有馬則頼

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有馬 則頼
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文2年2月23日1533年3月18日
死没 慶長7年7月28日1602年9月13日
別名 源次郎[1]、無清[1]、兵部卿法印[2]、刑部卿法印
戒名 梅林院
墓所 梅林寺久留米市
官位 従四位下中務少輔刑部卿
幕府 室町幕府
主君 三好長慶/別所長治豊臣秀吉徳川家康
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬重則、母:細川澄元
兄弟 則頼則次豊長
正室別所忠治娘・
則氏豊氏則次豊長有馬重頼室、渡瀬繁詮正室、石野氏満正室、中山慶親
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有馬 則頼(ありま のりより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名摂津国三田藩主。有馬重則の二男[1]

生涯[編集]

天文2年(1533年)、播磨国三津田城(満田城)で誕生した。永禄年間に家督を継承し、三好長慶別所長治に従う[1]

天正8年(1580年)、羽柴秀吉織田信長の命を受けて中国攻めを開始すると、その嚮導役を務めて戦功があり、秀吉から播磨淡河3200石を与えられた[1]

天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いにおいて長男・則氏を失っている。その後も九州平定朝鮮出兵などに参加し、いずれも功を挙げた。豊臣氏による伏見城築城にも功績があり、1万5000石まで加増されている[1]。なお、次男・豊氏も秀吉に仕えており、父とは独立して所領を得ている。

則頼は茶人としても高名であり、秀吉に御伽衆(相伴衆)として仕えた。薙髪後は刑部卿法印を称し、同様に御伽衆を務めた金森長近(法印素玄)・徳永寿昌(式部卿法印)と共に「三法師」と称された[1]

秀吉の死後は子の豊氏と共に徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦に参戦した。その功により慶長6年(1601年1月18日、1万石を加増され、摂津有馬氏縁故の地である摂津有馬郡三田2万石に転封となり、三田藩を立藩している。

慶長7年(1602年)7月28日、三田において70歳で死去。淡河の天正寺に葬られた[3][2]。遺領は丹波国福知山藩主となっていた次男の豊氏が継承した。

豊氏は、のちに大坂の陣の軍功により久留米藩初代藩主となっている。

逸話[編集]

  • 清洲会議の際のエピソードとして以下が伝えられている。会議に際して柴田勝家らは秀吉を害しようとしたが、遅れてきた則頼が城門を押し通り、秀吉の側にあって護衛にあたった。秀吉はこれを徳として則頼を厚遇したという[1]
  • 秀吉はしばしば則頼の大坂屋敷の茶席に臨み、附藻茄子茶入牧谿の画軸など、さまざまな名品を与えた[1]
  • 文禄年間(1592年 - 1596年)、秀吉が徳川家康を伏見に留めて江戸に帰さなかったことがあり、家康の依頼によって則頼がその帰国のために取り計らったことが、家康との接近の契機になった[1]。『寛政重修諸家譜』によれば、その後再度上洛した家康は則頼に紅粉屋肩衝茶入を贈っている[2]

系譜[編集]

父母
配偶者
  • 正室:振(梅窓院)
別所志摩守忠治の娘。天正16年(1588年)没。淡河の長松寺に葬られた(のちに久留米梅林寺に改葬)[1]
子女

正室梅窓院との間に四男五女があったという[1]。『寛政重修諸家譜』は四男四女を記し、則氏・豊氏と女子4人を梅窓院の子、則次・豊長を庶子とする。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『久留米人物誌』p.47
  2. ^ a b c d 寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
  3. ^ のちに久留米梅林寺に改葬。

出典[編集]

  • 寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
  • 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)

登場作品[編集]