望夷宮の変

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望夷宮の変(ぼういきゅうのへん、望夷宮之変)、ないし望夷の禍(ぼういのか、望夷之禍)[1]は、秦朝の末期の紀元前207年に、丞相であった趙高やその娘婿である閻楽らが、共謀して二世皇帝胡亥を望夷宮において殺害した事件。

史記』秦始皇本紀第六に経緯が伝えられている。

背景[編集]

紀元前207年(秦二世3年)の冬[2]趙高は、丞相であった李斯を殺害した。その年の夏、秦の将軍であった章邯は、前年より発生した反乱軍相手に敗戦を重ねていた。趙高は何度か使者を送って章邯を責め、これを恐れた章邯は、長史中国語版司馬欣を派遣して趙高との面会を申し込ませたが、趙高はこれと面会しようとしなかったため、司馬欣は章邯のもとに逃げ帰り、「趙高は、将軍を、功を立てても誅殺し、功を立てなくても誅殺するつもりだ」と伝えた。陳余も章邯に対し、「反乱軍に寝返るべきだ」という書簡を送ってきた。これを受けた章邯は逡巡した末、ついにの将軍である項羽に対して降伏することを決意し、その旨を伝えようとしたが、その前に項羽が秦軍を急追し、王離を捕らえるなどして章邯の軍を大いに破った。ほどなくして章邯は楚に投降した。

以前から、趙高は、二世皇帝胡亥に「函谷関以東を盗むことはさせない(關東盜毋能為也)」と何度も言っていた。趙高は、項羽が王離など秦軍の将を鉅鹿で捕らえる事態となっても進軍を命じ、敗北を重ねた章邯が何度も宮廷に支援を求めたにもかかわらず、これをすべて拒んだ。山東六国では、いずれもかつての国を復興させる動きが起こり、函谷関より東の地では、民衆がことごとく諸侯に応じて反乱を起こし、諸侯はその反乱軍を率いて秦の中心部を目指していた。趙高は、事態に驚き慌て、実情が皇帝にまで伝わる事を恐れた。そこで趙高は、武装反乱を企てるが、朝廷の官吏たちの思惑は分からなかった。秦二世3年8月12日[3]、趙高は「指鹿為馬」事件を仕掛け、これを機に、自分に反対しそうな者たちの粛正を進めた。一方、楚の沛公であった劉邦は軍勢を関中に侵攻させ、使者を送って密かに趙高と会見した。趙高は、機を逃さずに皇帝を除き、自ら王となろうという考えをもつようになった。

経過[編集]

趙高は、まず病と称して皇帝の前に出なくなった。皇帝は、1匹の白虎が自分の馬車の左側のそえ馬を食い殺してしまう、という夢を見、大いに吐き気を覚えた。そこで占いをさせると、「涇河に祟られている」という結果が出たので、皇帝は望夷宮(遺跡が咸陽市涇陽県蒋劉郷)にある[4])に移り、祭祀を行なうために、4頭の白馬を涇水に沈めた。皇帝は、人を遣わして、趙高に東方の反乱について問いただした。趙高は恐れ、娘婿で咸陽令となっていた閻楽、弟の趙成と謀議し、「お上は諫言を聞かず、この事態の急変の責任を我々一族に負わせようとしている。私はお上を替え、後継に公子である子嬰を立てたい。子嬰は倹約を重んじ、民も皆その言を聞くことだろう」と述べたという。

謀議により、郎中令の趙成が内応し、敵が来たと称して騒ぎ、閻楽が兵士たちを呼び出して率い、また、(人質になっていた)閻楽の母を趙高の屋敷へと連れ出す手筈となった。閻楽は千人あまりの兵士を率い、望夷宮の殿門まで攻め込み、衛令、僕射を捕らえて「賊が入ったが、なぜ止めなかった」と詰問した。衛令は「宮は厳重に守っているから、賊が入ることなどあろうか?」と答えた。閻楽は衛令を殺し、宮殿の中へと踏み入った。中にいた宦官や役人たちは散り散りに逃げ去り、前進を阻もうと抵抗した者もあったが、その者たちはことごとく殺された。結局数十人が殺された。閻楽と郎中令(趙成)は、皇帝の寝所に至り、寝所の帳を射った。皇帝は怒って周りに人を呼び寄せようとしたが、みな恐れて寄り付かず、結局傍らにはひとりの宦官が居るだけとなった。皇帝は、なぜ現状を早く知らせなかったのかと宦官を問い詰めたが、宦官は「私は諫言しなかったから、生きのびていられたのだ。もし、もっと前に諫言をしていたら、とっくに誅殺されてしまい、今まで生きていなかっただろう」と応じた。

閻楽は皇帝の面前に達し、皇帝の罪状を数え上げ、自死を求めた。皇帝は丞相の趙高にもう一度会いたいと言ったが、閻楽はできないと応じる。皇帝は、退位するからせめて郡王にしてくれと求めるが、閻楽は同意しない。皇帝は、一歩退いて万戸侯でもと懇願するが、閻楽は答えない。最後に皇帝は、絶望して、自分の公子たち、またその妻子ともども、平民百姓としてほしいと望む。閻楽は、「私は丞相の命を受け、天下の百姓に代わってあなたを死刑に処す。あなたは多くを話したが、敢えて丞相に報告することはない」と語った。そして配下の兵を招き寄せた。皇帝は生き延びられない事を知り、閻楽に威嚇されながら、剣を抜いて自害させられた。24歳であった。

脚注[編集]

  1. ^ 三国志 魏書六 董二袁劉伝第六》(晋陳寿撰,宋裴松之注)先是,太祖遣劉備諧徐州拒袁術。術死......魏氏春秋載紹檄州郡文曰、盖聞明主図危以制変、忠臣慮難以立権。曩者強秦弱主、趙高執柄、専制朝命、威福由己、終有望夷之禍、汚辱至今。
  2. ^ 秦の正月は亥月である(新年が前漢太初暦以降の旧暦より3か月早い)ため、年の初めが冬になる。
  3. ^ 二世三年八月己亥。ユリウス暦紀元前207年9月27日。なお当時はユリウス暦実施前であり、計算上の暦日であって当時のローマ暦とは異なることに注意。
  4. ^ 泾阳县文物保护单位保护范围”. 泾阳县人民政府网站,来源:泾阳县文物旅游局 (2011年8月8日). 2012年4月13日閲覧。

参考文献[編集]