朴重陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
朴重陽
Park Jung-yang.jpg
各種表記
ハングル 박중양
漢字 朴重陽
発音: パク・ジュンヤン
日本語読み: ぼく・じゅうよう
ローマ字 Park Jung-yang
テンプレートを表示

朴 重陽(ぼく じゅうよう、パク・ジュンヤン、朝鮮語:박중양、1874年/1872年-1955年/1959年)は、大韓帝国日本統治時代の官僚であり、政治家、思想家である。[1] 勅選貴族院議員の一人。[2] 日本統治時代の信念型親日派の一人である。

1905年日露戦争日本軍の通訳として参戦。日本留学中伊藤博文の門下生だった。日本名の山本信[1]·朴忠重陽[3]源根、號海岳

生涯[編集]

彼の誕生年代には、1872年生まれ説と1874年生まれ説がある。彼の祖先は、鄕吏身分だったが没落、父は異郷で他人の家の作男、下人役で生計を維持した。1897年官費留学生で日本に渡り、東京青山学院中学部に入学する。1900年に卒業して東京簿記学校入学すると1903年に東京簿記学校卒業し帰国した。1905年軍務部主事、軍器廠主事などを歴任して1906年日本觀兵式に派遣されたが、帰国した。1907年農商工部主事、晉州判官、大邱郡守兼慶尚北道観察使書理 などを歴任した。1907年大邱守兼慶尚北道観察使書理に在職中、大韓帝国政府の許可なしに大邱邑城を解体した。[4]以後、全羅南道観察使、平安南道観察使兼平安南道税務署税務感、1908年慶尚北道観察使などを歴任した。彼は、大韓帝国政府の改革令によって平安南道と慶尚北道在職中断髪令を強行した。

1910年8月忠清南道観察使として赴任したが、10月の日韓併合後に留任、忠清南道道長官を務めた。1915年退官して中樞院贊議を経て1921年黄海道知事、 1923年忠清北道知事を務めた。 1925年俗理山で酒を飮み寺院の女僧を強姦致死させた疑いで待機発令となったが、1927年に退官した。

1927年中樞院参議となり1928年に黄海道知事となったが、1929年中樞院参議に転職した。 1936年中樞院顧問となり、1943年には中樞院副議長となった。1938年、朝鮮総督府の戰時諮問機関である時局対策調査委員会委員、1941年朝鮮臨戰報國團の顧問となり、太平洋戦争時はシンガポール台湾の駐在日本軍慰問を行ったりもした。1943年国民総力朝鮮連盟参与に任命された。

1944年勲1等などの叙勳を受けて1945年4月貴族院朝鮮勅選議員となった。同年4月に朝鮮人参政権が許可されると、彼は尹致昊と感謝使節団の代表として日本を訪問した。彼は朝鮮人の可能性を徹底的に否定した。朝鮮の民度を批判しながらも、学校や教育施設に寄付、奨学金を支給していた尹致昊とは異なり、朝鮮の発展の可能性は不可能に見えた。

1949年1月反民族行為特別調査委員会に検挙されたが、無罪を主張して所信を曲げなかった。彼は李承晩李始榮咸台永を疑似愛国者として嘲笑し、戦争が起こり米軍が撤退すれば、李承晩のような者は逃走すると語り精神病院に強制的に送られることもあった。韓国の反民特委調査官は彼を置き、「確かにちょっとはなかった。朴重陽は体はたとえ韓国人だったが、心と行動は完全に日本人だった。改過遷善であり反省であり期待することができない人だった。」と言った。[5] 1955年に死亡したことが知られているが、1955年以降も李承晩などを誹謗している途中に逮捕されたり、精神病院に入院された記事が表示される。彼は日本の植民地統治を強固にすること率先したという評価がある。[6]2004年親日反民族行為者に認定され彼の財産は没収された。

栄典[編集]

その他[編集]

息子たち文雄、武雄いずれ、文雄も、やはり日本に留学した。

著書[編集]

  • 『朴重陽日記』
  • 『述懷』

脚注[編集]

  1. ^ a b 大邱の近代化 朴重陽
  2. ^ 勅選貴族院議員一覧
  3. ^ 박중양 (韓国語)
  4. ^ (6) 대구 ① 자본,권력에 ‘옛 성곽의 도시’무너진다 문화일보 2003.08.01. (韓国語)
  5. ^ "해방이 1년만 늦었어도 황국신민 대우를..." 오마이뉴스2004.09.11
  6. ^ 독립운동 스파이 7명죄상 낱낱이 한국일보 2002.02.28.
  7. ^ 『官報』第5423号「叙任及辞令」1945年2月14日。

外部リンク[編集]