姉を訪れて衣服を贈り、東平郡君に封じた。また、李勣が馬から落ちて足を怪我した時、高宗は自分の乗っていた馬を彼に与えた[1]

総章元年(668年)の高句麗出兵の際に遼東道行軍総管となり、兵2万を率いて高句麗討伐へ向かった。鴨緑江で高句麗軍を敗走させて平壌城まで追撃し、淵男建は城門を閉ざして抵抗したが、多くの者が城から逃亡して唐に降伏した。劉仁軌郝処俊薛仁貴とともに平壌城を包囲して1ヶ月ほどで攻略し、高句麗を滅ぼした。宝蔵王・淵男建・淵男産を捕らえ、高句麗の城すべてを唐の州県とした。勅令により宝蔵王・淵男建を昭陵に献上した後、長安へ凱旋して太廟に報告した[1]

総章2年(669年)、太子太師に任命された。病に臥せると司衛正卿となり、高宗は人を遣わして李勣を見舞った。同年12月に亡くなった。享年76[1][7]

死後

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太尉・揚州大都督を追贈され、貞武とされた。高宗は李勣の死を深く悲しみ、朝議を7日間中止した。葬儀の際、高宗と皇太子は未央宮から慟哭して棺を見送り、昭陵に陪葬した。その墳墓は、衛青霍去病の墓を模範とし、陰山・鉄山・烏德鞬山を象って造営し、突厥薛延陀を破った功績を顕彰した[1]

睿宗光宅元年(684年)に高宗の廟庭に祀られたが[1]、同年に孫の徐敬業中国語版が反乱を起こすと、武太后(武則天)は李勣の官爵を剥奪し、墓を掘り起こして棺を壊し、徐姓に戻した。その息子や孫は誅殺され、生き残った一族は辺境の地へ逃れたという。中宗が復位すると李勣の墳墓は再建され、官爵も復元された[8]

李勣の軍事思想

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李世勣(淩煙閣功臣圖像)

李勣は、唐初の優れた軍事家であり、その軍事思想は隋末唐初の戦争実践経験を融合したもので、主な特徴は以下の通りである:

1. 堅実で慎重、計画的な行動: 李勣は用兵に際し全局的な計画を重視し、軽率な危険を冒さない。敵味方の情勢を分析することに長け、戦前の十分な準備(後方支援と兵力配置の整備)を強調し、行動前に万全を期す。「まず自ら不可勝となり、敵の可勝を待つ」という慎重な戦いの思想を体現している。

2. 状況に応じた柔軟な対応: 作戦指導においては、固定観念に縛られず、戦場の実際に基づいて柔軟に戦略を調整することを主張した。地形や気象等の条件を活用し、正面での牽制や迂回奇襲などを駆使して、不意打ちの効果を挙げた。(例:東突厥平定戦での遠距離急襲・分進合撃)。

3. 騎兵を活用し、機動力を重視: 唐の統一戦争では騎兵部隊を指揮することが多く、機動力と突撃力の結合を強調し、迅速な迂回襲撃で敵の後方を遮断し、敵の士気を瓦解させる戦法を多用した。

4. 心理戦を重視し、敵軍を瓦解させる: 竇建德や王世充平定の戦役では、懐柔と威嚇を併用する心理的攻勢により敵を分断し、直接的な強攻撃による消耗を減らすことに留意した。

5. 厳格な軍規と恩賞の併用: 規律を厳しくしつつ兵士の福祉を重視。賞罰分明で軍の結束力を高め、部下はしばしば死力を尽くして従ったことが、持続的な戦闘力の基盤となった。

6. 連携作戦と大局観: 唐太宗麾下の重要将軍として、李靖など他の将領との連携作戦に長け、戦略的全局に服し、全体としての戦いを重視する観点を示した。

評価

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李淵:徐世勣は恩徳を感じて功績を譲る、まことに純粋な臣下である。

李世民:当代の名将は、李勣・道宗万徹の三人のみである。李勣と道宗は大勝はできないが、大敗もせず。万徹は、大勝でなければ大敗である。……李靖と李勣の二人は、古の韓信白起衛青霍去病とても及ぶものか!

李治:勣は上に仕えて忠誠を尽くし、親に事えて孝行を厚くし、三朝に歴任して未だ過ちがなく、性格は廉潔で慎重、産業を立てず。危険に臨んでは義を守り、文聘が忠義を抱いたごとく、献策して恩寵を受け、奉春(婁敬)が姓を賜ったと同じ。李勣の亡き後より、遂に良将無し。

賈言忠:李勣は先朝の旧臣であり、その忠誠は聖人のご明察の通りでございます。……諸将の中で日夜慎み深く、身を捨てて国を憂える者は、李勣に及ぶ者なし。

魏元忠:李靖は突厥を破り、侯君集は高昌を滅ぼし、蘇定方は西域を開拓し、李勣は遼東を平定した。これらは国の威霊によるものではあるが、彼らの才覚と力量によるものでもある。

吕温:滔々たる乱流は極まりなく、大乱には形なし。英公傑出し、運に応じて将となる。楚に仕えれば楚を覇せしめ、漢に仕えれば漢を王たらしむ。天時と人事、我が向かう所に随う。長蛇(王世充)は毒牙を振るい、東に河洛を占む。貪婪なる封豕(竇建德)、来たりて悪に同調す。号吼声連なり、雷の如く霆の如く、万里震撼す。時に英公あり、我が太宗を補佐す。鉞を以て豕を斬り、穴より蛇を取る。群き穢れ殄滅さる。乃ち九鼎を定め、明堂を開く。大邦を覆い、金甲光を同じくす(太宗が高祖に献捷する時、勣と共に金甲を着て上下の将となる)。王に成を告げ、皇業用い昌んず。帝命、英公に北伐(獫狁を討て)せしむ。雷鼓殷殷たり、旄頭幾(ほとほと)殞ちんとす。黒山の雪を掃い、唐の陽春を布く。五原の草緑なり、南牧を見ず。島夷(高句麗)未だ庭せず、天子親征す。其の鋒は英にあり。拒ぐ莫く抗う莫く、是れ震い是れ蕩かれ、東海の浪を破る。天下既に和し、鞍を解き戈を投ず。袞服委蛇たり、華髪皤皤たり。終始三朝にわたり、汚れ点磨くべき無し。

劉昫:近世において名将と称えられる者の中では、李勣(英公)と李靖(衛公)の二公が、まさに凌煙閣の功臣の中でも最高峰である。英公(李勣)は、彭越黥布のような草莽の出身でありながら、自ら這い上がり、常に道義をもって身を守り、人と対立することなく、功名を始めから終わりまで全うした。賢明であるよ、彼が遺した戒めは!……功績には盛大な賞を賜るが、君主の威を凌ぐほどになれば危うい。禄を辞し地位を避け、疑念を除き猜疑心を解く。その功績は中華と夷狄を平定し、その志は忠義に満ちている。白髪頭になるまで外敵を討ち平らげた、まことに賢明なる英公と衛公よ。

張預:孫子は言った「補佐が周到であれば、国は必ず強くなる。」李勣が并州を守った時、太宗は「長城よりも優れている」と評した。また言った:「戦に勝ち、攻めて取っても、その功績を修めない者は凶である。」李勣は毎度戦勝するたびに必ず功績を部下に譲った。また言った:「適材を選んで任務に就かせる。」李勣が将を選ぶ時は、必ず風貌が魁偉で福々しい者を派遣したというのがこれである。

黄道周:李勣は盗賊の身であれど、盗む心は持ち合わせず。李密に地を譲り、王世充を破って自らの立場を明らかにす。天下の乱は、飢えた民より起こる。倉を開きて一度救えば、辺りはたちまち三軍の勢い。李密敗れた後、唐の君に忠誠を誓う。詔により総管に任じられ、功績を立てしむ。 李密謀反にて死すも、遺骸を葬り恩を明らかにす。詔を奉じて北征に赴き、砂漠の前線に屯す。 敵は渡河できず、老将らは続々と降伏す。城を築きて守るより、いかに人を得ることに如かん。急病に薬を調えるため、帝は自らのひげを切りて薬に混ぜしむ。「汝だけのためならず、社稷の計なり」と。また太子に命じて、「我が死後に汝が彼を頼むべし」と。君にここまで重んぜられて、臣として恥じることはなし。

丁耀亢:李勣は唐の功臣なり。姓を李と賜う。皇帝すら髭を切って薬に混ぜるほどに重用され、まことに稀なる栄遇にあずかった。しかし高宗武后(則天武后)を寵愛して人倫を乱すに及んで、死を賭して諫めることなく、君主の寵愛に頼って迎合したのは、まさに「一言にして国を喪う」に等しい行為ではなかったか。李勣が取った行動は、結局は子孫のために策を講じたに過ぎないのである。

王夫之:徐世勣は終始、ただの狡猾な賊に過ぎなかった。彼自身の言葉によれば「若い頃はならず者だった」というが、その性質は一度定着すると変わることはなかったのである。……唐の太宗は百戦を経て群雄を平定したが、李世勣・程名振・張亮らは皆、戦闘の将であった。

張彦士:李勣は世に功績を遺しながらも明らかな悪行がなく、権勢にへつらい奸悪で険悪な心を持ちながら人々に悟られず、たまたま誅殺される機会があったのに真実を隠し通り過ぎ、その不行跡を推し量るもその身は保たれた。誰が予想できただろうか、李世勣が巧妙に詐術を駆使し機会を窺い、命令を聞けば即座に去り、一日も待たずに不満そうに立ち去ることを。その後再び重用され、大権を握ると失うことを恐れる余りに愈々甚だしく、武后の立后を勧めて自らの地位を固めようとした。唐朝の子孫が滅ぼされようと、彼はもはや顧みなかった。このような李世勣は、唐朝を蝕む害虫でありながら、多くの賢臣の中に混じり、その真実を知る者は誰もいなかった。……小人でありながら幸運に恵まれた者とは、李世勣と許敬宗のことである。

劉仁體:勣は将として用いるべくも、相として用いるべからざる者なり。

乾隆帝:世勣(徐世勣)は李密の土地を功績として誇ることなく、その志操と節義が窺える。唐の太宗が「卿は李密に背かなかったのだから、どうして朕に背くことがあろうか」と述べた言葉は、誠に空虚なものではなかった。しかしその後、武后(則天武后)の立后問題においては、事態を憚り迎合し、匡救の努力を一切しなかった。これは老境に入り家門の保全を重んじた結果、ついに節操を変えてしまったためである。ただ廉潔で慎重な性格は十分に持ち合わせていたが、剛直さに欠けていただけでなく、実は太宗の知己たる信任にも背く結果となったのである。

蔡東藩:薛仁貴は将たるの材なり、李勣は将を将とする材なり……しかしこれもまた、李勣が統帥として人を知り善く任じ、初めは巡邏守備に留め、次いで進攻を任せ、終には自ら援軍として応じ、肘を掣(つか)まず、その才能を妬まず、これによって初めて仁貴は偉大な功績を立て、千古に名声を揚げ得たのである。ここに李勣がまことに優れた将材であることを知る。……ただ、勣が私利を図り禍を恐れ、高宗を導いて皇后(王皇后)を易(か)え(武后擁立)させたことにより、遂には唐の宗室が殆ど滅亡に至り、その家族もまた誅戮され尽くす結果となった。その臨終の遺言は、果たして何の益があったと言えようか。史書が「学問に通ぜず」と彼を嘲笑したのも、もっともなことと言わねばなるまい。

人物・逸話

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英公はかつてこう語ったことがある。「私は十二、三歳の時は無頼の賊(無法者)であり、人に会えば即ち殺した。十四、五歳の時は手に負えぬ賊であり、気に入らぬ者がいれば、これを殺さぬ者はなかった。十七、八歳の時は立派な賊となり、戦場に上って初めて人を殺した。二十歳にして、天下の大将となり、兵を用いるのは人の命を救うためである。」

勣は前後して戦勝によって得た金銭や絹織物を、すべて将士たちに分け与えた。初めて黎陽倉を獲得した時、倉を頼りに集まった民は数十万人に及んだ。魏徴・高季輔・杜正倫・郭孝恪らはいずれもその地を訪れていたが、勣は彼らを群衆の中から一人ひとり見出しては礼を尽くして敬い、寝所に招き入れ、談笑して倦むことを忘れた。武牢を平定した際には、偽(王世充方)の鄭州長史・戴冑を捕らえたが、その品行と才能を知るや、すぐに罪を釈放し、推薦して皆が顕職に至るようにした。当時、彼は人を見抜く眼力があると称賛された。

李勣は用兵の度ごとに、主に策略計算を重んじ、敵前に臨んでは機に応じて変化し、その行動は常に時機に適っていた。人と謀を巡らす時は、その良し悪しを見抜き、ほんの少しの長所を聞けば、腕を扼んでこれに従った。戦功を挙げた日には、多くその功績を部下に譲ったので、人々は皆彼のために力を尽くし、向かうところ多く勝利を収めた。李勣の死を聞いた者で、悲しみ慟哭しない者はなかった。

李密が反乱を起こし処刑された際、高祖(李淵)は李勣が以前李密に仕えていたことを考慮し、使者を遣わして反乱の経緯を伝えさせた。李勣は上表して遺体の収葬を請い、詔により許可された。李勣は喪服(衰絰)を着用し、旧僚の官吏や将士らと共に李密を黎山の南に葬り、墳丘の高さは七仞に築いた。喪服を脱ぎ去るまで弔いを尽くした後、人々は静かに散り散りとなった。朝廷と民間はこぞってこの行為を義挙として称えた。

英公(李勣)は初め単雄信と共に李密に臣従し、兄弟の契りを結んだ。李密の滅亡後、雄信は王世充に降り、李勣は唐に帰順した。雄信は並外れた剛勇の持ち主であった。後に李勣が海陵王・李元吉と共に洛陽を包囲した際、元吉は自らの膂力を恃み、自ら陣頭に立って包囲軍を指揮していた。王世充は雄信を呼び出して金碗で酒を勧めると、雄信は一気に飲み干し、馬を駆って突撃した。その槍先が海陵王にわずか一尺まで迫った時、李勣は慌てふためき、「兄貴、兄貴!こちらは我が主君です!」と叫び続けた。雄信は手綱を引き締めて馬を止め、振り返り嘲笑うように言った。「胡人の小僧め、お前のためでなければ、とっくに片付けてやっていたところだ」と。

また、王世充を平定した際、その旧臣・単雄信を捕らえ、規定に従い処刑されようとした時、李勣は上表して「彼の武芸は比類なく、死罪の中から救い出せば必ず深く恩を感じ、国に命を尽くすでしょう。官爵をもって彼の罪を贖いたい」と訴えた。高祖はこれを許さず、雄信が処刑されようとする直前、李勣はその面前で声を震わせて泣き、自らの腿の肉を切り取って彼に食べさせながら言った。「今生の別れです。この肉も共に土に還りましょう」。その後、雄信の子を引き取って養育した。

英公は左僕射という高位にありながら、姉が病にかかると必ず自ら粥を作り、釜の火が燃え上がってはそのひげを焦がした。姉が「下人たちは大勢いるのに、どうして自らこんなに苦労するのか」と問うと、勣は答えて言った。「どうして人がいないからでしょうか。ただ、今姉上はご高齢であり、私も年老いております。長く姉上のために粥を作り続けたいと思っても、果たして今後も同じようにできるでしょうか」。

李勣が高句麗征討に赴く際、女婿の杜懐恭を同行させようとし、軍功を立てさせることを望んだ。懐恭は風変わりな性格で、李勣から大変重用されていた。懐恭は初め貧しいことを理由に辞退したので、李勣は資金を援助した。次に下僕と馬がいないと理由にしたので、またそれらを与えた。その後言い訳が尽きると、ついに岐陽山に逃亡して身を隠し、人々に向かって言った。「あの大将は私を軍律の見せしめにしようとしているだけだ」と。固く同行を拒んだ。李勣はこの話を聞くと、涙を浮かべて言った。「杜郎は放縦で束縛を嫌う性格ゆえ、そうすることもあろう」。ついにこれ以上強要しなかった。当時の人々はこう評した。「英公は法を重んじる人であるが、杜の懐恭はそれを見越して深く考えていたのだ」と。

李勣が急病に倒れた時、医方に「鬚の灰が病を治す」という治療法があったため、太宗は自ら鬚を切り取り、薬を調合して与えた。李勣は血が出るほど額を地面に叩きつけて泣きながら感謝を述べたが、皇帝は「これは国家のためであって、さまで深く感謝するには及ばぬ」と述べた。

太宗はまたある時、酒宴の席で李勣を見つめながら言った。「朕は幼い皇子を託そうと考えているが、卿に及ぶ者はない。かつて李密に対しても忠誠を尽くした卿が、今まさか朕に背くはずもあるまい」。李勣は涙をぬぐって誓いの言葉を述べ、指を噛んで血を流すほどに感激した。やがて深く酔い潰れた彼に、太宗は自らの衣を脱いで掛けてやった。かくまでに信頼を寄せられていたのである。

太宗が遼東を征討した際、飛び梯(雲梯)を城壁にかけさせると、志願して梯り手の長となった兵がいた。城中から矢や石が雨のように降り注ぐ中、彼は真っ先に登ろうと奮戦した。英公(李勣)は中書舎人の許敬宗を指さして言った。「この者、実に剛健ではないか」。敬宗が「剛健ではありますが、ただ物事を深く考えないのが難点でございます」と答えると、太宗はこれを聞いて敬宗を問罪しようとした。

太宗が病篤く臥せった際、英公(李勣)を疊州刺史として左遷し、高宗に言い含めた。「李勣は才知に優れ、数々の重職を歴任したが、汝に心から服さぬ恐れがあるゆえ、今回の処遇とした。もし彼がすぐに任地へ向かえば、我が死後、お前は自ら重用せよ。もし逡巡して様子を窺うようなら、ただちに誅殺せよ」。李勣は詔を拝受すると、家にも寄らずただちに赴任した。

病に伏せるようになってから、高宗と皇太子が薬を贈ると、彼はすぐに服用したが、家では医者や祈祷師を招くことを一切許可せず、門内に入ることすら許さなかった。家族がどうしても薬を進めようとすると、勣は言った。「私は山東の一農夫に過ぎないが、明君に仕えて富貴に浴し、三台(三公)の高位に至り、齢は八十に近づいた。これで十分ではないか。寿命には定められた期限があるものだ、どうしてむやみに医者にすがって生き延びようなどとせねばならぬのか」。結局、薬を受け入れずに拒み通した。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『旧唐書』李勣伝  (中国語). ウィキソースより閲覧.
  2. ^ a b c d e 『新唐書』李勣伝  (中国語). ウィキソースより閲覧.
  3. ^ 『新唐書』李密伝  (中国語). ウィキソースより閲覧. - 時徐世勣尚為密保黎陽,帝遣使持密首往招世勣。世勣表請收葬,詔歸其屍,乃發喪,具威儀,三軍縞素,以君禮葬黎陽山西南五里,墳高七仞。
  4. ^ 『旧唐書』高祖本紀  (中国語). ウィキソースより閲覧. - 己酉,李密舊將徐世勣以黎陽之眾及河南十郡降,授黎州總管,封曹國公,賜姓李氏。
  5. ^ 『資治通鑑』巻199 貞観23年  (中国語). ウィキソースより閲覧. - 上謂太子曰:「李世勣才智有餘,然汝與之無恩,恐不能懷服。我今黜之,若其即行,俟我死,汝於後用為僕射,親任之;若徘徊顧望,當殺之耳。」五月,戊午,以同中書門下三品李世勣為疊州都督;世勣受詔,不至家而去。
  6. ^ 「史言太宗以機數御李世勣,世勣亦以機心而事君」
  7. ^ 『新唐書』李勣伝では享年86。
  8. ^ 『旧唐書』李勣伝附 徐敬業伝  (中国語). ウィキソースより閲覧.

伝記資料

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  • 旧唐書』巻67 列伝第17「李勣伝」
  • 新唐書』巻93 列伝第18「李勣伝」

関連項目

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