明治百年記念式典

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明治百年記念式典(めいじひゃくねんきねんしきてん)は日本の元号慶応から明治に改元された「明治元年9月8日1868年10月23日)」から100周年となるのを記念して1968年(昭和43年)10月23日に挙行された日本政府主催の式典。時の日本政府により行われていた一連の「明治百年祭」において、その最重要イベントとして位置づけられていた一大祝典であった[1]

概要[編集]

明治改元100年を記念して日本武道館にて1968年(昭和43年)10月23日水曜日午前10時半から日本政府主催「明治百年記念式典」を挙行。昭和天皇香淳皇后をはじめ常陸宮正仁親王正仁親王妃華子閣僚国会議員在日外交団、各界代表、青少年代表ら約1万人が出席した[2]

田中総理府総務長官の開会の言葉に始まり全員が国歌を合唱して佐藤栄作内閣総理大臣が式辞を述べる。天皇の言葉に続き小平久雄衆議院副議長重宗雄三参議院議長横田正俊最高裁判所長官、フレーチャ・トーレス在日外交団長の順序で祝辞を述べ近衛秀麿指揮のNHK交響楽団ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を演奏、続いて青少年代表が「若人の誓い」を述べた[2]

次いで、明治100年頌歌「のぞみあらたに」の合唱が行なわれる中、日本体育大学の男女学生約130人による体育演技「若人の躍動」が行なわれ、NHK交響楽団がヘンデルの「王宮の花火の音楽」を演奏。佐藤総理大臣が音頭を取り万歳を三唱。午前11時20分に終了[2]

目的[編集]

明治百年記念準備会議・広報部会(木村毅林房雄安岡正篤など)によって「明治百年を祝う」と題する5項目からなる一文が作成される[1]。政府の明治百年行を記念する行事・業は、すべてこれを基調としたものであった。その大筋は、

  1. 明治という時期を画して封建制度から脱却し、山積する内政外交上の諸問題に直面しながら国家百年の大計に立って諸制度の改革を断行し、近代国家への方向を確立した偉業を高く評価し、
  2. その改革と近代化の原動力となった先人の国民的自覚と聡明と驚くべき勇気と努力、そしてその所産である事績に感謝し、
  3. また、過去の過ちを謙虚に反省し、
  4. 百年間における他に類例を見ない発展と現在の繁栄を評価しながらも、他面、高度の物質文明が自然や人間性を荒廃させている現実を憂慮して、その是正の必要性を痛感し、
  5. 次の世代をになう青少年の物心両面のいっそうの努力と精進に期待して、

「この百年の経験と教訓を現代に生かし、国際的視野に立って新世紀への歩みを確固としたものにする決意を明らかにする」のが「明治百年を記念する基本態度」である、というものであった[3]

開催経緯[編集]

そもそもの「明治百年祭」の開催の淵源には、1950~1960年代にかけてのフランス文学者・桑原武夫による「明治の再評価」の主張や中国文学者・竹内好による「明治維新百年祭」の提案があった[1]

また日本の近代化100年の歩みを正しく評価しようとする機運が、当時の国民の間に急速に盛り上がりつつあり、これに呼応するかのように、民間の明治100年にちなんだ催しものや出版物、放送演劇などが催された[3]

日本政府は、このような国民的な盛上がりを背景として、明治百年記念事業等を全国民的なものとして実施するため、1966年(昭和41年)4月15日の閣議決定に基づいて、前述の準備会議を設けてこの問題を検討するとともに、「世論調査」や「国政モニターの意見聴取」などを実施して、国民各層の意見を準備会議に反映するよう努めた[3]

日本政府では、明治百年記念準備会議(内閣総理大臣以下の全閣僚など政府関係者20名、民間の各界代表25名、学識経験者42名、計87名で構成[4])の答申に基づき、各種の記念行事や事業を計画し、「青年の船」の運航、「記念公園」の建設・整備事業、「明治美術展」の開催など、多くの記念行事・事業がすでに実施されていた[3]

準備会議では、式典、行事、事業および広報の4部会を設け、1966年(昭和41年)5月から約6か月にわたってそれぞれの課題について審議をすすめ、同年11月に「明治百年を記念する基本態度」「記念祝典実施要綱」「記念行事・事業の項目」等についての基本構想を政府に答申した。政府の明治百年を記念する基本態度はもとより、これに関連する記念行事等は、すべてこの準備会議の構想を基調とした[3]

実施日[編集]

記念式典の起算点は、改元の日のほか、「明治天皇践祚の日(1867年2月13日(慶応3年1月9日))」、「大政奉還勅許の日(1867年11月10日(慶応3年10月15日))」、「王政復古の大号令の日(1868年1月3日(慶応3年12月9日))」、「五箇条の御誓文渙発の日(1868年4月6日(慶応4年3月14日))」なども検討されたが「明治改元の日を『政治的意味が少ない』として起算点とする」と準備会議にて決定[4]

その他[編集]

当日は休日とはしなかった。これは、当日学校で同趣旨の行事が行いやすいようにする配慮からであった。場所を日本武道館としたのは、一般市民を多数参列させるため式場を国立競技場または神宮外苑なども検討したが、雨天の場合の混雑等を考慮して「屋内会場」としたためであった[3]

人事院が指令を発し、当日午後は、公務に支障のない限り、国家公務員がこの記念の趣旨に沿うため勤務しないことを承認しうる措置をとった[5]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 宮本司「明治百年祭の道程――1960年代における日本戦後思想史考察の一ケース・スタディとして」、『明治大学人文科学研究所紀要』第83冊、2018年、 pp.223‐267。
  2. ^ a b c 1968年(昭和43年)11月6日『官報』資料版No.549総理府「明治百年記念式典挙行」
  3. ^ a b c d e f 1968年(昭和43年)9月18日『官報』第12530号付録資料版No.542総理府「明治百年 記念祝典・行事等のあらまし」
  4. ^ a b 1968年(昭和43年)10月23日『官報』第12558号付録資料版No.547総理府「明治百年記念 明治百年を祝う 準備会議の設置から式典まで」
  5. ^ 1969年(昭和44年)7月24日『官報』号外第108号「人事院年次報告」