暴力教室
| 暴力教室 | |
|---|---|
| 監督 | 岡本明久 |
| 脚本 |
奥山貞行 岡本明久 神波史男 福湯通夫 |
| 出演者 |
松田優作 舘ひろし 山本由香利 安西マリア 南条弘二 |
| 音楽 | 菊池俊輔 |
| 撮影 | 中島芳男 |
| 編集 | 田中修 |
| 製作会社 | 東映東京撮影所 |
| 配給 | 東映 |
| 公開 |
|
| 上映時間 | 85分 |
| 製作国 |
|
| 言語 | 日本語 |
『暴力教室』は、1976年東映東京撮影所で製作、東映で配給された日本映画。松田優作が本格的にアクションに挑んだ作品で[1]、松田の原点的作品[2]。また舘ひろしの映画デビュー作品で[3][4]、若き日の松田優作vs.舘ひろし率いるクールスのスクリーン上の激突がプレミアとなり知名度が高い[3][4]。
主演の松田は、この3年前にテレビドラマ『太陽にほえろ!』で俳優デビューしたが、前の年にドラマ『俺たちの勲章』の九州ロケ先の撮影現場で、予備校生への暴力事件を起こして逮捕され、謹慎処分を受けていた。この作品はその謹慎中の松田と、バイクチームでありロックバンドでもある「本物の不良」クールスとが「はみだし教師役と不良生徒役」という設定で対決するという触れ込みで売り出した[5]。クールスのサブリーダー・岩城滉一は併映の『暴走の季節』に主演し、本作には出演していないが、岩城以外の初代クールスのフルメンバーが総出演している[6][7]。
目次
あらすじ[編集]
名門私立高校・愛徳学園高校に転任してきた体育教師・溝口(松田)。だが、そこは非行少年グループによる暴力が支配する地獄の学園だった。溝口はリーダー・喜多条(舘)らグループの主要メンバーのいるクラスの担任を任される。さっそく初日の自己紹介でナイフの洗礼を受けるが、溝口は投げつけられたナイフを逆に喜多条に向かって投げ返し、不良たちに正面から対抗する。
体育担当の溝口は喜多条らを徹底的にしごきあげるが、喜多条らグループのメンバーはおかまいなしに授業を抜け出し、校内・校外を問わず無法の限りを尽くす。が、そのたびに溝口と対立。
一方その頃、学園の理事長・石黒(安部徹)は、校長・難波(名和宏)らと結託し、学園の移転に伴う土地売却にからめて巨額の利鞘をとろうと企てていた。この相談を立ち聞きしてしまった理事長の娘・ますみ(結城なほ子)は愕然とし、道をふみはずして夜の町で遊び呆けてしまう。酒、タバコ、シンナーに汚れてゆくますみを偶然見つけた喜多条は、ますみをグループにひきずりこみ、あられもない写真を撮って理事長・石黒に送り届ける。
スキャンダルとなるのを恐れた石黒らは、事態の収拾を図るべく溝口を派遣。溝口はメンバーの暴力を受けながらも写真のネガを取り返すことに成功する。このとき溝口はメンバーの一人の顔面を反射的に殴ってしまうが、あまりの鋭いパンチに疑問を持った喜多条は溝口の過去を調べる。溝口は元プロボクサーであったが、リング上で相手ボクサーを死なせてしまい、リングを去っていたのだ。「だから俺たちみたいなガキは相手にできないってわけか。てめえみたいな人間がいちばん汚らしいんだ」喜多条は溝口をなじるが、溝口は意にも介さない。
どうにもおさまらない喜多条は、溝口の妹・淳子(山本由香利)を犯す。逆上した溝口は翌日学校で多くの生徒や教師が見守る中、喜多条に鉄拳制裁を浴びせる。1対1の対決を望んだ喜多条は仲間の介入を拒否するが、自らが不利と見るや愛用のナイフを取り出し溝口に切りかかる。ここで校長・難波が警察に連絡。溝口は自宅謹慎となり、喜多条は退学となる。
ただでさえぴりぴりしているグループのバイクを、数学教師・坂本(室田日出男)が酔ったはずみでけとばしてしまい、報復としてグループのリンチを受ける。危険を感じた幹部は、生徒会長であり剣道部主将でもある新田(南条弘二)をたきつける。彼は剣道部を中心とする体育会系メンバーで特別高等警察のような親衛隊組織を結成、悪さをするグループに対し片っ端から制裁を加える。
一方、ますみから理事長の汚職について聞かされた女教師・花房(安西マリア)は、学園幹部の不正を糾弾すべく立ち上がるが、自他共に認めるサラリーマン教師の同僚教員は相手にしない。ビラをつくって抗議をしようとする花房の前に新田が立ちはだかる。校長・難波に抗議をする新田。彼もまた、学園幹部に対し不信感を抱く。花房は自宅で謹慎している溝口を訪れ、「頼りになるのはもうあなただけ」と協力を依頼するが、溝口は日本酒をあおるばかりで取りつく島もない。
淳子に送ってもらい帰路に就く花房だったが、ふたりを正体不明の覆面の集団が襲う。彼らはグループのトレードマークであるヘビのイラストがプリントされたジャンパーを着ていた。花房は草むらに数名に押し倒されて犯され、必死に逃げる淳子はトラックにひかれ重体に陥る。
事件のことを聞かされたグループのメンバーは「俺たちやってねえのに」といぶかしがる。喜多条は病院を訪れ、淳子の病室に入ると、無理矢理犯した罪の意識にただ立ちつくすばかり。妹の枕元にいた溝口は逆上し、病院の廊下で喜多条に雨霰と拳を浴びせる。そんな中、淳子は息をひきとる。
花房と淳子を襲った覆面の男たちは、グループの仕業と見せかけようとした体育会系グループだったことをつきとめた喜多条たちは、報復すべく学校に向かおうとする。が、そこへ現れる溝口。「妹は死んだ。ガキの出る幕じゃねえ。おとなしくうちに帰って寝な。これは俺個人の問題だ」そう言い残し、溝口は単身学園へ乗り込み、辞表をたたきつけた後、校長・難波に襲いかかる。すかさず新田を中心とする体育会系グループの妨害にあい叩きのめされる溝口だが、そこへ喜多条らがバイクに乗って登場し加勢する。新田が理事長たちの不正を知りながら、学園を守るのが自分の義務だと信じ敢えて従っていたことを知った喜多条らは、新田たち体育会系グループと死闘を演じ、これをたたき伏せる。一方難波を追いつめた溝口は、難波の日本刀攻撃に苦戦するが、最後には必殺のパンチを難波に浴びせ勝利する。乱戦の影響で炎につつまれる学園。無数の警官が到着。溝口と喜多条は、互いにふしぎな絆で結ばれたことを感じ取り、共に警官隊に向かって歩を進める。
キャスト[編集]
- 溝口勝利:松田優作
- 喜多条仁:舘ひろし(新人)
- 溝口淳子:山本由香利
- 花房悦子:安西マリア
- 新田勲:南条弘二
- 石黒ますみ:結城なほ子(前芸名=東島祐子)
- 数学教師:室田日出男
- たいやき屋の主人:佐藤蛾次郎
- 難波校長:名和宏
- 教頭:河合絃司
- 石黒理事長:安部徹
- 不良グループのメンバー:クールス
- 喜多条の父:丹波哲郎
- 岩崎満雄:津森正夫
- 田島正夫:高品正広
- 土屋耕作:松本智正
- 藤巻博:酒井努
- 小田切文夫:小林稔侍
- 山本:山田光一
- 三国:平井一幸
- 長岡:山本緑
- 唐沢泰子:田中久子
- 警察署長:相馬剛三
- 取調官:五野上力、
- 料理屋女中:伊藤慶子
- 看護婦:村松美枝子
- トラック運転手:青木卓司
- その他:神太郎、原田君事、亀山健也、沢田浩二、横山繁、山浦栄、宮地謙吾、栗原敏、溜健二、星純夫、秋みちる、沢本ミミ、富岡淳子、山中登枝恵、佐川二郎
スタッフ[編集]
サウンド[編集]
- 主題歌『恋のテディー・ボーイ』
製作[編集]
企画[編集]
校内暴力が頻発し社会問題化した状況に焦点を合わせ、岡田茂東映社長から「1955年のアメリカ映画『暴力教室』を参考に、高校生バイオレンスを作れ」と指示が出て[8][9]、岡田好みの"不良性感度"濃厚なアクション仕立ての青春映画が構想された[10]。千葉真一の主演映画として企画され[10]、主演の教師役には千葉も意気込み[10]、非行少年役には千葉の率いるジャパンアクションクラブ(JAC)のメンバーや東映の若手俳優陣がキャスティングされる予定になっていた[10]。企画書には「現代の青春とは何か?学園とは何か?新進教師と落ちこぼれの非行少年達が爆発するエネルギーで澱む既成社会に挑戦する青春暴力映画(ニューバイオレンス)を作りたい」と記された[10]。しかし急遽、千葉が東映京都撮影所作品の『脱走遊戯』に主演が決まり、スケジュールの調整が付かなくなった[10]。封切りは1976年7月に決まっていて、主役未確定のまま、撮影準備に入った[10]。監督には岡本明久が決まった[10]。
不良性感度の再投入[編集]
1975年夏の『トラック野郎・御意見無用』、1976年の正月映画『トラック野郎・爆走一番星』が連続して大当たりを取ったことから[11][12]、関西の東映映画館主の「寅さんのような、明るく楽しい映画が欲しい」という要望に応え[13]、岡田東映社長は1976年の初めに「『トラック野郎』の記録的ヒットは、従来の東映イコールやくざとポルノというイメージを破った。ここ十数年、東映の作品に見向きもしなかった家族づれや若い女性客が戻って来た。不況時には明るくカラッとした笑いあり涙ありの娯楽映画がヒットする」と説明し[11]、女性・子供・家族連れの映画館への吸収を狙い[13]、"健全喜劇路線"を敷くと発表した[11][13][14][15]。この後、全興連会長の山田敏郎に無理やりラグビー映画を作らされることになったため[16]、「アメリカ映画で流行ったものは、必ず何ヶ月後に日本で流行る」という持論の岡田が[17]、『ロンゲスト・ヤード』や『バッド・ニュース・ベアーズ』など、アメリカでのスポーツ映画ブームを見越し[18] "健全喜劇・スポーツ映画路線"に変更した[13][18][19]。同時期に岡田が敷いた路線が[20][21]、近年評価を高める"東映メカニック路線" "東映カーアクション路線" "東映暴走路線"である[20][21][22][23][24]。「猫の目のように企画が変わる東映のゲリラ商法」と笑われたが[11]、この方針のもと連打した『愉快な極道』『テキヤの石松』『キンキンのルンペン大将』『ラグビー野郎』『狂った野獣』『お祭り野郎 魚河岸の兄弟分』が全部コケ[13][15][18][25][26][27]、東映上半期は「トラック野郎シリーズ」と『まんがまつり』以外は当たらない状況に陥り[26][28][29]、岡田が腹を立て[26][30]、"不良性感度"の高い東映本来のアクション路線プラスアルファへ軌道修正が打ち出された[13][26][25]。活劇復帰第一弾として本作『暴力教室』と『暴走の季節』に、自主制作買い上げの『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』を加えた三本立て興行を手始めに、東映は下半期に勝負を賭けることになった[13][31]。"スピード"と"暴走"はこの時代のキーワードだった[22]。
キャスティング[編集]
千葉の降板で主役不在のまま撮影準備がスタート[10]。監督の岡本明久はホットな社会現象として日常化していた校内暴力をグサッと輪斬りにしたいと考え、既成の俳優にないギラギラしたナマな迫力を出せる配役を望んだ。主演の教師役には岡本は松田優作を推したが、松田は前年起こした暴力事件が尾を引き、映画やTVから追放の身にあり、会社もプロデューサーも反対した[10]。スキャンダルが興行にマイナスに影響する恐れもあった[10]。しかし岡本は松田にこだわり、松田で教師役のイメージが出来上がった後は、この役は断じて松田優作しかないという確信が心を占めた[10]。シナリオの第一稿に若干の改訂を加えた原稿を松田に手渡し、1976年春、東映東京撮影所(以下、東映東京)で松田に会った[10]。松田はその場で、イエスともノーとも返事せず、沈黙。岡本はボクサーのパンチを食らったような挑戦的なコミュニケーションの火花を感じた[10]。坂上順プロデューサーは「荒れ狂う高校生たちを導く教師役は松田優作しかいないと思い、六月劇場の交渉に行き、松田から出演を引き受けてもらった」「マスコミから『映画界の甘い体質が俳優のわがままを助長するんだ』と非難されたが、彼の才能をそのまま放っとくわけにはいかないと思い、強引にキャスティングを進めたのを思い出します。撮影中の優作さんの存在感は圧倒的でした」などと述べている[8]。
クールスのサブリーダー・岩城滉一がクールスの他のメンバーより一年も前に東映にスカウトされ[32][33][34][35]、既に東映で主演スターとして売り出されており[3][35][36][37]、クールスのリーダー・舘ひろしも岡田社長に「君の主演作を作ろう」と声を掛けられ[38]、当時東映に籍を置いていたため[38]、舘のオオカミのような風貌が買われ、松田との共演が決まった[4]。また現役暴走族のクールスメンバーは不良生徒役にうってつけで[10]、岡本がクールスのメンバーに会い、舘は硬派を気取っていても、どこか育ちの良さを隠しきれない心優しい青年で、他のクールスメンバーも皆気のいいガイで、合わせてクールスメンバーの起用も決まった[10]。岩城滉一は併映作の『暴走の季節』が主演三作目で[3]、本作の出演は最初から考えられていない[10][39]。『暴走の季節』での岩城は暴走族ではなく、監督の石井輝男が暴走族設定に飽きたため[35]、ヨットの操縦士である[36]。
松田優作は『バラエティ』1977年10月号のインタビューで「映画へのめり込んだのは『暴力教室』からです。あの事件以後、かなりストイックになり、わざと意識的に自分をいじめたりしていたところへ、ポンと来た話だったんですね。で、耐えていたもの、エネルギーを、あの映画に投入できたから。『暴力教室』に出て、はじめてオレは映画俳優になれたと思いました。とにかく緊張が撮影期間の一ヶ月保てたということです。当時の東映の撮影所は高倉健さんや鶴田浩二さんが撮ってるときでしたから、こっちは映画館で『健さんッ!』なんて見てるとき、まさか東映の撮影所で、ましてや主役で映画を撮れるなんて思ってもみませんでしたね。日本映画はダメになってると言われてるし、逆にいえば、ぼくらのようなぺエぺエが入っていける、今がチャンスだ、という気はありますよ。日活がひっくり返る寸前に、ニューアクションが出てきたでしょ?そういう新しい波が、さらに現れると思います。ハリウッドがダメになってニューシネマが出てきたときも、そっちの方がぼくらは面白いと思ったし...そういうひっくり返し方、新しい波があると思うんですよ」などと話し[2]、日活ニューアクションの転生は後に自身が、東映セントラルフィルム/セントラル・アーツで実現させた。松田は1981年1月、セントラル・アーツとマネジメント契約を結び、東映の専属俳優になった[40]。また舘ひろしについて、「すばらしいですよ。彼は。存在感というのか...35ミリの映画に出て映画館に来る人がわざわざ入場料を払って見に来る画面、その画面を満たしてゆける力を感じて、ぼくは恐怖を感じましたね。最初はツッパってやってきたんです。だけど、そのうちなついちゃって、あのあとも電話はかかってくるし...すごい色気がありますしね」などと評している[1][2]。松田と同じく、舘ひろしも本作を切っ掛けに本格的に俳優業へ進出した[3]。
脚本[編集]
脚本の神波史男は「そもそもの原発想は、凶器そのもののような高校教師。あの当時の東映暴力路線に単純に乗っかって、苦悩する教師像、ヒューマニズム教育論など糞くらえ、とにかく生徒が暴力的なら暴力で拮抗できる教師、相手が集団ならこっちはたった一人で立ち向かえるだけの暴力性を持つ教師を書いてやろうと思った。つまり、それが教師と生徒の唯一の対話なのだと。そしてこの両者が、最後には利権にまみれた学校当局とその手段である右翼的に清廉潔白な生徒会長一派と血みどろの抗争を展開するといった、今にして思わなくても見え見えの図式を敷いた容易な発想のものだった。(中略)当時の東映東京の夢の工場にしてはすこぶる安っぽく殺風景な食堂の一角に現れた、サングラスをかけっぱなしの長身の青年・松田優作は一見してそうした発想にピッタリのように思えた。勿論、そのとき何を話したかなどカケラも覚えていないけれど、ヤクザとはひと味違ういわば知的な傲岸不遜不穏の印象を残してくれた。しかしあのサングラスかけっ放しは何だったろうか。私がサングラスにこだわったのは、私のそれ以前の不愉快な体験によるものだから仕方ないだろう。東映のメシア的存在の某大カントクの某大ヒットシリーズの一本を、彼がクランクイン直前まで他社の仕事をしているという理由で私と松田寛夫が二、三日で書けと言われ、二晩ばかり完徹で書き上げて持参した処、その某氏は薄暗いスタッフルームで濃いサングラスをかけたまま御苦労のひとつも言わずに受け取り、いい処取りして映画化したのだった。我々は完全に当て馬としてコケ扱いにされたのである。松田優作青年のあのときのサングラスかけっ放しには、少なくとも某氏のいくら映画の天才か知らないが、あの人を見下すような慇懃無礼の印象はなかった。だが、おそらくこの不穏な雰囲気をたたえた青年のおかげで、シナリオライターの悪夢が始まったのだ。つまりぐだぐだどろどろの直し地獄である。おそらくと書いたのは彼が直接、私に直しを要求したのではないからだが、泥沼の直しの根底には監督の岡本明久君と彼との隔絶的な意見の対立があったのだろうと推測している。両者とも映画に対する姿勢が真面目で真剣なだけに始末に負えない。とばっちりは全てライターに降りかかり、そのゴタゴタを捌こうとする会社側の意見まで絡んで精しいことは忘れたが、ずるずると辻褄合わせの余計な繰り返し、最後は何だか分からぬ結果になってしまったのだった。大体、ライターの名前が監督やチーフ助監督も含めて四人も並んでいるというのが、まさにそういう状態の象徴なのである。ただ映画の出来はともかく、いまビデオで見ると、まだTVなどに晒される前の、現実の暴走族のリーダーだった舘ひろしのナマ身の迫力、当時シーラカンスの腐った眼と云われたあの不気味な三白眼に対して、松田優作の眼も、さすがに現実に暴力事件を起こしたもののそれとして、十分拮抗するだけの凶暴さを湛えていた。『暴力教室』の前ににっかつの一般映画の一本として『あばよダチ公』を書いたが、そのときは優作氏には会ってないし、悪夢の思い出もない。にっかつは東映育ちの私には信じられないほど、自由な生きざまを取らせてくれた。それ故だろうか、あの仕事には奇跡的に明るくアナキイなエネルギーが充満している。『暴力教室』以前の優作は、あのボソリと放つアドリブ的な捨てゼリフを混えながら、ずっと伸びやかに演じていた。優作氏との最後は『華の乱』がらみで日本アカデミー賞授賞式のあと、深作さん、吉永小百合さん、石田えりさんらと一緒に、六本木辺りの彼の行きつけらしい店で、朝方まで楽しい酒を御馳走になったのだが、あの時すでに彼は病気のことを知っていたのだと思うと、私のような縁の薄かったものでも胸が痛む。不治と知って『ブラック・レイン』にのぞんだのだろうか。終始一貫、プロとして真剣さを欠いて来た私としては、仕事なんぞ命と引き換えにするほどのもんじゃないと、敢えて言わせて貰いたかった。例え、その仕事が映画であり、彼が映画スターであったとしても」などと述べている[41]。
撮影[編集]
1976年初夏、撮影は快調に進んだ。松田は水を得た魚のようにイキイキと役をこなした。暴力と野獣の匂いを漂わせながら、どこかでナイーヴな心根の優しさを垣間見せた。身のこなしは柔らかく、スピーディ。リズムの取り方がシャープで、クールスとの相性も良かった。殴り合いの相手である舘ひろしに対して、懇切なアドバイスに夢中になっている松田の顔は輝いていたという[10]。
1976年5月17日東映東京でクランクイン[10]。 同年6月18日クランクアップ[10]。
評価[編集]
興行成績[編集]
『暴力教室』と『暴走の季節』『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』を加えた三本立ては大ヒットしたとされる[31]。
作品評[編集]
- 延山政広は「松田優作のカリスマ性を70年代東映の作劇法に凝縮させたような異化効果が作用して、フィルモグラフィの中でも独特の光彩を放っている。映画初出演とは思えない舘ひろしの鋭利な迫力も印象的」と評している[3]。
同時上映[編集]
『暴走の季節』
脚注[編集]
- ^ a b 「映画に生きた男 松田優作 映画・TVフィルモグラフィー自作を語る」、『キネマ旬報』1995年11月下旬号、キネマ旬報社、 28 - 29頁。
- ^ a b c バラエティ 1977, pp. 64-67.
- ^ a b c d e f 日本映画名作完全ガイド 2008, p. 173.
- ^ a b c “〈今週のタレント〉舘ひろし ハーレーに乗った異色刑事 『構えず僕のリズムで』 ハードなキャラクターに魅力”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 15. (1979年10月21日)
- ^ a b 『鮮烈!アナーキー日本映画史 1959-1979』 洋泉社〈映画秘宝EX〉、2012年、172頁。ISBN 4-86248-918-4。
- ^ スピード・アクション 2015, pp. 182.
- ^ 「暴力教室」出演:クールス、松田優作、 安西マリア...
- ^ a b 東映の軌跡 2016, pp. 247-248.
- ^ ぼうふら脚本家 2012, pp. 341.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 映画芸術 1990, pp. 158-159.
- ^ a b c d 「〔ショウタウン 映画・芝居・音楽げいのう街〕」、『週刊朝日』1976年1月23日号、朝日新聞社、 36頁。
- ^ 「興行価値 日本映画東映・松竹激突」、『キネマ旬報』1976年新念特別号、キネマ旬報社、 198–199。
- ^ a b c d e f g 狂おしい夢 2003, pp. 50-51.
- ^ シネアルバム 1977, pp. 22-23.
- ^ a b 「〔ニューズオブニューズ〕 とんだ"テキヤのお粗末"でした 不入りでシリーズ断念『テキヤの石松』」、『週刊読売』1976年5月8日号、読売新聞社、 33頁。
- ^ 日下部五朗 『シネマの極道 映画プロデューサー一代』 新潮社、2012年、107-108頁。ISBN 978-4103332312。
- ^ スピード・アクション 2015, pp. 46.
- ^ a b c 「『地上最強のカラテ』梅雨入り模様を吹き飛ばす」、『キネマ旬報』1976年7月上旬号、キネマ旬報社、 202頁。
- ^ 「東映アクションの新シリーズ 『ラグビー野郎』」、『キネマ旬報』1976年5月下旬号、キネマ旬報社、 46頁。
- ^ a b ぼうふら脚本家 2012, pp. 215.
- ^ a b スピード・アクション 2015, pp. 82-84、94-97、114-119.
- ^ a b 日本映画名作完全ガイド 2008, p. 165、172.
- ^ シネアルバム 1977, pp. 175.
- ^ 『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol. 4』 シンコーミュージック・エンタテイメント、2006年、47頁。ISBN 4-401-75104-3。「狂った野獣」など東映メカニック路線ムック、渡瀬恒彦がドライブ武勇伝を披露
- ^ a b シネアルバム 1977, pp. 22-23、175.
- ^ a b c d 活動屋人生 2012, pp. 82-86.
- ^ 高橋英一・島畑圭作・土橋寿男・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 東映、史上最高の半期決算を発表」、『キネマ旬報』1976年5月下旬号、キネマ旬報社、 182 - 183頁。
- ^ シネアルバム 1977, p. 192.
- ^ 「日本映画紹介」、『キネマ旬報』1976年5月上旬号、キネマ旬報社、 183–184。「ヒット・Hit 東映『まんがまつり』のヒットで春を呼び込む」、『キネマ旬報』1976年8月下旬号、キネマ旬報社、 186頁。
- ^ 「映画界の動き 東映、見世物映画へ大転換」、『キネマ旬報』1976年9月上旬号、キネマ旬報社、 179頁。「今月の問題作批評 中島貞夫監督の『沖縄やくざ戦争』」、『キネマ旬報』1976年10月上旬号、キネマ旬報社、 172-173頁。「邦画指定席 沖縄やくざ戦争」、『近代映画』1976年10月号、近代映画社、 171頁。
- ^ a b 日本映画名作完全ガイド 2008, p. 174、181.
- ^ 「まさに"はまり役"!人生を暴走して御用」、『週刊読売』1977年8月13日号、読売新聞社、 21頁。「私の地図 岩城滉一」、『週刊現代』2013年3月9日号、講談社、 82頁。
- ^ スピード・アクション 2015, pp. 158-161170-174.
- ^ 内藤誠 『監督ばか』 彩流社、2014年、80、122頁。ISBN 978-4-7791-7016-4。
- ^ a b c 「ロックとバイクと岩城滉一! And石井輝男! 70年代東映暴走族ムービー」、『映画秘宝』2010年5月号、洋泉社、 82-83頁。
- ^ a b トラック浪漫 2014, p. 171.
- ^ 「岩城滉一のシリーズ第二弾『爆発! 暴走遊戯』」、『週刊平凡』1975年12月18日号、平凡出版、 106頁。
- ^ a b “舘ひろし 『我が道』(11)”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 26. (2011年6月11日)
- ^ スピード・アクション 2015, pp. 138-161、170.
- ^ 松田優作webサイト: 松田優作プロフィール - office saku「映画に生きた男 松田優作 黒澤満プロデューサー・インタビュー 『生半可じゃなく"耐える"ことが優作の生きるスタイルだった』 インタビュアー・中村勝則」、『キネマ旬報』1995年11月下旬号、キネマ旬報社、 25頁。山口猛 『松田優作 炎 静かに』 社会思想社〈現代教養文庫 1505〉、1994年、43 - 45頁。ISBN 4-390-11505-7。
- ^ ぼうふら脚本家 2012, pp. 176-178、341.
参考文献[編集]
- 佐藤忠男、山根貞男 『シネアルバム(52) 日本映画1977 1976年公開映画全集』 芳賀書店、1977年。
- 「連載(1) BIG STAR ダイナミック・インタビュー 松田優作 『185センチのスーパーマシン』 取材・山根貞男」、『バラエティ』1977年10月号、角川書店。
- 「〈松田優作追悼特集〉 沈黙の美意識 文・岡本明久」、『映画芸術』1990年春 No.359、編集プロダクション映芸。
- 川崎宏 『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? 』 青心社、2003年。ISBN 978-4-87892-266-4。
- 高護(ウルトラ・ヴァイヴ) 『日本映画名作完全ガイド 昭和のアウトロー編ベスト400 1960‐1980』 シンコーミュージック、2008年。ISBN 978-4-401-75122-8。
- 文化通信社編 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』 ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4。
- 「遺文2 追悼文 松田優作のサングラス他」、『この悔しさに生きてゆくべし ぼうふら脚本家 神波史男の光芒 映画芸術 2012年12月増刊号』、編集プロダクション映芸、2012年。
- 杉作J太郎、植地毅 『トラック野郎 浪漫アルバム』 徳間書店、2014年。ISBN 9784-19-863792-7。
- 杉作J太郎、植地毅 『東映スピード・アクション浪漫アルバム』 徳間書店、2015年。ISBN 9784-19-863792-7。
- 『東映の軌跡』 東映株式会社総務部社史編纂、東映株式会社、2016年。