昔々亭桃太郎
昔々亭 桃太郎、昔昔亭 桃太郎(せきせきてい ももたろう)は落語家の名跡。最も新しく名乗った人物(柳澤尚心)は3代目を称したが[注釈 1]、その先代(山下喜久雄)は「二十四代目」を自称していた。
ただし過去に23人の桃太郎がいたことは資料等では確認できず、『古今東西落語家事典』によれば山下喜久雄の桃太郎は「代数は不明」とされる[1]。同書の「索引小事典」には5人が「昔々亭桃太郎」として記載されている[2]。
- 歴代
昔々亭桃太郎 (木村兼次郞)
[編集]| 本名 | 木村 兼次郎 |
|---|---|
| 生年月日 | 1857年8月9日 |
| 没年月日 | 1942年5月20日(84歳没) |
| 出身地 | 現在の |
| 師匠 | 2代目三遊亭圓橘 |
| 弟子 | 2代目立花家千橘 |
| 名跡 | 1.三遊亭千橘 2.昔々亭桃太郎 |
| 家族 | 春風亭小柳三(甥) |
| 所属 | 三遊派(1907年 - 1912年) |
昔々亭 桃太郎(せきせきてい ももたろう、1857年8月9日 - 1942年5月20日[要出典][注釈 2])は、明治から大正にかけての落語家。本名:木村 兼次郎。
横浜の版木屋から[要出典]天狗連の一員となる[2]。明治30年代(1897年 - 1906年)に2代目三遊亭圓橘門下で三遊亭千橘を名乗る[2][注釈 3]。明治40年代(1907年 - 1912年)には「昔々亭桃太郎」を名乗り、三遊派に属す[2]。
大正中期には「睦会」に席を置き、横浜でのみ評価を受けた[2]。
自称24代目
[編集]| 24代目 | |
1956年ごろ | |
| 本名 | |
|---|---|
| 別名 | 百田 芦生 |
| 生年月日 | 1910年1月2日 |
| 没年月日 | 1970年11月5日(60歳没) |
| 出身地 | |
| 死没地 | |
| 師匠 | 4代目柳家小さん 初代柳家三語楼 |
| 名跡 | 1.柳家小楼 (1926年 - 1927年) 2.柳家小ぎく (1927年 - 1928年) 3.柳家小きん (1928年 - 1932年) 4.昔々亭桃太郎 (1932年 - 1970年) |
| 出囃子 | 旧桃太郎の唄 |
| 活動期間 | 1926年 - 1970年 |
| 活動内容 | 新作落語 |
| 配偶者 | あり |
| 家族 | 三遊亭金勝(父) 柳家金語楼(兄) 初代? 三遊亭金時(兄) 桂小竹(息子) |
| 所属 | 東京落語協会 (1932年 - ?) 東宝名人会 (不詳) フリー (? - 1952年) 日本芸術協会 (1952年 - ?) フリー (? - 1970年) |
| 主な作品 | |
| 『新聞記事』 | |
(自称)24代目昔々亭 桃太郎(せきせきてい ももたろう、1910年(明治43年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、昭和期の東京の落語家[1]。本名∶山下 喜久雄[1]。出囃子は『旧桃太郎』。実兄は柳家金語楼[1]。
経歴
[編集]小学校卒業後、奉公に出たが長続きせず、1926年(大正15年頃)、実兄・柳家金語楼が出演していた寄席に出入りするうちに落語に興味を持ち[要出典]、1927年(昭和2年)に柳家小楼を名乗る落語家となる[1]。その後代目蝶花楼馬楽の門人となり、柳家小ぎくに改名した[1]。翌年[要出典]、柳家小きんで二ツ目に昇進した[1]。20歳のときから新作落語をやるようになる[要出典]。1932年(昭和7年)3月、昔々亭桃太郎と改名する[1]。このときの身分について『古今東西落語家事典』で解説を担当した保田武宏は、「真打昇進ではないよう」だとし、東京落語協会所属が継続したことから「初代柳家三語楼門下になったようだ」とする[1]。新作落語で売り出す[1]。
桃太郎は、新作落語をあえて「モダン笑話」と題し、高座はもちろんレコード吹き込みから戦地慰問と大活躍。当時の首相・東條英機も熱心なファンで、首相官邸に桃太郎一人で呼ばれて落語を演じていた。また喜劇役者としての顔も持ち、兄・金語楼の主演映画には、ほとんど必ず一役貰って出ていた。戦時中は、金語楼主演映画への出演のほか、もっぱら吉本興業の寄席・演芸場や東宝名人会への出演、そして戦地慰問が活躍の場となる。[要出典]
しかし、人気絶頂時の1943年(昭和18年)に[要出典]召集され[1]、満州へ。終戦後もシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)に復員。1952年(昭和27年)に兄・金語楼の友人である5代目古今亭今輔の紹介で日本芸術協会に加入する。[要出典]桃太郎作の『音楽風呂』を、不在の間に3代目三遊亭歌笑(1950年没)が演じて人気を博していた[1]。東京放送と専属契約を結んだが、人気を取り戻すことはできなかった[1]。所属は東京落語協会→東宝→無所属→日本芸術協会→無所属と変遷したが、無所属の期間が長く、落語界で孤立していた[要出典]。
1970年11月5日、千葉県市川市の国府台病院で急性壊疽性胆嚢炎によりに死去した[3]。満60歳没。晩年は家族とも音信不通となり、千葉県松戸市の自宅で親子ほど離れた愛人と死去直前まで暮らしていたという。墓所は2年後に死去した兄・金語楼と同じ品川本立寺。戒名は「笑覚院昔桃日喜信士」。[要出典]
著書に『かくし芸のすすめ』(1968年)がある。
芸風
[編集]『お好み床』『音楽風呂』『俳句修行』などの新作を演じた[1]。他にも百田 芦生の名で新作・改作を行っており、主な作品には『ジャズ風呂』『落語学校』『新聞記事』(上方落語『阿弥陀池』の改作)などがある[要出典]。
弟子
[編集]家族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典』平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X。
関連項目
[編集]- 土橋亭里う馬#2代目 - かつて「桃太郎」を名乗ったとされるが亭号は不明。
- 桂桃太郎 - 上方落語家。
- 昔々亭桃流
- 桃多楼團語