杉山吉成

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杉山 吉成
時代 江戸時代
生誕 慶長15年(1610年)?
死没 寛文12年3月30日1672年4月27日
別名 八兵衛(通称
主君 津軽信枚信義信政
氏族 石田流杉山家
父母 父:石田重成 母:岩田氏(瑞岳院
兄弟 吉成、石田掃部成保
正室:朽木氏
継室:津軽信枚の娘・子之姫
吉煕

杉山 吉成(すぎやま よしなり)は、石田三成の次男石田重成の長男。通称は八兵衛。

父の重成は豊臣秀頼小姓として仕えていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父三成率いる西軍が東軍に大敗し、石田家の居城であった佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。

同地で吉成は、信建の弟である津軽信枚弘前藩主)の娘を妻とし、累進して寛永21年(1644年)には1300石知行、御証人役加判となる(杉山貞五郎の由緒書)。

寛文9年(1669年)、蝦夷地で起こったシャクシャインの戦いで、江戸幕府からの要請を受け、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海し、のちに幕府から褒賞を授与された(津軽一統志)。子孫は弘前藩重臣として存続した。

実在した弘前藩の忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」は吉成によって結成されたという。杉山家は代々、早道之者を統率し、蝦夷地の調査や監視活動を指揮したとされる[1]

脚注[編集]

  1. ^ 弘前の忍者屋敷、石田三成の子孫が住んでいた 青森大忍者部の調査で判明(『河北新報』)[1]