易京の戦い
| 易京の戦い | |
|---|---|
| 戦争:易京の戦い | |
| 年月日:建安3年 - 建安4年3月(198年 - 199年4月)[1] | |
| 場所:冀州河間国易京城 | |
| 結果:袁紹が大勝し、公孫瓚は自害。 | |
| 交戦勢力 | |
| 袁紹 烏桓 |
公孫瓚 黒山 |
| 指導者・指揮官 | |
| 袁紹 麴義 劉和 鮮于輔 牽招 王摩 蹋頓 難楼 蘇僕延 烏延 |
公孫瓚 † 公孫続 関靖 † 田楷 † 田豫 王門 文則 何鋼 張燕 杜長 |
| 戦力 | |
| 袁紹軍:約9万人 烏桓軍:数万人 |
公孫瓚軍:約15万人 黒山軍 :約10万人 |
| 損害 | |
| 約2万人 | 約8万人
|
易京の戦い(えきけいのたたかい[注釈 1]、繁体字: 易京之戰)は、中国後漢末期の198年から199年にかけて、易京(現在の河北省保定市雄県)において後漢の大将軍袁紹と前将軍公孫瓚との間で行われた戦い。初平3年(192年)に公孫瓚が冀州へと侵攻(界橋の戦い)したことを契機に始まった公孫瓚と袁紹との抗争における最終期の戦争であり、この戦争によって公孫瓚の勢力が滅亡、袁紹が冀州における割拠を確立するに至った[2]。
背景
[編集]初平4年(193年)、公孫瓚は幽州牧劉虞を討って幽州を手中に収めた。しかし、天災に伴う凶作の影響で糧秣の不足が生じ、剰え興平元年(194年)には潞県(幽州漁陽郡)の北で鮮于輔・閻柔に、興平2年(195年)には鮑丘(幽州漁陽郡)で烏桓と結んだ袁紹に敗れた(鮑丘の戦い)[3][4]。
これにより士気も大いに損なっていたため、公孫瓚は野戦を避けて易京に拠って城楼を築き、屯田も行い袁紹の攻撃に備えた[5]。易京は幾重の城壁と高楼を備え、十年分に及ぶ糧秣が蓄えられた堅城であったとされる。公孫瓚は「兵法には城楼百を攻めずとあるが、今や我が城楼は千重である。この糧を食い尽くす間に、天下の形勢は自ずと明らかになるであろう」と語ったという[6]。
一方で吏民を酷使したため、その離叛が進行するようになると、公孫瓚は猜疑心を強め、鉄製の城門を築いたうえに7歳以上の男子の入城を禁ずるなどした[5]。
経過
[編集]建安3年(198年)、袁紹は烏桓の蹋頓の援軍を含んだ大軍を統馭して易京を包囲し、攻勢の火蓋を切った[7][8]。
ただし戦況は膠着したため、袁紹は武力による即時攻略が困難であると判断、公孫瓚に対して和睦(事実上の降伏)を勧告する長文の書簡を送った[注釈 2]。しかし、公孫瓚はこれに返書せず軍備を増強し、側近の関靖に対して「今や天下の四方で群雄が虎の如く争っており、我が城の下に座して、年を経てまで包囲を続けられる者など居ないことは明らかである。ましてや袁本初(袁紹)が、一体私に何ができようか」と、自らの兵力と易京の堅城なることを誇示したという[9]。
その一方で、城内の統治は漸次弛緩していった。例えば、公孫瓚および諸将はそれぞれ高楼を築いてそこに居住したが、公孫瓚自身は群臣を遠ざけ、下女や側室のみを侍らせ、公文書も下方から縄で吊り上げさせて処理していた[6]。また、ある将が袁紹軍に包囲された際には「一人を救えば、他の将が救援を当てにして死力を尽くさなくなる」として救援を拒否した。この方針は前線部隊の動揺と自壊を招き、結果として袁紹軍は比較的容易に易京の城下に進軍することが可能となった[10]。
建安4年(199年)春、袁紹は長期間に亘って易京に攻撃を加えたものの、公孫瓚は依然として要地を堅守したため、容易には攻略できなかった。やがて公孫瓚は黒山の張燕に救援を求めるため、子の公孫続を派遣し、挟撃によって袁紹軍の背後を衝く計画を企てたが、関靖に「今、将軍の将士は、既に土崩瓦解の状態にあります。それでもなお互いに守り合っているのは、ただ住居や老幼を想い、将軍を主として頼みにしているからに過ぎません。将軍が堅く守って日を引き延ばせば、袁紹は必ずや自ずと退くことでしょう。退いた後には、四方の諸勢力も再び糾合することができます。もし将軍が今これを捨てて去られるなら、軍には鎮める中核が無く、易京の危機は忽ち到来いたします。将軍が根拠の地を失って、孤身で草原にあって、いったい何を成し遂げられましょうか」と諫止された[11][注釈 3]。とどのつまり城内から公孫続に密使として北平太守文則を遣わし、内外から呼応する作戦が採られることとなった。しかしながら、文則は道中で袁紹の斥候に捕縛されたためにこの計画は露顕した。袁紹はこれを利用し、伏兵を設けた上で偽の狼煙を上げ、出陣した公孫瓚を奇襲してこれを破った。公孫瓚は即座に易京へと撤兵し、再び籠城した。かくして袁紹は遂に地道を穿ち、その楼閣を破壊して攻囲を急迫せしめた[12]。
同年3月(199年4月)、公孫瓚は最早勝機の無いことを悟り、自身の姉妹や妻子を縊殺したのち自焚(焼身)した。関靖は主君の死を聞くと、袁紹に降伏するのを潔しとせず、敵陣に突撃して殺された。時に袁紹の兵が易京に入城、公孫瓚らの死屍を刎頸し、首級は袁紹の命によって許へと送られた。田楷[注釈 4]は袁紹軍に討たれ、公孫続も屠各(胡族の一)に捕縛され殺された[13][14]。
また、鮮于輔は降将田豫の進言により、曹操に投降して建忠将軍の官位を拝命、遼西以西の幽州六郡(遼西郡・右北平郡・広陽郡・漁陽郡・涿郡・代郡)を管轄することとなった[15]。
戦後
[編集]袁紹は戦勝に功のあった、烏桓の蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延の四人の大人(部族長)に対して詔勅を偽造し印綬を与えて単于に任じた[16]。また、鮮卑を懐柔して護烏桓校尉邢挙を討ち自らが護烏桓校尉となっていた閻柔を重用し、上谷郡を治めさせ北辺の安撫を図った[17][18]。
なお、袁紹はこの戦いによって河北・山西方面を統一し、後顧の憂いを断つことに成功した。かくして兗州(山東・河南)方面を拠点に大勢を扶植していた旧友曹操と雌雄を決することは必至となり、翌年(200年)には白馬・延津の戦いを前哨戦とする官渡の戦いを発した。初めは袁紹が優勢だったが、長年に亘って公孫瓚との抗争を繰り返していたことに伴う軍の疲弊や、曹操軍の楽進に輜重を焼き払われたこと(烏巣の戦い)などが災いし、十数ヶ月の攻防を経て大敗、憂悶の内に病死し、曹操の華北の制覇が決定付けられるに至った[19][20]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 「易京」は「えききょう」と読まれることがあるが、「易」の音「エキ」は漢音である一方、「京」の音「キョウ」は呉音で、漢音で読むなら「ケイ」である。
- ↑ 袁紹が公孫瓚へ送った書簡の内容は割愛するが、要約すると嘗ての自身(袁紹)と公孫瓚の関係を伯夷・叔斉や桓公・文公になぞらえたうえで、界橋での戦闘などは全て公孫瓚の先制・挑発によるものであり、自身はあくまで「已むを得ず応戦した」などとする「道義」・界橋において、公孫瓚の軍と比較して自身の軍は備えも十分でなく兵力にも差があったというにも拘らず、天祐を借りたために公孫瓚の大軍を破ることができたなどとする「天命」の二点から、旧怨を解いて和睦を結ぶよう求めている書簡である。
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」に収録された「張燕傳」の「袁紹與公孫瓚爭冀州,燕遣將杜長等助瓚,與紹戰,為紹所敗,人眾稍散,太祖將定冀州,燕遣使求佐王師,拜平北將軍;率眾詣鄴,封安國亭侯,邑五百戶。」という記述によれば、張燕は杜長に10万の兵を率いさせ袁紹軍と戦ったが敗れたとあり、『資治通鑑』「漢紀五十五」にも「春,三月,黑山帥張燕與公孫續率兵十萬,三道救之。」という記述が見える。以上の二例を参照する限り、公孫瓚は関靖に諫止されたと雖も、黒山への援軍要請を行うよう公孫続に命じていたことが窺える。
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」に収録された「公孫瓚傳」による。『後漢書』「劉虞公孫瓚陶謙列傳」に収録された「公孫瓚傳」においては「田揩」と作る。
出典
[編集]- ↑ 『後漢書』「孝獻帝紀」:(建安)四年春三月,袁紹攻公孫瓚于易京,獲之。
- ↑ 上田早苗 / 日本大百科全書(ニッポニカ)『「袁紹」の意味・わかりやすい解説』コトバンク。2025年12月22日閲覧。
- ↑ 『後漢書』「劉虞公孫瓚陶謙列傳」公孫瓚傳:劉虞從事漁陽鮮于輔等,合率州兵,欲共報瓚。輔以燕國閻柔素有恩信,推為烏桓司馬。柔招誘胡漢數萬人,與瓚所置漁陽太守鄒丹戰於潞北,斬丹等四千餘級。烏桓峭王感虞恩德,率種人及鮮卑七千餘騎,共輔南迎虞子和,與袁紹將曲義合兵十萬,共攻瓚。興平二年,破瓚於鮑丘,[一]斬首二萬餘級。瓚遂保易京,開置屯田,稍得自支。相持歲餘,曲義軍糧盡,士卒饑困,余觿數千人退走。瓚徼破之,盡得其車重。注[一]鮑丘,水名也,又名路水,在今幽州漁陽縣。
- ↑ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『「公孫瓚」の意味・わかりやすい解説』コトバンク。2025年12月22日閲覧。
- 1 2 五井直弘 / 日本大百科全書(ニッポニカ)『「公孫瓚」の意味・わかりやすい解説』小学館、コトバンク。2025年12月22日閲覧。
- 1 2 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」公孫瓚傳:為圍塹十重,於塹裡築京,皆高五六丈,為樓其上;中塹為京,特高十丈,自居焉,積穀三百萬斛。〈《英雄記》曰:瓚諸將家家各作高樓,樓以千計。瓚作鐵門,居樓上,屏去左右,婢妾侍側,汲上文書。〉瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定,今日視之,非我所決,不如休兵,力田畜谷。兵法,百樓不攻。今吾樓櫓千重,食盡此谷,足知天下之事矣。」
- ↑ 『後漢書』「劉虞公孫瓚陶謙列傳」公孫瓚傳:建安三年,袁紹復大攻瓚。
- ↑ 『資治通鑑』「漢紀五十五」:袁紹攻公孫瓚,蹋頓以烏桓助之。
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」公孫瓚傳:欲以此弊紹。紹遣將攻之,連年不能拔。〈《漢晉春秋》曰:袁紹與瓚書曰:孤與足下,既有前盟舊要,申以討亂之誓,愛過夷、叔,分著丹青,謂為旅力同軌,足踵齊、晉,故解印釋紱,以北帶南,分割膏腴,以奉執事,此非孤赤情之明驗邪?豈寤足下棄烈士之高義,尋禍亡之險踪,輟而改慮,以好易怨,盜遣士馬,犯暴豫州。始聞甲卒在南,親臨戰陳,懼於飛矢迸流,狂刃橫集,以重足下之禍,徒增孤(子)之咎釁也,故為薦書懇惻,冀可改悔。而足下超然自逸,矜其威詐,謂天罔可吞,豪雄可滅,果令貴弟殞於鋒刃之端。斯言猶在於耳,而足下曾不尋討禍源,克心罪己,苟欲逞其無疆之怒,不顧逆順之津,匿怨害民,聘於餘躬。遂躍馬控弦,處我疆土,毒遍生民,辜延白骨。孤辭不獲已,以登界橋之役。是時足下兵氣霆震,駿馬電發;僕師徒肇合,機械不嚴,強弱殊科,眾寡異論,假天之助,小戰大克,遂陵躡奔背,因壘館谷,此非天威棐諶,福豐有禮之符表乎?足下志猶未厭,乃復糾合餘燼,率我蛑賊,以焚爇勃海。孤又不獲寧,用及龍河之師。羸兵前誘,大軍未濟,而足下膽破眾散,不鼓而敗,兵眾擾亂,君臣並奔。此又足下之為,非孤之咎也。自此以後,禍隙彌深,孤之師旅,不勝其忿,遂至積尸為京,頭顱滿野,愍彼無辜,未嘗不慨然失涕也。後比得足下書,辭意婉約,有改往脩來之言。僕既欣於舊好克復,且愍兆民之不寧,每輒引師南駕,以順簡書。弗盈一時,而北邊羽檄之文,未嘗不至。孤是用痛心疾首,靡所錯情。夫處三軍之帥,當列將之任,宜令怒如嚴霜,喜如時雨,臧否好惡,坦然可觀。而足下二三其德,強弱易謀,急則曲躬,緩則放逸,行無定端,言無質要,為壯士者固若此乎!既乃殘殺老弱,幽土怨,眾叛親離,孑然無黨。又烏丸、濊貊,皆足下同州,僕與之殊俗,各奮迅激怒,爭為鋒銳;又東西鮮卑,舉踵來附。此非孤德所能招,乃足下驅而致之也。夫當荒危之世,處干戈之險,內違同盟之誓,外失戎狄之心,兵興州壤,禍發蕭牆,將以定霸,不亦難乎!前以西山陸梁,出兵平討,會麴義餘殘,畏誅逃命,故遂住大軍,分兵撲盪,此兵孤之前行,乃界橋搴旗拔壘,先登制敵者也。始聞足下鐫金紆紫,命以元帥,謂當因茲奮發,以報孟明之恥,是故戰夫引領,竦望旌旆,怪遂含光匿影,寂爾無聞,卒臻屠滅,相為惜之。夫有平天下之怒,希長世之功,權禦師徒,帶養戎馬,叛者無討,服者不收,威懷並喪,何以立名?今舊京克復,天罔雲補,罪人斯亡,忠幹翼化,華夏儼然,望於穆之作,將戢干戈,放散牛馬,足下獨何守區區之士,保內之廣,甘惡名以速朽,亡令德之久長?壯而籌之,非良策也。宜釋憾除嫌,敦我舊好。若斯言之玷,皇天是聞。瓚不答,而增脩戎備。謂關靖曰:「當今四方虎爭,無有能坐吾城下相守經年者明矣。袁本初其若我何!」
- ↑ 『資治通鑑』「漢紀五十四」:紹於是大興兵以攻瓚。先是瓚別將有為敵所圍者,瓚不救,曰:「救一人,使後將恃救,不肯力戰。」及紹來攻,瓚南界別營,自度守則不能自固,又知必不見救,或降或潰。紹軍徑至其門,瓚遣子續請救於黑山諸帥,而欲自將突騎出傍西山,擁黑山之眾侵掠冀州,橫斷紹後。
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」公孫瓚傳:瓚遣子求救於黑山賊,复欲自將突騎直出,傍西南山,擁黑山之眾,陸梁冀州,橫斷紹後。長史關靖說瓚曰:「今將軍將士,皆已土崩瓦解,其所以能相守持者,顧戀其居處老小,以將軍為主耳。將軍堅守曠日,袁紹要當自退;自退之後,四方之眾必復可合也。若將軍今舍之而去,軍無鎮重,易京之危,可立待也。將軍失本,孤在草野,何所成邪!」瓚遂止不出。
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」公孫瓚傳:救至,欲內外擊紹。遣人與子書,刻期兵至,舉火為應。〈《典略》曰:瓚遣行人文則齎書告子續曰:「袁氏之攻,似若神鬼,鼓角鳴於地中,梯衝舞吾樓上。日窮月蹴,無所聊賴。汝當碎首於張燕,速致輕騎,到者當起烽火於北,吾當從內出。不然,吾亡之後,天下雖廣,汝欲求安足之地,其可得乎!」《献帝春秋》曰:瓚夢薊城崩,知必敗,乃遣間使與續書。紹候者得之,使陳琳更其書曰:「蓋聞在昔衰周之世,僵戶流血,以為不然,豈意今日身當其衝!」其餘語與《典略》所載同。〉紹侯者得其書,如期舉火。瓚以為救兵至,遂出欲戰。紹設伏擊,大破之,復還守。紹為地道,突壞其樓,稍至中京。〈《英雄記》曰:袁紹分部攻者掘地為道,穿穴其樓下,稍稍施木柱之,度足達半,便燒所施之柱,樓輒傾倒。〉
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」公孫瓚傳:瓚自知必敗,盡殺其妻子,乃自殺。〈《漢晉春秋》曰:關靖曰:「吾聞君子陷人於危,必同其難,豈可獨生乎!」乃策馬赴紹軍而死。紹悉送其首於許。
- ↑ 『資治通鑑』「漢紀五十五」:瓚自計必無全,乃悉縊其姊妹、妻子,然後引火自焚。紹趣兵登台,斬之。田楷戰死。關靖歎曰:「前若不止將軍自行,未必不濟。吾聞君子陷人危,必同其難,豈可以獨生乎!」策馬赴紹軍而死。續為屠各所殺。
- ↑ 『三國志』魏書「二公孫陶四張傳」公孫瓚傳:鮮于輔將其眾奉王命。以輔為建忠將軍,督幽州六郡。太祖與袁紹相拒於官渡,閻柔遣使詣太祖受事,遷護烏丸校尉。而輔身詣太祖,拜左度遼將軍,封亭侯,遣還鎮撫本州。
- ↑ 『三國志』魏書「烏丸鮮卑東夷傳」:漢末,遼西烏丸大人丘力居,衆五千餘落,上谷烏丸大人難樓,衆九千餘落,各稱王,而遼東屬國烏丸大人蘇僕延,衆千餘落,自稱峭王,右北平烏丸大人烏延,衆八百餘落,自稱汗魯王,皆有計策勇健。中山太守張純叛入丘力居衆中,自號彌天安定王,爲三郡烏丸元帥,寇略青、徐、幽、冀四州,殺略吏民。靈帝末,以劉虞爲州牧,募胡斬純首,北州乃定。後丘力居死,子樓班年小,從子蹋頓有武略,代立,總攝三王部,衆皆從其教令。袁紹與公孫瓚連戰不決,蹋頓遣使詣紹求和親,助紹擊瓚,破之。紹矯制賜蹋頓、〈難〉峭王、汗魯王印綬,皆以爲單于。
- ↑ 『三國志』魏書「烏丸鮮卑東夷傳」:廣陽閻柔,少沒烏丸、鮮卑中,爲其種所歸信。柔乃因鮮卑衆,殺烏丸校尉邢舉代之,紹因寵慰以安北邊。
- ↑ 『資治通鑑』「漢紀五十五」:瓚滅,紹承製皆賜蹋頓、難樓、蘇僕延、烏延等單于印綬;又以閻柔得烏桓心,因加寵慰以安北邊。其後難樓、蘇僕延奉樓班為單于,以蹋頓為王,然蹋頓猶秉計策。
- ↑ 都築晶子 / 改訂新版 世界大百科事典『「官渡の戦」の意味・わかりやすい解説』平凡社、コトバンク。2025年12月22日閲覧。
- ↑ 精選版 日本国語大辞典『「官渡の戦」の意味・読み・例文・類語』コトバンク。2025年12月22日閲覧。