千葉工業大学

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千葉工業大学
千葉工業大学モンタージュ

地図

千葉工業大学の位置(千葉県内)
千葉工業大学
千葉工業大学 (千葉県)
千葉工業大学の位置(日本内)
千葉工業大学
千葉工業大学 (日本)
大学設置/創立 1942年
学校種別 私立
設置者 学校法人千葉工業大学
本部所在地 千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号
北緯35度41分21.15秒 東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 / 35.6892083; 140.0213361座標: 北緯35度41分21.15秒 東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 / 35.6892083; 140.0213361
キャンパス 津田沼キャンパス(千葉県習志野市津田沼)
新習志野キャンパス(千葉県習志野市芝園)
東京スカイツリータウンキャンパス(東京都墨田区押上)
学部 工学部
創造工学部
先進工学部
情報科学部
社会システム科学部
研究科 工学研究科
情報科学研究科
社会システム科学研究科
ウェブサイト www.it-chiba.ac.jp ウィキデータを編集
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千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: Chiba Institute of Technology)は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本私立大学1942年創立、1942年大学設置。大学の略称は「千葉工大(ちばこうだい)」または「工大(こうだい)」、英称では「CIT」または「ChibaTech」。

概観[編集]

大学全体[編集]

第一期生入学式記念写真(1942年6月8日、玉川学園内にて撮影)

千葉工業大学は、明治時代から昭和時代にかけて日本の教育政策教育活動に関与してきた澤柳政太郎成城学園の創始者)と小原國芳玉川学園の創始者)を中心とする教育者の体験とそれに基づく研究をもとに創立された大学で、日本の教育界において独自のアプローチを持つ歴史ある理工系大学です。この大学は、単なる技術者や専門家の養成を目指すだけでなく、欧米の進歩主義教育と吉田松陰広瀬淡窓細井平洲などを代表とする江戸時代までの日本の教育思想を結びつけた独自の教育哲学(幕末の日本で見られた教育(松下村塾など)であり、20世紀初頭の欧米のイートン・カレッジなどで新しく試みられるようになってきた教育。詳細は「興亞工業大學設立趣意書」も参照)を持ち、第二次世界大戦中に大戦後の新たな創造的人材の育成を目指し創立されました。初代学長は、京都帝国大学元総長で教育学者である小西重直が務め、大学の基礎を築くなど、伝統的にリベラルアーツ教育や人間教育を重視するなど人づくりを重んじた校風の大学となっている[1]

この大学の特徴は、国家のリーダーや専門家を育てるだけでなく、全人的な教育を重視し、学生の個性を尊重することを目指しています。創設時は、白線帽学生服といった一般的な日本の大学スタイルではなく、服装ネクタイ紳士服背広)を着るなど学生たちを「紳士(ジェントルマン)」に育て上げることを重要視していました[要出典]

明治時代以降、日本は富国強兵を目指し、帝国大学文官養成機関)や海軍兵学校、さらには陸軍士官学校武官養成機関)をはじめとする官学エリート校を順次設立させ西洋化=近代化を進めていました。その中で、千葉工業大学は、明治以来の各専門分野の知識を単に詰め込むような古い教育アプローチではなく、人間教育も含めた新しい教育アプローチを採用し、学生たちの個性と自主的な学びを重視し、豊かな人間性リーダーシップを育むことを目指しました[2]

  • 創立関係者たちは、日本が国際社会で生き抜くためには「人づくり(教育)」が不可欠であると認識していました[3]。しかしながら、当時の日本の社会状況や教育には重大な問題が存在していました[4]。官学などの既存のエリート教育は、西欧主義に偏った模倣的なものであり、自由な教育を排除し、創造性や個性を無視して、座学を通じて一方的に知識を詰め込み、テストの出来によって人物を評価する単純な方法でした[5]。特に当時の教育にはハンモックナンバー制度という成績と順位に基づく評価方法する慣習が色濃く含まれており、これは将来の人選や人事にも影響を与える重要な要素でした。ハンモックナンバー制度は薩長藩閥政治を是正するために導入され、その後広く日本の社会や組織に受け入れられましたが、柔軟性や適切な人事を妨げる要因となりました。例えば、太平洋戦争大東亜戦争)時にミッドウェー海戦を指揮した南雲忠一中将のように専門外の職務に任命されるケースもあり、この制度が戦争中の組織運用に問題を引き起こすこともありました(例えば機動部隊の司令官を務めた南雲忠一中将の例が有名である。南雲は元々水雷を専門とする将官であったが、ハンモックナンバーと年功序列によって運用に専門外の航空艦隊の長官に任命されてしまい、後にミッドウェー海戦の敗戦に繋がったといわれている)。戦後には海軍関係者による反省会で人事制度について議論が行われましたが、改革の過程での抵抗や政治的な問題、そして何より関係者のエリート意識が邪魔して改革が実現しなかった経緯があります。ただし、海軍内部での一例として、永野修身が海軍大臣の時に、教育学者の小原國芳の日露戦争時に聯合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎の任命経緯を事例に助言(ハンモックナンバー的には本来なら東郷平八郎の成績評価だけでは聯合艦隊司令長官に就くことは困難だったが、当時の海軍大臣である山本権兵衛は、学校の成績評価だけで人物を評価せず、東郷という人間を見込んで、特例で聯合艦隊司令長官に任命し、日露戦争において日本海海戦を勝利に導きました。この事例を通じて、国家の存亡を左右する重要な地位に関して、単に学校の成績が優れているだけで人物を選ぶことが適切かどうかという疑問を関係者たちは抱き、単純に学校のペーパーテストの出来だけではなく、もっと広い視点から人物の評価することの大切さと新しい人物評価の仕方について日頃から議論を交わしていたという)を受け、ハンモックナンバーのみを基準とする昇進・任官制度を改め、将官ひとり一人の性格や能力、専門性なども考慮した柔軟な人事システムに改めようとした時期がありました。しかし、この改革に対する海軍内部の抵抗が強く、陸軍大臣の問題(腹切り問答)もあって、永野が本格的に改革に乗り出す前に内閣が総辞職したため、改革が実現しなかった経緯がある。このような教育と教育を取り巻く環境の中では、将来の国や社会を支える人材が育たないという危機感から、創立関係者たちは新しい教育をする教育機関の設立を計画するようになったといわれている。彼らは世界文化への貢献を視野に、日本を世界一の教育立国にすることを目指し、1929年頃から日本第一、世界第一の教育拠点を築くことを目指し、最高学府(本学)の設立を計画しました[要出典]

計画当初、小原ら関係者は滝川事件などの経験から国立教育の限界[6]を感じ、自由と多様性がある私学こそ国家を支える人材を養成するのに相応しい環境であると考え「明治維新の大業は私学が成した[7]」と私学教育の重要性を説いた。幕末期の日本の松下村塾やヨーロッパのパブリックスクールなどの影響を受け、当初「玉川塾工業大学」として玉川学園が経営するプライベートの全寮制大学として計画された[8]が、当時の社会的風潮(全体主義や軍国主義)に反する教育理念(個性尊重や自由主義)を掲げていたため、軍部や旧来の教育をする関係者からの反発や圧力が強く、設立は難航しました。しかし、橋田邦彦文部大臣をはじめ、皆川治広東京市教育局長、小西重直京都帝国大学総長、本多光太郎東北帝国大学総長、平賀譲東京帝国大学総長、八木秀次東京工業大学学長、西田幾多郎京都帝国大学名誉教授、波多野精一同教授などの教育界関係者はじめ、政治家の東郷実森コンツェルン森矗昶森曉親子、東京川崎財閥川崎守之助をはじめとする財政界の支援を受けていた。また、数は少なかったものの、皇族で、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を筆頭に、大日本帝国海軍では永野修身元帥海軍大将財部彪海軍大将、山梨勝之進海軍大将などが、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将土肥原賢二陸軍大将などの軍関係者も小原の考えに共感し、長年に渡って小原を支援していた。特に、激しい反対・抵抗勢力がいる中で、大学設立計画が成功したのは東久邇宮稔彦王・永野修身海軍元帥の働きかけと、橋田邦彦文部大臣の尽力が寛大だったと言われている。大学設立申請の途中(近衛文麿内閣時)で、文部省(現:文部科学省)の指導によって、日本だけでなくアジアや世界を視野に国策的な意図をもった大学へと発展して、太平洋戦争大東亜戦争)中の1942年5月15日東条英機内閣時)に「興亞工業大學」の名称の6年制の理工系大学として玉川学園内に設立されました[9]

大学設立の際には東京帝国大学東京工業大学から全面的な支援を受けたが、不足していた実験設備や実験機器などは東大・東工大の取り計らいにより共同利用させてもらうことで対処した。

創立時は戦争中だったこともあり、日本全体が国への奉公一辺倒の時代だったが、興亜工業大学(現・千葉工業大学)では、まだ自由な雰囲気があり急な大学設置で、開校当初はすべての建物がまだ完成していなかったため、大学予科の英語や音楽、古典、道徳などの教養科目の授業を青空教室で行なったという。だが結果的に、この授業方式は生徒と先生との関係(先生を囲んでの授業)において建学の精神である「師弟同行」に近いものとなり、好まれたという。当時の在校生の回想録では『いずれの授業も和気あいあいとした授業で、文字通り、いい意味での「エコール・ビュイソエール(みどりの学園)」であった』と称している。授業は学内のみでなく神社や寺、河川敷、喫茶店などでも行われ、ある時は「百聞は一見に如かず」「百聞は一労作に如かず」との教育理念のもと、小原國芳の発案で観光バスを連ねての東京名所の見学会が行われたり、第一ホテルなどでテーブルマナーの講習会などが行われたりもしたという[要出典]。このような環境は、学生と教員との関係を深め、自発的な学びを促進しました。しかし、当時の学生の中には軍国思想に染まっているものも少なくなく、こういった自由な雰囲気に馴染めず、大学を中退して軍学校などに入りなおす者もいたという。

1944年(昭和19年)には大学本部と本科を東京都千代田区に大学予科を神奈川県川崎市へ移転。この時、学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったナチスドイツの神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。

戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、1943年(昭和18年)に実施された学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍・海軍関係の研究所や工場、松代大本営の造営などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫のもとで航空機の研究開発を手伝った。中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。また、この時期になると技術将校養成の高まりから陸軍士官学校海軍兵学校などの士官学校と合同訓練が行われるようになった。

太平洋戦争が終結すると1946年(昭和21年)には千葉県君津町(現・君津市)へと移転し、校名を「千葉工業大学」と改称[10]。一時は創設準備中の千葉大学芝浦学園早稲田大学中央大学法政大学等との合併も検討されたが[11]1950年(昭和25年)に同県津田沼町(現・習志野市)の津田沼校地へ移転し現在に至っています。

設置科は3学部11学科、大学院3研究科修士課程8専攻・博士後期課程3専攻で、学生数は約1万名[12]。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと新習志野キャンパス、および東京スカイツリーキャンパスの3つのキャンパスを有する[13]

  • 2018年度の志願者数は78,905人で日本の私立大学[14]の中で第10位である。2023年度には志願者数は14万5128人で、全国第2位[15]に達している。

現在、千葉工業大学は、日本の私立理工系(単科)大学としては藤原工業大学(後の慶應義塾大学理工学部)に続き、国内で2番目に古い歴史を持ち、現存する私立理工系(単科)大学としては最古の歴史を有する[9][16]。なお国公立の理工系(単科)大学を含めても東京工業大学に次ぐ歴史を持つ[注 1]

教育および研究[編集]

大学全般[編集]

  • 本学の基礎は、教養教育においては小西重直博士、小原國芳博士、本間俊平によって、工学教育においては本多光太郎博士、八木秀次博士によって築かれた(千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992年を参照の事)。

研究活動の特徴[編集]

  • 2003年には全国初の学校法人直轄の研究所として「未来ロボット技術研究センター」を設置している。同じように2009年には「惑星探査研究センター」を、2015年には「人工知能・ソフトウェア技術研究センター」を、2016年には「国際金融研究センター」と「次世代海洋資源研究センター」を設置した。

運用システム[編集]

  • 2005年より、多機能ICカード型の学生証を導入している。
  • 2007年より、NTTドコモの端末が当時の芝園校舎全教室(翌年からは津田沼校舎も)に設置され、全授業でICカードによる出欠確認システムの運用が開始されたが、2015年度をもって使用終了し、端末も2016年度後期までに撤去された。
  • 2016年より、入学時に貸与されるiPad miniにインストールされているアプリを用いた出席システムの運用が開始された。

組織[編集]

学部・学科[編集]

  • 工学部
    • 機械工学科
    • 機械電子創成工学科
    • 先端材料工学科
    • 電気電子工学科
    • 情報通信システム工学科
    • 応用化学科
  • 創造工学部
    • 建築学科
    • 都市環境工学科
    • デザイン科学科
  • 先進工学部
    • 未来ロボティクス学科
    • 生命科学科
    • 知能メディア工学科
  • 情報科学部(2024年4月学生募集停止)
    • 情報工学科
    • 情報ネットワーク学科
  • 社会システム科学部(2024年4月学生募集停止)
  • 情報変革科学部(2024年4月開設)
    • 情報工学科
    • 認知情報科学科
    • 高度応用情報科学科
  • 未来変革科学部(2024年4月開設)
    • デジタル変革科学科
    • 経営デザイン科学科

大学院[編集]

  • 工学研究科博士前期課程博士後期課程)※2019年度入学生まで
    • 機械サイエンス専攻
    • 電気電子情報工学専攻
    • 生命環境科学専攻
    • 建築都市環境学専攻
    • デザイン科学専攻
    • 未来ロボディクス専攻
  • 工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
    • 機械工学専攻
    • 機械電子創生工学専攻
    • 先端材料工学専攻
    • 電気電子工学専攻
    • 情報通信システム工学専攻
    • 応用化学専攻
  • 創造工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
    • 建築専攻
    • 都市環境工学専攻
    • デザイン科学専攻
  • 先進工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
    • 未来ロボティクス専攻
    • 生命科学専攻
    • 知能メディア工学専攻
  • 情報科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
    • 情報科学専攻
  • 社会システム科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
    • マネジメント工学専攻

廃止された学科[編集]

(旧制大学)
(新制大学)
  • 工学部
    • 機械工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
    • 金属工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
    • 工業経営学科(1950-2001・社会システム科学部に改組)
    • 電気工学科(1953-2003・電気電子情報学科に改組)
    • 電子工学科(1961-2003・電気電子情報学科に改組)
    • 工業化学科(1961-2003・生命環境科学科に改組)
    • 土木工学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
    • 建築学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
    • 精密機械工学科(1966-2003・機械サイエンス学科に改組)
    • 工業デザイン学科(1988-2003・デザイン科学科に改組)
    • 情報工学科(1988-2001・工学部から情報科学部に改組)
    • 情報ネットワーク学科(1997-2001・工学部から情報科学部に改組)
    • プロジェクトマネジメント学科(1988-2001・工学部から社会システム科学部に改組)
(工学部再編前)

沿革[編集]

年表[編集]

創設時に校舎が存在した玉川学園1942年
一時期校舎を構えた上智大学1944年 - 1945年
移転当初の津田沼キャンパス(1950年
津田沼キャンパス(2012年
年  月日 沿革
1929年 4月 小原國芳成城学園から分離し、町田財団法人玉川学園を設立。幼稚部初等部中等部を設置する。
6月 永野修身海軍兵学校長が学園視察に来訪。最高学府である大学設置構想を説明する。
1939年 9月 大学設置に向けて中等部の上に専門部(玉川塾)を設置し、森矗昶の協力を得て産学連携による実践教育を開始。
1940年 9月 東久邇宮が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化する。
1941年 6月 「玉川塾工業大学」設置許可申請を文部省(現・文部科学省)に行うが受理されず。
12月8日 太平洋戦争開戦
興亞工業大學設置許可申請文部省(橋田邦彦文部相)受理[注 3]
1942年 5月15日 東京府町田町(現東京都町田市)の玉川学園内に「興亞工業大学」の名称で創立(予科3年・本科3年)
小原國芳が理事・学監、東郷実が理事長、小西重直が学長、本多光太郎が顧問に就任。
5月24日 成城中学早稲田中学で第1回入学試験を実施。
6月8日 開校式を実施。航空工学科(50名)、冶金学科(50名)、機械学科(60名)の160名が入学[注 4]
1943年 7月 小原國芳が理事・学監を辞任。森曉が2代目理事長に就任。
10月30日 顧問(顧問教授)の本多光太郎の後任として、東京工業大学学長の八木秀次が相談役に就任し、新体制が決定する。
1944年 4月 玉川学園内から予科・財団本部が、皇居近くの東京市麹町区紀尾井町上智学院(上智大学)内に移転。
9月 神奈川県川崎市大師河原日本冶金川崎製造所構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得。
10月1日 日本冶金川崎製造所内に工学部(本科)を開設。
1945年 4月13日 東京空襲によって麹町本部・予科校舎が全焼。
5月25日 東京空襲の余波で川崎学部校舎も罹災。
9月 東久邇宮内閣によって太平洋戦争(第二次世界大戦)の日本の降伏文書調印。
君津の旧海軍施設の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学に委託。
戦災による実験設備の損失から学生東大東工大東北大などに預け、卒業研究を開始。
11月11日 君津の旧海軍第2航空廠八重原工員養成所設等の施設(君津校舎)の設営管理を開始。
1946年 3月30日 東京から千葉県君津町に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改称。
12月4日 玉川学園側との会談の結果、小原國芳から寄贈された土地・建物を清算して不動産を所有しない大学となる。
1947年 2月7日 君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電による火災で延焼。
3月 公職追放の影響を受けて2代目理事長の森曉、学長の小西重直などが大学を去る。
9月30日 第1回卒業式。
1948年 4月 田中航空機器製作所津田沼工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請。
予科寮を旧君津海軍病院施設に移転。
12月 千葉大学(当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される。
1949年 4月 新制大学となる。
11月26日 PPA創立。
1950年 鐵道第2聯隊跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転。
1953年 11月 校歌制定。電気工学科を増設。
1954年 10月7日 大久保の旧軍施設(旧陸軍習志野学校)を取得。
1955年 電気工学科第2部を増設。
1961年 3月10日 電子工学科工業化学科を増設。
1962年 8月 千種校地を取得。
12月20日 土木工学科建築学科を増設。
1964年 4月1日 日本私立大学協会常務理事校となる。
1965年 8月11日 大学院修士課程(工業化学科、金属工学科)を設置。
8月11日 飯岡研修センターを開設。
1967年 3月31日 千種寮が完成。
1968年 千葉市千種校地に電子計算センター完成。
1972年 千種校地に硬式野球場・武道館完成。
1986年 芝園校舎(現・新習志野校舎)が完成。
1987年 茜浜運動施設(茜浜校地)完成。
1988年 工学部第一部情報工学科、工業デザイン学科を新設。
1989年 大学院工学研究科博士課程(金属工学専攻・工業化学専攻)
修士課程(機械工学専攻・電気工学専攻・電子工学専攻・建築学専攻)を増設。
1990年 第2部電子工学科・情報工学科・建築学科を増設。
大学院工学研究科博士課程(土木工学専攻)修士課程(精密機械工学専攻)を増設。
1991年 第1部既設学科(金属工学科を除く)の定員を増加。
大学院工学研究科博士課程(機械工学専攻・電気・電子工学専攻)を増設。
1992年 大学院工学研究科博士課程(建築学専攻・精密機械工学専攻)
修士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。
1994年 大学院工学研究科博士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。
1995年 大学院工学研究科修士課程(経営工学専攻)を増設。
1997年 第1部情報ネットワーク学科・プロジェクトマネジメント学科を増設。
1999年 工学部に社会人対象教育を充実するために昼夜開講制を導入。
ハイテクリサーチセンター開設。
2001年 工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に移行。
3学部全学科に昼夜開講制を導入。
2002年 鯨生態観測衛星「観太くん」の打ち上げに成功。
2003年 工学部9学科を5学科に改変してフレックス制を導入
(機械サイエンス学科・電気電子情報工学科・生命環境科学科・建築都市環境学科・デザイン科学科の5学科)。
未来ロボットセンターを開設。
日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー(FTTD)LANを構築。
大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能ICカード」を大学内諸施設へ導入。
2004年 大学院工学研究科11専攻を3研究科(工学研究科・情報科学研究科・社会システム科学研究科)7専攻に改組。
2005年 文部科学省特色ある大学教育支援プログラムに採択、現代的教育ニーズ取組支援プログラムに選定される。
2006年 工学部に未来ロボディクス学科を新設。
4月 御宿研修センター開設。
格付投資情報センター(R&I)による格付けフォローアップ調査の結果「AA-(ダブルA・マイナス)」を維持。
2008年 フレックス制を廃止し、全学部学科とも昼間部に移行。
2009年 4月 社会システム科学部に金融・経営リスク科学科を、また、大学院工学研究科に未来ロボティクス専攻を設置。
惑星探査研究センターを開設。
2012年 5月22日 東京スカイツリーイーストタワーに東京スカイツリータウンキャンパスを開設。
2014年 2月23日 東京スカイツリータウン(R)キャンパスAreaII開設。
4月 新学生寮(桑蓬寮・椿寮)完成
2015年 3月3日 キャンパス内に千葉銀行と共同で、千葉工大ひまわり保育園を設置。
4月1日 人工知能・ソフトウェア技術研究センター STAIR Labを設立。
2016年 4月 国際金融研究センター(GiFr)、次世代海洋資源研究センター(ORCeNG)を設立。
2023年 5月 第14代学長に伊藤穰一を選出。任期は2023年7月1日から2027年6月30日までの4年間[17][18]

新聞広告「科学者に告ぐ」の公示[編集]

2022年5月千葉工業大学は『千葉日報』に「科学者に告ぐ」という表題の全面広告を掲載した。これは科学技術が軍事力に転用されることに警鐘を鳴らすものである[19]

基礎データ[編集]

所在地[編集]

  • 大学本部(津田沼キャンパス本号館・〒275-0016 千葉県習志野市津田沼2-17-1)
  • 津田沼校地(津田沼キャンパス・千葉県習志野市津田沼)
  • 芝園校地(新習志野キャンパス・千葉県習志野市芝園
  • 茜浜校地(茜浜運動施設・桑蓬寮・椿寮・千葉県習志野市茜浜
  • 千種校地(千種寮・千葉県千葉市花見川区千種町)

象徴[編集]

逍遙歌
桑蓬の歌
1946年(昭和21年)学生作詞、学生作曲。
たれ邯鄲の夢に酔ひ
1946年(昭和21年)松藤淳 作詞、山口猛 作曲。
あゝ狂瀾の
?年(昭和?年)作詞、? 作曲。
饗宴の賦
?年(昭和?年)逍遙歌。? 作詞、? 作曲。
スクールカラー
紫紺色でDICカラーガイドのDIC256が指定されている。
モニュメント「永久の環」(芝園校舎)
メビウスの帯無限の記号「∞」をモチーフにしたアルミ製のモニュメント。
東日本大震災後の修復工事の際に撤去された。

所有施設[編集]

附属の研究所[編集]

千葉工業大学工学研究所[編集]

1970年から1975年にかけて設置されていた、社会貢献産学連携に主眼を置いた研究所。

地球学研究センター[編集]

2019年7月設立。分析化学など自然科学と、人文科学に属する考古学学際的研究に取り組む。古代エジプトツタンカーメン墓所副葬品である鉄剣の解析などで実績を上げている[20]

学校法人直轄の研究所[編集]

未来ロボット技術研究センター[編集]

2003年(平成15年)6月1日から、morph3の研究開発チームは科学技術振興機構北野共生システムプロジェクトから千葉工業大学・未来ロボット技術研究センター(fuRo)に移籍。「人とロボットの共生」をテーマに未来のロボット技術に関する研究を行っている。

惑星探査研究センター[編集]

2009年(平成21年)4月から、松井孝典東京大学新領域創成科学研究科教授を所長に「惑星探査研究センター」を学内に開設した。センターではロボットによる宇宙探査を視野に入れ、研究を実施している。

人工知能・ソフトウェア技術研究センター[編集]

2015年に米澤明憲を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。センターでは幼児の言語獲得や学習過程の解明などを目標として研究をしている。

国際金融研究センター[編集]

2016年に小林孝雄を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。国際的な金融システムの創造や創出などを目的に研究をおこなっている。

次世代海洋資源研究センター[編集]

2016年に学内に設立された研究所の一つ。日本の次世代を担う海洋資源の調査や、新たな関連産業の創出・発展を目的とした研究がなされている。

研究[編集]

中島「橘花」[編集]

基礎科学にも優れた同大教授で海軍航空技術廠所属の中口博海軍技術大尉を中心に開発が進められた日本のジェット航空機。当初は中島飛行機内で開発が進められていた単座式エンジンをもとに計画されていたが、不調だった為、計画を大幅に変更し、石川島播磨重工業(IHI)の永野治によって開発されたネ20をベースに、大日本帝国海軍の双発ジェット戦闘攻撃機としてナチス・ドイツメッサーシュミット社よりデザイン等概要図を受け、日本国内で手に入るパーツや燃料等の材料で製造できるように細部を含め内部構造設計された。日本初の国産ジェット機でもある。

鯨生態観測衛星「観太くん」[編集]

この取り組みは謎が多い鯨の生態を、衛星を使って宇宙から解明することを目的に立ち上げられた試みである[21]。このプロジェクトは、学生達が人工衛星の設計、制作に携わる日本で初めてのケースとなった[要出典]。また、衛星は学内の学科の域を超えて電気・電子分野、土木分野、機械工学分野、工業デザイン分野、建築分野などの学生が参加して開発された[要出典]。鯨生態観測衛星「観太くん」は、2002年12月14日種子島宇宙センターからH-IIAロケット4号機で打ち上げられ、予定の軌道上に乗った[22]。「観太くん」から送られてきた観測情報は、学内外で研究に役立てられている[23]

レスキューロボット・原発調査ロボット[編集]

東日本大震災後に福島第一原子力発電所へ最初に投入された国産ロボット「Quince」は、千葉工業大学と東北大学の共同開発である[24][25]。また、千葉工業大学は遠隔操縦ロボット「SAKURA」を原子力緊急事態支援センターで試験運用したり、NEDOのプロジェクトによる「櫻壱號」の開発を行ったりしている[26]

流星観測カメラシステム「メテオ」+流星観測衛星「S-CUBE」[編集]

アメリカ航空宇宙局(NASA)と協力して行われた流星観測プロジェクト。

はやぶさ2[編集]

宇宙航空研究開発機構(JAXA)と協力して行われている観測プロジェクト。

水星探査[編集]

宇宙航空研究開発機構 (JAXA) や欧州宇宙機関 (ESA) と協力した水星探査計画。

教育[編集]

採択されているプログラム[編集]

特色ある大学教育支援プログラム[編集]

2005年、文部科学省]が選定する「特色ある大学教育支援プログラム」に「マルチメディア教材による教育・学習支援」(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)が採択された[要出典]。情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価などを行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が評価され採択された[要出典][27]

学生生活[編集]

サークル活動[編集]

以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画などが行われている(2020年(令和2年)5月現在)。

体育会
  • 38サークル(28部、6同好会、4愛好会)が所属する。
  • 例年『体育会誌』が発行されている。
文化会
  • 35サークル(30部、5同好会)が所属する。
  • 2012年(平成24年度)より『文化会誌』が発行されるようになった。

イベント[編集]

文化の祭典
毎年5月下旬に文化系サークルを中心に学生の企画・運営で開催される文化祭。
スポーツフェスティバル
毎年10月中旬に体育会を中心に学生の企画・運営で開催されるスポーツイベント。自由参加で体育会(部活)に所属していない学生も参加できる。卓球やサッカーなど球技が主体。
津田沼祭
毎年11月下旬に津田沼祭実行委員会・学友会執行委員会を中心に学生の企画・運営で開催される学園祭。1970年代頃からキャンパスが立地する地域との交流促進のため、当地の地名を取って「津田沼祭」と呼称するようになった。

大学関係者と組織[編集]

大学関係者組織[編集]

  • 千葉工業大学同窓会 - 学生・卒業生・教職員による同窓会[28]
  • 千葉工業大学PPA - 保護者・教職員による後援会組織[29]

大学関係者一覧[編集]

施設[編集]

キャンパス[編集]

津田沼キャンパス[編集]

津田沼キャンパス正門
2006年からのキャンパス再開発5か年計画によって、2008年に新1号棟が完成した。2010年に学生ホールが、2011年に新2号棟が完成した。2013年に、新1号棟を2号館、新二号棟を1号館、学生ホールを3号館と名称変更した。

新習志野キャンパス[編集]

新習志野キャンパス正門
  • 所在地:千葉県習志野市芝園
  • 使用学年:1・2年
  • 使用学部:全学部
  • 使用研究科:stub
  • 使用附属施設:クラフトハウス
  • 敷地面積:123,574.00 ㎡
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車、南口より徒歩6分[30]
    • バス:京成バス「千葉工業大学入口」停留所下車、徒歩3分[30]
幕張新都心に隣接している。千葉工業大学では「環境と人にやさしいキャンパス」と標榜している。2013年4月に、芝園キャンパスから新習志野キャンパスに名称変更した。

東京スカイツリータウンキャンパス[編集]

東京スカイツリーソラマチ8階に設けられたサテライトキャンパス。レスキューロボットや超巨大ロボティックスクリーンなどが展示されている。

運動施設[編集]

茜浜校地(運動場)[編集]

  • 所在地:千葉県習志野市茜浜
  • 敷地面積:98,304.00 ㎡
  • 交通アクセス
    • 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩20分
    • バス:京成バス(習志野市ハッピーバス)「海浜公園」停留所下車すぐ[31]
新習志野(芝園)キャンパスの南方に存在し[30]、野球場、サッカー場などがある。1987年に設置された[32]

[編集]

男子寮の名称は「桑蓬」と称する。この名称は中国の故事「桑蓬之志」に由来。

桑蓬寮(そうほうりょう)
新習志野キャンパス傍にある男子寮で[30]、2014年に完成[32]
椿寮(つばきりょう)
新習志野キャンパス傍にある女子寮で[30]、2014年に完成[32]

対外関係[編集]

他大学・高専との協定(国内)[編集]

包括提携校[編集]

大学
高等専門学校

単位互換協定校[編集]

四年制大学
短期大学

連携大学院[編集]

中高等学校との協定[編集]

その他[編集]

海外学術交流(大学/機関)[編集]

文部科学省資料[33]による。

アジア地域
中東地域
アフリカ地域
ヨーロッパ地域
アメリカ地域

留学プログラム[編集]

語学研修

  • グアム大学(英語)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス語)
  • ハルビン工業大学(中国語)

短期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • パシフィック大学(アメリカ)
  • コロラド大学ボルダー校(アメリカ)

長期留学

  • ハルビン工業大学(中国)
  • スウェーデン王立工科大学(スウェーデン)
  • コンピエーニュ工科大学(フランス)
  • ペンシルベニア州立大学(アメリカ)

産官学間での連携[編集]

千葉工業大学では、企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている。

主な連携団体(判明分)

企業との連携[編集]

自治体との連携(協定)[編集]

千葉県

研究・教育機関との連携(協定)[編集]

工大の煉瓦門(文化財)[編集]

千葉工業大学通用門(旧鉄道第二連隊表門)
現在千葉工業大学が使用している通用門は、かつて同敷地内にあった鐵道聯隊が使用していた営門を残したもので、銀杏並木がならぶ通用門は国土の歴史的景観に寄与しているとして、1998年登録有形文化財に登録された[38][39]。一般には「工大の煉瓦(れんが)門」[38][39]、または「工大の赤煉瓦(あかれんが)門」[40]と呼ばれている。

メディア[編集]

撮影協力・製作協力

事件・不祥事等

  • 2012年に千葉工業大学側の報告によって経済産業省からの研究費使用に関して不正のあったことが発覚した[41]。具体的な不正の内容としては、千葉工業大学の研究者が物品などを購入していないにも関わらず、取引業者より購入したとする偽装工作を行い、同研究費から業者に物品購入代金として金を支払っていたというのが一点[41]、もう一点は千葉工業大学の研究者が同研究費を私的目的に使用し、その金の流れを取引業者に研究目的のための物品購入であったことを偽装工作させるなどした[41]、というものであった。これら千葉工業大学の不正に関し経済産業省は、交付した研究費の返還、一定期間研究費交付停止、などの処分を行った[41]
  • 2017年1月10日に大学教員が学生の成績情報などの個人情報をメールに添付し外部の複数の人物に送信してしまう事件が発生した[42]。流出した情報は、学生の氏名や学籍番号、成績などであったという[42]

企業からの評価[編集]

出世力[編集]

  • ダイヤモンド社の2006年年9月23日発行のビジネス誌『週刊ダイヤモンド』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査[43][44])で、千葉工業大学は、2006年時点で存在する全国の744大学中、第50位にランキングされた[45]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 理工学部を持つ総合大学である旧帝国大学はどれも数に含めず、対象を「現存する単体の理工系大学」に限定した場合。1929年に国立の東京工業大学が設置され、1942年に私立の興亞工業大學(千葉工業大学の前身)が設立された。東京工業大学と同時に昇格した官立の大阪工業大学(1929年設立)は、1933年に大阪帝国大学に吸収されたため数に含めない。日本最初の私立理工系単科大学である藤原工業大学(1939年設立)も、1944年に慶應義塾大学に併合されて同大学の工学部となったため数に含めない。1881年に設置された専門学校である東京物理学校を前身とする東京理科大学は理工系単科大学として昇格したのが1949年であるため数に含めない。これら以外の現在存在する国立:私立の理工系(単科)大学は全て戦後に設立されたものである。
  2. ^ 設置が計画されたが戦時のため、機械学科に変更された。戦後に生産工学、経営工学分野を扱った学科として早稲田大学に次き2番目に設置された
  3. ^ 日本人東洋人)を代表してクリスチャンで、教育家小原國芳が大学設立趣意書を提出(アジア解放を望んだ日本国民の自発性を尊重すると共に、再起と誡めの契約を結ぶ)
  4. ^ 急な開校指令だったこともあり全ての建物が完成していなかったため、講義を屋外で行う

出典[編集]

  1. ^ 当初は澤柳と小原が運営に関与していた成城学園で理想の実現を体現しよう心血を注いできたが、段々と成城学園が発展していくに従って進学実績を伸ばしたい教職員と保護者の意見が強くなり、陸軍士官学校東京帝国大学をはじめとする帝国大学への進学の為の進学塾としての性格が強くなり、両人が元々考えていた理想とする人材教育が消えてしまった。小原は、この成城学園の失敗経験から本当に国家を導ける理想の人材を新しく育てるべく、澤柳の遺訓を引き継ぎ、最高学府である大学(本学)の設立を構想し始めるようになる
  2. ^ 江戸時代までは日本精神をもとに指導者的資質を有する人材(リーダー)の養成を目的とした教育が中心であった。明治から大正時代までは松下村塾などの江戸時代までの教育を受けた元勲をはじめ指導的立場の人間は十分にいた。しかし、近代化を達成するために必要だった西洋の進んだ知識や技術を有する専門家が圧倒的に不足していた。これを受けて、明治の元勲らを補佐する専門家集団(参謀官僚、技術者など)の養成が、急ピッチに整備されていった。その過程で人づくり(教育)が変質し、後に明治の元勲が死に絶えると、国をまとめるリーダーが消え、各専門家集団がセクショナリズムを形成し対立化するなど様々な問題が生じた。本学の大きな特徴は、国家枢要の人材養成に加え、新教育を軸に全人的教育を目指す(バランスの取れた調和ある人格を有する向学心溢れるリーダーを養成すること)というもの(小原國芳#全人教育と小原の教育理念)であった。これは当時の東京帝国大学(後の東京大学)を代表とする日本のそれまでの既存の大学教育(西欧から輸入されてきた19世紀までのヨーロッパ的な「教師が一方的に、生徒に対し、特定の専門知識だけを、一律に教え込む」という旧来の教育活動)とはコンセプトが大きく異なっていた。[要出典]
  3. ^ 小原國芳の言葉「国を造るのは、結局『人』である。その国に住む一人一人の人間がどういう『人』であるかが、その国の価値と、将来とを決めるのである。その国の青年を見れば、その国の将来がわかるという。まさに、国を造るときに最も重要なのは『人』である。だから『教育立国』でなければならない。教育が『人』をつくり、『人』が、国をつくり世界をつくる。『教育』は、人生の最も重要な仕事の一つである」
  4. ^ 西洋化の過程において、日本は欧米諸国の制度や文化を導入しましたが、その中で階級主義的な価値観や権威主義的な傾向が取り込まれました。この影響により、社会の中で上位に位置するエリートとされる人々が、自己の地位や能力に対する過度の自負心を持ち、他者に対して優越感を抱くことがしばしば見られました。エリートたちは、その優越性を強調し、学閥や派閥を形成して自己の利益を追求しました。特に、エリート校から輩出された者たちは、自身の学歴を持って他者に対して優越感を示すことが多く、これが社会内の緊張や対立を生む一因となりました。創立関係者たちもこのエリート層に属しており、彼ら自身が学歴差別(例えば、西田幾多郎の例)や迫害の経験(例えば、八木秀次の例)を通じて、社会の複雑さや問題を理解していました。この時期の社会は、出世や成功を追求する風潮が強く、教育現場においても成績の競争が主要な焦点とされました。教員や保護者は、生徒や子供が良い成績を取ることに焦点を当て、その結果を出世や社会的成功と結びつける傾向がありました。特に、政府高官の妻たちは、教育現場において強力な影響力を持ち、自分の意向を押し付けることがありました。社会全体に出世主義的な風潮が強く広がり、教員や保護者までが教育現場に口出しをし、自身の教え子や子供の成功を追求し、圧力をかける傾向がありました(小原國芳の言葉を引用)。このような風潮の中で、学生や生徒たちは、単にテストの点数を追求することに集中し、教育の本質的な側面を軽視する傾向がありました。小原國芳は、「点取り虫」「棒暗記」「一夜漬け」などの表現を用いて、教育の偏りや浅ましさを指摘しました。小原國芳は、教育の本来の目的や意味を見失わないよう呼びかけました。彼は、生徒たちが実際の問題に向き合い、それを克服する過程で責任感や根気強さを培うべきだと強調しました。また、創意や工夫、発明、アイデアを大切にする教育の必要性を訴え、点数競争よりも本質的な知識と資質の育成を重視するべきだと述べました。このようにして、日本の教育現場や社会全体での浅ましい風潮や偏りに対する危機感から、小原國芳は全国の教師に対して、より実践的で創造的な教育を推進する勇気を持つよう呼びかけました。彼の提唱は、教育の価値観や方向性を見つめ直す契機となり、より幅広い視点での教育改革を模索するきっかけとなり海軍関係者を中心に多くの賛同者を得ました。
  5. ^ 学生生徒を大きな教室に集め、一律に同じような授業をし、同じような知識や思想、技術を持った人間を大量につくるやり方(小原國芳『教育と我が生涯 小原國芳』南日本新聞社より)
  6. ^ 官立大学は公的な教育機関であるため、平等な教育活動しかできず、学生生徒個人の個性を尊重した独創的な教育活動を展開することが困難で、当たり障りのない平均的な人間(金太郎飴のように切っても切っても同じような人材)しか育てられないという教育環境の問題、そして何より、官立大学は政府(国家)から資金を貰って運営されていることもあり、国家や政府の意に反する研究や発言をすると思想弾圧や言論弾圧を受け、学問の自由や大学の自治が妨害されるなどを関係者は痛いほど経験していた。
  7. ^ 小原國芳は私学教育の代表例として広瀬淡窓咸宜園吉田松陰の松下村塾、細井平洲興譲館などの例をよく挙げているが、それら私学の先哲者たちの教育精神を忘れない為に、玉川学園内には咸宜園と松下村塾の模築が建てられている。
  8. ^ 玉川学園大学部として計画した記述もあるが、姉妹校として計画したという記述もある
  9. ^ a b 玉川学園の歴史-興亜工業大学」玉川学園、(2013年6月5日)、2018年8月7日閲覧。
  10. ^ 昭和21年文部省告示第35号(『官報』第5771号、昭和21年4月13日、p.61
  11. ^ 『千葉工業大学五十年史』1992年、87-88頁
  12. ^ 在学者数”. 情報公開・大学概要. 千葉工業大学 (2014年5月1日). 2015年2月17日閲覧。
  13. ^ 入学案内 2015, p. 154-155.
  14. ^ 最新!「志願者数が多い大学」ランキング1002018/05/25
  15. ^ CITニュースより2023/03
  16. ^ 千葉工業大学 工学部 機械サイエンス学科 松井研究室「(研究所・研究室紹介)精密加工技術プラスアルファによる新展開を目指して」『精密工学会誌』第80巻第2号、2014年、167-168頁。 
  17. ^ 次期学長(第14代)に伊藤 穰一を選出”. 千葉工業大学 (2023年9月23日). 2023年10月17日閲覧。
  18. ^ 学長メッセージ”. 千葉工業大学 (2023年9月23日). 2023年10月17日閲覧。
  19. ^ 「科学者に告ぐ」広告も話題 「攻め」の姿勢が際立つ千葉工業大学に聞く「生き残り戦略」『週刊朝日』松岡瑛理執筆2022-6-14
  20. ^ 【UPDATE 知の現場】千葉工業大学 地球学研究センター/文明の根源、科学で探る日本経済新聞』2020年6月10日(大学面)2020年7月5日閲覧
  21. ^ 林友直「鯨生態観測衛星(観太くん)プロジェクトについて」『瀬戸内海』第31号、2002年、32-34頁。 
  22. ^ 林友直、岡本良夫、横山幸嗣、細川繁、冨田秀穂、升本喜就「鯨生態観測衛星システムとその応用」『電子情報通信学会技術研究報告(SANE, 宇宙・航行エレクトロニクス)』第105巻第102号、2005年5月、13-20頁。 
  23. ^ 鯨生態観測衛星(観太くん)オフィシャルページ Archived 2009年7月3日, at the Wayback Machine.
  24. ^ “廃炉に挑むロボット”. 四国新聞: p. 4. (2015年1月4日) 
  25. ^ 廃炉に挑むロボット 待ち受ける最難関任務”. 2014年版新年動画. 47NEWS. 2015年2月17日閲覧。
  26. ^ 真野敦史『NEDO災害対応無人化システム研究開発プロジェクト』 117巻、1151号、2014年10月、666-669頁https://ci.nii.ac.jp/naid/110009864820 
  27. ^ 特色ある大学教育支援プログラム-特色GP&現代GP-教育・研究活動
  28. ^ 同窓会”. 大学案内. 千葉工業大学. 2015年2月17日閲覧。
  29. ^ PPA”. 大学案内. 千葉工業大学. 2015年2月17日閲覧。
  30. ^ a b c d e 入学案内 2015, p. 155.
  31. ^ 習志野市ホームページ & https://www.city.narashino.lg.jp/shisetu/koenshiseki/akanehamaryokuti.html.
  32. ^ a b c 入学案内 2015, p. 22.
  33. ^ 大学等間交流協定締結状況 日本側機関別一覧(千葉工業大学) - 文部科学省
  34. ^ 住宅床下点検ロボット開発
  35. ^ 高齢者在宅健康管理・支援システムを共同開発(2009.09.08)
  36. ^ (2009.02.09)
  37. ^ 習志野市産学官連携プラットホーム
  38. ^ a b 千葉県教育委員会 (2014年8月7日). “千葉工業大学通用門(旧鉄道第二連隊表門)”. 習志野市の県指定および国登録文化財. 千葉県. 2015年2月17日閲覧。
  39. ^ a b 千葉工業大学通用門(旧鉄道第二連隊表門)”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2015年2月17日閲覧。
  40. ^ 津田沼キャンパス”. キャンパス案内. 千葉工業大学. 2015年2月17日閲覧。
  41. ^ a b c d 経済産業省 (2013年11月12日). “学校法人千葉工業大学における委託費等の不適正な経理処理に対して措置を行います(METI/経済産業省)”. 経済産業省. 2014年10月15日閲覧。
  42. ^ a b Security NEXT (2017年1月27日). “成績情報含むファイルを学外に誤送信 - 千葉工業大”. 2017年2月18日閲覧。
  43. ^ 小樽商大を経済誌が高評価!出世できる大学全国第5位!」『小樽ジャーナル』小樽ジャーナル社、2006年11月6日。
  44. ^ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位
  45. ^ 出世できる大学ランキング 2024年2月8日閲覧

参考文献[編集]

  • 千葉工業大学PPA・千葉工業大学同窓会『千葉工業大学校歌・寮歌・応援歌集』
  • 小原國芳編『全人』No.113 玉川学園出版部、1942
  • 千葉工業大学二十五年史刊行委員会『千葉工業大学二十五年史』千葉工業大学、1967
  • 小原國芳 著、南日本新聞社 編『教育と我が生涯 小原國芳』玉川大学出版部、1977年11月。ISBN 978-4472028724 
  • 玉川学園五十年史編纂委員会『玉川学園50年史』玉川学園、1980年。 
  • 日本冶金工業『日本冶金工業六十年史』日本冶金工業、1985年11月。ASIN B000J6OBRI 
  • 千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992年。 
  • 戸高一成『[証言録]海軍反省会』PHP研究所、2009年8月。ISBN 978-4569709703 
  • 千葉工業大学70年史刊行委員会『千葉工業大学70年のあゆみ』千葉工業大学、2012年。 
  • 興亜工業大学”. 玉川学園について. 玉川大学・玉川学園 (2013年6月5日). 2015年2月16日閲覧。
  • 入学案内2015”. デジタル図書館. 千葉工業大学. 2015年2月17日閲覧。

関係文献[編集]

関連項目[編集]

Wiki関係他プロジェクトリンク[編集]

外部リンク[編集]