最上義康

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最上義康
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正3年(1575年
死没 慶長8年8月16日1603年9月21日
※慶長16年(1611年)説もあり
官位 修理大夫
出羽国山形藩一門
氏族 最上氏
父母 父:最上義光、母:大崎義直の娘
兄弟 義康家親清水義親山野辺義忠
上野山義直大山光隆
正室:白鳥長久の娘?、寒河江兼広の娘?
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最上 義康(もがみ よしやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将山形藩主最上義光の長男。

経歴

天正3年(1575年山形城最上義光嫡男として生まれる。最上氏を継ぐにたる英邁の資質で、心優しかったと伝わる。天正14年(1586年鮭延城の回復を目指して小野寺義道が侵攻すると最上義光と共に迎え撃ち、初戦は敗退してしまう。その後庄内の情勢が悪化し義光が庄内へ向かうと義康が対小野寺氏の総大将を務めた。義康は奮戦し、また楯岡満茂鮭延秀綱の奮闘もあり小野寺氏を撤退へ追いやった(有野峠の戦い)。

天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜され、文禄年間(1592年1596年)に旧寒河江氏所領を父から受け継いだとされる。

文禄4年(1595年)父・義光が豊臣秀次の謀叛に荷担したとして豊臣秀吉から嫌疑をかけられた際は、赦免を願い祈祷を行って父を感激させた[1]。また駒姫を失った母・大崎夫人は娘の後を追うように亡くなったとされるが、義康が政務をとる寒河江城からほど近い、寒河江正覚寺[2]で菩提を弔ったという逸話とともに遺品も伝承されている。

慶長5年(1600年徳川家康による会津征伐に呼応して山形には家康に与する諸将が集結するが、7月17日石田三成が挙兵すると家康は小山にわずかな兵を残し西へ転進する。これを受けて山形の諸将も国元に帰り、伊達政宗もまた上杉氏と一時的な和議を結ぶ。8月最上義光も義康を人質として和議を模索する[3]が不調に終わり、9月上杉の進攻を受ける(慶長出羽合戦)。

上杉軍が山形盆地まで到達すると、父の命令を受けて従兄弟の伊達政宗に救援を依頼するため陸奥国北目城に赴き、留守政景による援軍を引き出すことに成功する[4]。援軍を率いて戻った義康は関ヶ原の敗報により撤退する上杉軍への追撃戦に参加。上杉勢から射撃を受け窮地に陥った父を救っている。上杉本隊が米沢へ撤退すると庄内攻めの総大将を任され、慶長6年(1601年)3月までに上杉領庄内の全域を攻略した。

慶長出羽合戦まで父義光との仲は良好であったが、義光の近臣・里見民部、里見権兵衛と義康の近臣・原八右衛門(元上杉家臣)が父子離反をはかり双方に讒言したことから徐々に仲が険悪となった。折悪しく義康が寺に赴いた際、あやまって股を傷つけたのを里見が「若殿は大殿を恨み、自害しようとした」と義光に言上したためさらに仲が悪化した。このことは単純な父子の感情悪化だけではなく、徳川家康が義光の次男・最上家親を近侍として召し使い、大層気に入っていたため、彼に最上氏を継がせたいと考えたことがあったと言われている。

慶長7年(1602年)、義光がこのことを徳川家康に語ったところ、家康は本件を不快に思い「そのような子は切腹させるがよい」と述べたというが定かではない。しかし慶長7年以降、旧寒河江氏所領も弟、家親が支配するようになり安堵状が残る。

帰国した義光はいったん義康を城に呼び寄せるも、家臣らは彼に高野山に退去せよと義光の言葉を伝えた(ただし地理的に高野山は相当遠く、また山形から庄内経由で向かおうとしたのには無理が感じられる)。義康が重臣・浦山源左衛門らと高野山へ向かう途中、土肥半左衛門ら20名余に矢と鉄砲を射かけられた。源左衛門は即死、義康は臍を撃たれ自刃した。同道していた寒河江大江氏後裔寒河江良光(壽齋)・道広親子も凶弾に倒れたという[5]。丸岡での狩猟中に「上意」を称した一団が襲撃したという説もある。

義光は義康の首を見て涙した。彼は義康の遺品を調査し、父への武運祈願を記した日記を目にする。義光は我が子の死を深く悲しみ、家臣・斎藤光則に本件の調査を命じた。危険を察した里見民部は山形を去り、加賀前田家に逃れようとしたが義光の訴えにより引き渡された。民部は山形へ護送中、山賊に襲撃され死亡した。斎藤光則の手の者による粛清とも考えられる。義光は自らの死の前、後継者である最上家親に向かって「自分の死後、即座に里見一族を粛清せよ」と密かに命じていた。この遺言を受けた家親の粛清により、里見一族の大半は殺害された。一方、民部の甥にあたる里見重勝は、民部に父を殺されたことから一族粛清に加担した。一説によれば、里見・原は豊臣方に通じていたともいう。

義光は義光山常念寺[6]を義康の菩提寺とし、また追善のため仏像をつくり手厚く葬った。息子の死後、義光は病がちになったとも伝わっている。

関連作品

脚注

  1. ^ 大沼大行院(朝日町)に立願状が残る。『寒河江市史 中巻』p.15-16
  2. ^ 義光山常念寺住職岌讃専阿開山。慶長年間開山という。大崎夫人が使用したと伝わる遺品が残る。後世慈恩寺から移築されたと伝わる正覚寺阿弥陀堂には最上氏の家紋(丸に二つ引両)とともに、五七の桐紋が描かれている。
  3. ^ 『史料総覧』第11編913冊248頁。「上杉年譜」慶長5年8月18日2条
  4. ^ 『史料総覧』第11編913冊264頁。「伊達政宗記録事蹟考記」慶長5年9月15日6条
  5. ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.107、「安中坊系譜」
  6. ^ 慶長4年義光が100石の黒印地を与えたのに始まる。同年後陽成天皇の勅願寺の勅許を得る。出羽国浄土宗寺院は全て常念寺の配下に入った。(『寒河江市史 上巻』p.914-915)

参考文献

  • 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
  • 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 中巻』、1999
  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001

外部リンク

関連項目