明知城の戦い
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明知城の戦い | |
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戦争:信長包囲網 | |
年月日:1574年(天正2年) - 1575年(天正3年) | |
場所:日本美濃国恵那郡(現:恵那市) | |
結果:武田軍の勝利(1574年)、織田軍の勝利(1575年) | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
織田信長 織田信忠 河尻秀隆 |
武田勝頼 山県昌景 |
戦力 | |
3万0000余? | 6千000余? |
明知城の戦い(あけちじょうのたたかい)は、天正2年(1574年)に美濃国恵那郡で起こった武田氏と織田氏の戦い。
概要[編集]
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は上洛半ばで病死した。武田家の家督は4男の武田勝頼が継いだ。
天正2年 武田勝頼の攻撃[編集]
天正2年(1574年)1月27日、信玄の遺志にて勝頼は山県昌景ら甲斐・信濃など5箇国の兵を率いて織田信長を圧迫するため美濃、尾張、三河、遠江攻略の拠点となる明知城を、一万五千の大軍をもって襲撃した。明知城主遠山一行・叔父の遠山友治らは兵五百でこれを防ぎ、織田信長に急を報じた。信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた子信忠と明智光秀とともに、三万の兵にて明知城より北東にある鶴岡山に布陣し、包囲された明知遠山氏と連絡して武田勢を挟撃しようとした。2月5日、信長は嫡男・織田信忠とともに岐阜城を出陣したが、2月6日に明知城で飯羽間右衛門(高遠友信)による謀反が起こり、援軍として在城する坂井越中守を滅ぼし、また搦手水の口曲輪が破られ城郭・城下は火の海となり、城は武田方の手に渡った。戦死者五百を数えた。そのため信長は、東濃の神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した[1]。遠山十八城のうち明知城は17番目に落城した。武田軍は4月中旬までに織田方の苗木城、明照城、大井城、串原城、今見砦、神篦城、妻木城の城砦を陥れ、明知城を包囲した。遠山友治は死守しつつ織田信長に救援を頼んだ。信長は長男の織田信忠とともに自ら出陣し援けようとした。信長は美濃の諸将(池田、蜂屋、河尻秀隆、森、塚本)など3万人を率いたとされるが、山県昌景が兵6000を率いて鶴岡山の山麓を廻り、信長軍の進路を遮ると、信長は兵を退いて布陣した[2]。これにより明知城の遠山友治は織田軍の救援を受けられず落城し戦死した。しかし城主の遠山一行は叔父の遠山利景とともに城を脱出し、利景の妻の実家である三河国足助城の鈴木氏を頼った。この後武田軍は機に乗じて川中島衆を派遣して飯羽間城を攻め落とした。
天正3年 明知城の奪還[編集]
天正3年(1575年)5月、織田信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男信忠を総大将とする武田征伐軍が武田方に占拠された諸城を次々に奪回し、遠山利景と一行は武田軍が占拠していた小里城を攻め落とし明知城も再び織田方の城となる。足助の鈴木氏を頼っていた遠山利景と一行は、明知城に帰還した。