コンテンツにスキップ

昔々亭桃太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昔々亭 桃太郎昔昔亭 桃太郎(せきせきてい ももたろう)は落語家名跡。最も新しく名乗った人物(柳澤尚心)は3代目を称したが[注釈 1]、その先代(山下喜久雄)は「二十四代目」を自称していた。

ただし過去に23人の桃太郎がいたことは資料等では確認できず、『古今東西落語家事典』によれば山下喜久雄の桃太郎は「代数は不明」とされる[1]。同書の「索引小事典」には5人が「昔々亭桃太郎」として記載されている[2]

歴代
  • 昔々亭桃太郎 - 後∶2代目桃川如燕
  • 昔々亭桃太郎 - 後∶橘家花喬
  • 昔々亭桃太郎 - 本記事にて詳述(木村兼次郞)
  • 24代目昔々亭桃太郎 - 本記事にて詳述
  • 3代目昔昔亭桃太郎 - 該当記事を参照

昔々亭桃太郎 (木村兼次郞)

[編集]
昔々亭せきせきてい 桃太郎ももたろう
本名 木村 兼次郎
生年月日 1857年8月9日
没年月日 (1942-05-20) 1942年5月20日(84歳没)
出身地 現在の日本の旗 日本神奈川県横浜市
師匠 2代目三遊亭圓橘
弟子 2代目立花家千橘
名跡 1.三遊亭千橘
2.昔々亭桃太郎
家族 春風亭小柳三(甥)
所属 三遊派(1907年 - 1912年)

昔々亭 桃太郎(せきせきてい ももたろう、1857年8月9日 - 1942年5月20日[要出典][注釈 2])は、明治から大正にかけての落語家。本名:木村 兼次郎。

横浜版木屋から[要出典]天狗連の一員となる[2]。明治30年代(1897年 - 1906年)に2代目三遊亭圓橘門下で三遊亭千橘を名乗る[2][注釈 3]。明治40年代(1907年 - 1912年)には「昔々亭桃太郎」を名乗り、三遊派に属す[2]

大正中期には「睦会」に席を置き、横浜でのみ評価を受けた[2]

その後柳家小きんに桃太郎の名を譲る。墓は横浜市神奈川区東神奈川にある金蔵院。[要出典]

甥に春風亭小柳三(本名:西宮吉之助)がいる[要出典]

自称24代目

[編集]
24代目 昔々亭せきせきてい 桃太郎ももたろう
24代目 昔々亭(せきせきてい) 桃太郎(ももたろう)
1956年ごろ
本名 山下やました 喜久雄きくお
別名 百田 芦生
生年月日 1910年1月2日
没年月日 (1970-11-05) 1970年11月5日(60歳没)
出身地 日本の旗 日本東京市
死没地 日本の旗 日本千葉県市川市
師匠 4代目柳家小さん
初代柳家三語楼
名跡 1.柳家小楼
(1926年 - 1927年)
2.柳家小ぎく
(1927年 - 1928年)
3.柳家小きん
(1928年 - 1932年)
4.昔々亭桃太郎
(1932年 - 1970年)
出囃子 旧桃太郎の唄
活動期間 1926年 - 1970年
活動内容 新作落語
配偶者 あり
家族 三遊亭金勝(父)
柳家金語楼(兄)
初代? 三遊亭金時(兄)
桂小竹(息子)
所属 東京落語協会
(1932年 - ?)
東宝名人会
(不詳)
フリー
(? - 1952年)
日本芸術協会
(1952年 - ?)
フリー
(? - 1970年)
主な作品
新聞記事

(自称)24代目昔々亭 桃太郎(せきせきてい ももたろう、1910年明治43年)1月2日 - 1970年昭和45年)11月5日)は、昭和期の東京の落語家[1]。本名∶山下 喜久雄[1]出囃子は『旧桃太郎』。実兄は柳家金語楼[1]

経歴

[編集]

小学校卒業後、奉公に出たが長続きせず、1926年大正15年頃)、実兄・柳家金語楼が出演していた寄席に出入りするうちに落語に興味を持ち[要出典]1927年(昭和2年)に柳家小楼を名乗る落語家となる[1]。その後代目蝶花楼馬楽の門人となり、柳家小ぎくに改名した[1]翌年[要出典]柳家小きんで二ツ目に昇進した[1]。20歳のときから新作落語をやるようになる[要出典]1932年(昭和7年)3月、昔々亭桃太郎と改名する[1]。このときの身分について『古今東西落語家事典』で解説を担当した保田武宏は、「真打昇進ではないよう」だとし、東京落語協会所属が継続したことから「初代柳家三語楼門下になったようだ」とする[1]。新作落語で売り出す[1]

桃太郎は、新作落語をあえて「モダン笑話」と題し、高座はもちろんレコード吹き込みから戦地慰問と大活躍。当時の首相・東條英機も熱心なファンで、首相官邸に桃太郎一人で呼ばれて落語を演じていた。また喜劇役者としての顔も持ち、兄・金語楼の主演映画には、ほとんど必ず一役貰って出ていた。戦時中は、金語楼主演映画への出演のほか、もっぱら吉本興業の寄席・演芸場や東宝名人会への出演、そして戦地慰問が活躍の場となる。[要出典]

しかし、人気絶頂時の1943年(昭和18年)に[要出典]召集され[1]満州へ。終戦後もシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)に復員。1952年(昭和27年)に兄・金語楼の友人である5代目古今亭今輔の紹介で日本芸術協会に加入する。[要出典]桃太郎作の『音楽風呂』を、不在の間に3代目三遊亭歌笑(1950年没)が演じて人気を博していた[1]東京放送と専属契約を結んだが、人気を取り戻すことはできなかった[1]。所属は東京落語協会東宝→無所属→日本芸術協会→無所属と変遷したが、無所属の期間が長く、落語界で孤立していた[要出典]

1970年11月5日、千葉県市川市国府台病院で急性壊疽性胆嚢炎によりに死去した[3]。満60歳没。晩年は家族とも音信不通となり、千葉県松戸市の自宅で親子ほど離れた愛人と死去直前まで暮らしていたという。墓所は2年後に死去した兄・金語楼と同じ品川本立寺。戒名は「笑覚院昔桃日喜信士」。[要出典]

著書に『かくし芸のすすめ』(1968年)がある。

芸風

[編集]

『お好み床』『音楽風呂』『俳句修行』などの新作を演じた[1]。他にも百田 芦生の名で新作・改作を行っており、主な作品には『ジャズ風呂』『落語学校』『新聞記事』(上方落語『阿弥陀池』の改作)などがある[要出典]

弟子

[編集]

家族

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ただし、「初代」を「犬と猿とキジを連れて鬼ヶ島へ行った」人としている。
  2. 『古今東西落語家事典』は生没年不詳で「明治中期~昭和初? 」とする[2]
  3. 『古今東西落語家事典』は「その前に初代三遊亭萬橘門下で萬福トモ」という注記を添える[2]

出典

[編集]
  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 古今東西落語家事典 1989, p. 219, 江戸・東京篇 十、昭和戦後の落語家たち(昔々亭桃太郎の項、担当は保田武宏).
  2. 1 2 3 4 5 6 7 古今東西落語家事典 1989, p. 415, 索引小事典―江戸・東京.
  3. 訃報欄『朝日新聞』1970年11月6日夕刊 3版 11面。

参考文献

[編集]
  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X 

関連項目

[編集]