本多康慶

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本多康慶
本多康慶(中央の騎馬武者)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保4年(1647年
死没 享保3年11月10日1718年12月31日
改名 千之助(幼名)→康慶
戒名 暁雲院泰源専英大居士
墓所 京都府京都市東山区林下町の知恩院
官位 従五位下、隠岐
幕府 江戸幕府
近江膳所藩
氏族 本多氏
父母 父:本多康長、養父:本多康将
正室:本多康将の娘
康命康敏牧野忠寿康文(7男)、娘(相馬尊胤正室)、娘(青山幸秀正室)、娘(康文正室)
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本多 康慶(ほんだ やすよし)は、近江膳所藩の第4代藩主。康俊系本多家宗家4代。

生涯[編集]

正保4年(1647年)、伊勢亀山藩主・本多俊次の長男・本多康長の子として亀山で生まれる。父の康長は嫡子だったが、万治元年(1658年)に早世した。このため、万治2年(1659年)12月、父に代わって嫡子となった叔父(後の第3代藩主)・本多康将婿養子となる。寛文4年(1664年)12月28日、従五位下・隠岐守に叙位・任官する。延宝7年(1679年)6月18日に康将の隠居により、家督を継いで第4代藩主となる。このとき、康将の次男である忠恒に1万石を分与し、支藩として河内西代藩を立藩させた。

正徳4年(1714年)3月4日、長男の康命に家督を譲って隠居する。享保3年(1718年)11月10日、大津で死去した。享年72。

土芥寇讎記』の養子の康慶の項目に拠れば、「養父(康将)は美女を集めて酒宴・乱舞・三味線・琴を催し、淫乱に溺れ昼夜を分けず、弊をなし奢り極め」ているとされ、またその費用を領民に課した為「下の困窮を知らず」と述されている。その養父と比較し「養父よりはマシ」とされているが決して高評価はされていない。一方また同書では「三代(俊次か?-康将-康慶)並びて愚将たる事、前代未聞なり」と記述されている。

系譜[編集]

父母

正室

子女