下関条約

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日清講和条約から転送)
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日清両国媾和条約
Peace Conference at Shimonoseki by Nagatochi Hideta (Meiji Memorial Picture Gallery).jpg
永地秀太筆(1929)

日本側:右から伊藤博文陸奥宗光伊東巳代治
清側:右から李鴻章李経方伍廷芳


通称・略称 日清講和条約、下関条約、馬関条約
署名 1895年明治28年、光緒21年)4月17日調印(調印地:日本の旗 日本山口県赤間関市
効力発生 1895年(明治28年、光緒21年)5月8日批准(批准地:清の旗 山東省芝罘
主な内容 日清戦争の講和条約
条文リンク 東京大学東洋文化研究所
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下関条約(しものせきじょうやく)は、日清戦争1894年-1895年)で大日本帝国清国に勝利したことにより、山口県下関市料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て、1895年明治28年、光緒21年)4月17日に調印された条約である。正式には日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)。

会議が開かれた山口県赤間関市(現、下関市)の通称だった「馬関」[注釈 1]。をとって、一般には馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた[注釈 2]。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称である[注釈 3]。もう一方の当事国である中国では、今日でも「馬関条約」(簡体字: 马关条约; 繁体字: 馬關條約; ピン音: Mǎguān tiáoyuē)と呼んでいる。

日清講和会議[編集]

戦況と媾和条件案[編集]

日清戦争要図

1894年(明治27年)9月の黄海海戦平壌陥落によって、朝鮮半島を確保するという日本側の第1期作戦が勝利のうちに終了し、第2期作戦は直隷平野(華北平原)での決戦をめざし、10月以降、第一軍は鴨緑江渡河、第二軍は遼東半島攻略へと乗り出した[1]

10月8日イギリスが戦火が清国全土に拡大するのを畏れて、駐日公使パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチを通じて日本政府に講和を打診した[2][3][4]。「日本国政府ハ各国ニテ朝鮮ノ独立ヲ担保スルコト及軍費トシテ日本国ヘ償金ヲ払フコトヲ以テ媾和(こうわ)ノ条件トシテ承諾スヘキヤ」というものであった[3]。これを受けて第2次伊藤内閣外務大臣陸奥宗光は、内閣総理大臣伊藤博文と協議して、講和条件として甲・乙・丙の3案を起草したが、その詳細をイギリス政府には伝えなかった[3]。3案のうち、甲・乙の両案が李氏朝鮮の独立とともに賠償金領土割譲について言及しており、賠償金額は両案とも提示しておらず、領土に関しては甲案が旅順口および大連湾、乙案が台湾であった[3]

戦勝国側が敗戦国に対して過酷な条約を提示し、それをもって休戦とする例は、この時期の列強間にも数多くみられ、日本がこの戦争において参照したのは普仏戦争1870年-71年)における事例であった[3]。すなわち、1871年フランクフルト講和条約において、戦勝国プロイセンは敗戦国フランスに対し、アルザス(エルザス)・ロレーヌ(ロートリンゲン)の2州を割譲させ、50億フランの賠償金を獲得したのであった[3]

ロシア帝国アメリカ合衆国もまた、日清戦争の終結に関心をもっており、11月上旬からは米・英・露の各国が調停のための斡旋を開始した[1][2][4]。しかし、清国との決戦を戦争目的の一つとみなしていた日本政府は、この段階での講和成立を無用と判断していた[1]

12月4日、伊藤博文首相は、「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」という意見書を大本営に提出した[1]。それによれば、このまま直隷決戦に向け、シナ本土に侵出するのは必ずしも得策ではなく、清朝瓦解の畏れもあって、そうなればかえって諸列強の戦争介入は強まり、日本は一転して不利な立場に立たされる可能性がある、というものであった[1][注釈 4]。それゆえ、第一軍・第二軍のいずれか一方は渤海を渡って威海衛の制圧へ、もう一方は台湾占領作戦へと転進すべきであり、特に台湾は実際に占領に及ばなければ、世論に応え、台湾の譲与を和平条約の要件として盛り込むことはできないとし、当初立てた第2期作戦の変更を提案したのである[1]

1895年(明治28年)1月に入ると日本では講和条約案が議された[5]。年末に、アメリカ合衆国を介して、清国から講和使節派遣の申し入れがあったからである[6]。日本軍の連戦連勝のさなかでの講和であることから、「対外硬」と呼ばれた人士はもとより、政府部内にあっても取れるだけのものはできるだけ取りたいという雰囲気が濃厚で、外務大臣の陸奥宗光をおおいに悩ませた[5]

1895年1月27日、日清講和に関する御前会議が開かれた[6]。 席上、陸奥外相から、

  1. 朝鮮独立の承認
  2. 領地の割譲と償金支払い
  3. 欧米並みの特権の提供

を骨子とする方針が示され、参加者各位により諒承された[6]。当時、帝国海軍は台湾全島および澎湖諸島の割譲を望んでいた[3][5][6][7]。それに対し、帝国陸軍は最も血を流した戦地である遼東半島の割譲を望んだ[3][5][6][7][注釈 5]。財政を担当する大蔵省は戦後経営のことを考慮して巨額の補償金を欲し、松方正義にいたっては、のちに10億テール)という驚異的な額を口にした[5][6][7]。なお、テールとは清国税関の庫平銀の単位であり、当時の10億両は日本円に換算すると約15億円であった[7]

駐露公使の西徳次郎もまた償金優先という考えであり、駐英公使の青木周蔵は英貨1億ポンドを主張した[3][6]。また、当時の外務省の顧問であったアメリカ人ヘンリー・デニソンの甲案は3億円、乙案は5億円であった[3]立憲改進党の一部や在野の対外硬派は、和議の交渉をしている間も戦闘を続行することを要望し、そのうえで相手が停戦に応じたら、台湾割譲、償金3億円以上のほか、山東省江蘇省福建省広東省の日本領有を清国認めさせるべきという非現実な意見を主張した[5][7]。対外硬とは一線を画したはずの自由党ですら、東3省すなわち吉林省黒竜江省盛京省および台湾割譲を主張した[5][7]。伊藤博文・陸奥宗光・山県有朋ら政府首脳は、いずれも事と次第によっては第三国の干渉を受けることを予想しており、それを念頭に置きつつ交渉に臨まなければならないと考えていた[5]

第一次使節の来日と広島談判[編集]

土屋光逸筆『請和使談判之圖』
1895年2月に広島県庁で行われた請和交渉を描いたもの。

1月28日、清国使節の張蔭桓邵友濂が講和のために長崎に来航し、まもなく広島に移動した[6]。日本政府は、31日、伊藤と陸奥を全権弁理大臣に任命した[6]

陸奥全権は翌2月1日の会談において、両者の持参した書簡は全権委任状ではなく、地位についても不十分なので、講和を結ぶことができないと述べた[6]。日本政府が交渉を拒絶した2月2日、日本軍は北洋艦隊の根拠地威海衛を占領した[6]。伊藤博文は顔を見知っていた清国使節団の随員伍廷芳に対し、李鴻章恭親王を全権大使とするよう求め、第一回の使節団は2月12日、長崎より帰国した。同日、北洋艦隊は降伏、提督丁汝昌は自決した[6]

台湾占領作戦の方は、予定した第一軍が遼河平原における戦闘で苦戦し、威海衛の攻略よりもはるかに遅れた[1]

下関での交渉と李鴻章狙撃事件[編集]

講和会議の会場となった春帆楼
春帆楼の内装

3月に入り、日本軍は遼東湾岸に達し、営口田庄台中国語版を占領した[6]。ここで従来案にみえた直隷決戦の可能性も出てきたが、決戦派だった山県有朋もこの頃には決戦回避に転じていた[6]

その後、清国はアメリカ合衆国を介して李鴻章を頭等全権とする使節団の派遣を申し入れてきた[1][6][8]。李鴻章は清朝の内閣大学士首揆すなわち他国の首相に匹敵する政界の重鎮であった[6]。日本は遼東半島と威海衛を完全に占領したのち、清国側の講和申し入れを受け容れた[1][2][9]

3月19日、天津を発した全権大臣李鴻章と甥で養子の李経方、随員として伍廷芳が福岡県門司港(現、北九州市)に到着した[1][7]。李鴻章が外国を訪問したのは、これが初めてであった。翌3月20日、対岸の下関の割烹旅館藤野楼(春帆楼)において日本側全権の伊藤博文および陸奥宗光との間で全権委任状を持っていることを互いに確認し、講和交渉が始まった(第1回談判)[1][6][8]

伊藤博文と李鴻章は旧知の間柄であり、李は日本の近代化の進展を賞賛し、その指導者としての伊藤を誉め讃え、今次の日清戦で清国が長い間の迷夢を日本によって破られたことに感謝すると述べたうえで、今後は西洋列強の圧力に対し、日清両国は兄弟のごとく連携しなければならないと語るなど始終和やかなようすで交渉が始まった[7]。陸奥外相は、李の印象として「古稀以上の老齢に似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」ものがあると記し、「さすがに清国当世の一人物に恥じず」と評価している[7][8]

清側はそこでまず休戦を求めたが、日本側は、3月21日の第2回談判で、大沽天津山海関の保障占領をその条件とした[6][7]。さらに、その間の鉄道は日本帝国がこれを管理し、休戦中の軍事費はすべて清国側の負担とすべきこととした[7][8]。これについては、さすがの李鴻章も顔面蒼白となって「苛酷、苛酷」と叫び、前日の休戦申し入れを撤回した[6][7]

日本側としては、当面は休戦の必要がないことから、講和条件の方を先議しようとし、そのため清国にとっては苛酷であることを承知のうえでこのような条件を出したのであった[7]。李鴻章は、日本側がもし両国の和平を真に望むなら、清国の名誉についても少し配慮してもらいたいと懇願し、日本側はこれに対し、講和条件先議の件について清に対し、3日間の猶予をあたえた[7][8]

その間、日本側は3月23日に歩兵1個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させ、台湾攻略の前進基地としている[1][2][9]。台湾割譲を講和条件に入れるには、正式交渉開始までの占領が必要であり、台湾島に属する澎湖諸島の占領は、その条件を満たすためのものであった[1]

猶予期間を終えた3月24日の第3回談判に際して、清国側は休戦よりも講和条約の締結を望むと応答し、そのうえで、条約の条項に他国の干渉を招くような項目を控えるよう日本側に望んだ。ところが、この会談の帰途、李鴻章こそ東洋に正義をなさんとする日本の邪魔をする元凶であると考えた自由党の壮士、小山豊太郎(六之助)が李鴻章をピストルで狙撃する事件が起こった[2][5][6][7][8]。李鴻章は一命を取り留めたものの、顔面に重傷を負った[5][7]。これに対し、当時の日本国民は痛嘆・狼狽し、全国から個人・団体を問わず、電報郵便で見舞いの意を表し、各種の贈り物を届けた[5]。また、それまで李鴻章に悪口雑言を吐いていた人士も、今日は美辞をならべて功績を賞賛するなどの豹変を示した[7][8]。清の交渉団の宿には「群衆市をなす」と形容されるほどの人が集まり、国民全体が李に同情した[5][8]。もとより、李鴻章自身もしたたかで、自身に起こった不幸を清国にとっての幸福に転換させようと目論んだ[7]

各国の同情も清国に集まり、必ずや第三国の干渉を招く事態になると判断した陸奥外相は、即座に手を打ち、清にとって有利なはずの停戦を日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤に訴えた[5][7][8]。伊藤はこれを受けて、反対する軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階で清に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることに成功した[5][7][8]

3月28日、日本側は休戦条約の草案を清側に提示したが、「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」などの文面を清側が訂正を求めたのに対して日本側は「日清両帝国政府は盛京省直隷省、山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面に変更して両者が合意に達し、3月30日、休戦定約が締結され、日本は無条件で3週間の休戦に応じた[1][2][6][7][8]

講和条約の締結[編集]

調印の様子。向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権

4月1日、講和条約の草案を日本側が提示した[3]4月5日、清側は草案について以下のような修正を望んだ。

  1. 朝鮮の独立については、清側だけでなく両国が認めるという形に訂正すること
  2. 割譲地は全面拒否
  3. 賠償金の大幅な減額
  4. 開港場所の見直し他

であった。

4月8日から、負傷した李鴻章に加えて李経方が欽差全権大臣として交渉の席についた[10]9日の清側による訂正案は、1.前回と同様、2.割譲地は奉天省内の安東県寛甸県鳳凰県岫巖州、澎湖列島に止め、台湾を除くこと、3.賠償金は無利子の1億両他などが出された[10]

4月10日、陸奥は、1.朝鮮については訂正を許さず、2.台湾は絶対の条件だということ、3.賠償金は2億両、4.新規開港の数は減らすなどの訂正案を提示し、これについて受諾かどうかのみを問うた[10]。清側は、2.台湾は武力で占領されたものではないので受け入れ不可、奉天省内も営口を除くこと、3.更なる賠償金の減額を求めた。11日にも清側は重ねて、2.台湾の除外と3.賠償金の更なる減額を求めたが、日本側はこれを退けた[10]

4月15日、割譲地の微細な変更や支払いの方法等の調整がなされ、4月17日午前に講和条約が結ばれた[1][2][3][10]。同日の午後には李鴻章ら清国使節団は帰国していった[1][10]

そののち明治天皇の裁可を経て、伊東巳代治内閣書記官長が全権大臣として清国の外交都市である芝罘(現、山東省煙台市)に向かった[1][3][10]5月8日、予定通り批准書の交換がなされ、講和条約が発効した[1][3][10]

条約の概要[編集]

1895年4月17日に調印された日清講和条約

調印者[編集]

主な条約内容[編集]

主な条約内容は以下のとおり[1][2][6][4][9][3][7]

  • 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
  • 清国は遼東半島台湾澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
  • 清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)
  • 割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
  • 清国は沙市重慶蘇州杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
  • 日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
  • 清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
  • 清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
  • 条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
  • 条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)

賠償金のテール(両)は、1テール=倉平銀37.3gで2億両(746万kg相当)の銀払いだった。2億テールは3億円に相当した[2]。なお、日本側は条約実施の担保として威海衛を保障占領することが認められた[6]

これらを決めて、1896年、清は日本との間に新しい通商条約、日清通商航海条約(日本側全権は林董、清側全権は張蔭桓)を改めて結んだ[5]

影響[編集]

1895年11月8日、三国干渉の結果、遼東還付条約に調印

伊藤博文全権が起草・調印したこの条約によって清国は弱体化し、その後日本も日露戦争終結までは強い干渉策を打ち出すことができなかったため、李氏朝鮮冊封体制から離脱することができた。一方、日本の遼東半島領有は特にロシア帝国の警戒するところとなり、ロシア・ドイツフランスによる三国干渉が起こった。開港開市の規定などについて、欧米列強は最恵国待遇を得ていたので日本と同じ恩恵を受けることができた。

賠償金2億両は、その後の遼東半島還付金の3000万両(111.9万kg)を上乗せして合計857.9万kg(現在価値(2011.4 日中銀取引相場価格)で銀1kgが12万円程度なので、1兆294億円前後。当時価格で日本の国家予算8000万円の4倍強の3億6000万円前後、現在の43兆円前後となり、当時の国家予算の4倍であることから日本の現在の国家予算を年100兆円と考えると400兆円前後にあたる)以上の銀を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせた。日本はこれを軍事費にあてたほか、長年の悲願だった金本位制復帰の資金とした。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担となった。

アジアの超大国で「眠れる獅子」と見なされてきた清国が日本に敗北したことにより、西欧諸国はいっそう中国分割に乗り出すようになり、清国はいっそう弱体化した。

日清講和記念館[編集]

春帆楼に併設されている日清講和記念館

1937年昭和12年)、日清講和記念館が下関市春帆楼の敷地内に設置された。館内には講和会議の様子が再現されている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「赤間関」は「赤馬関」とも表記され、江戸時代の漢学者がこれを漢風に縮めて「馬関」としたもの。
  2. ^ 明治時代に作られた鉄道唱歌の第二集(山陽九州編)でも、「世界にその名いと高き 馬關條約結びたる 春帆樓の跡とひて 昔しのぶもおもしろや」との歌詞で紹介されている。
  3. ^ 条約調印後に「馬関」(赤間関市)が「下関」(下関市)になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」の名称は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは、第二次世界大戦後になってからのことである。
  4. ^ 伊藤首相と同様の観測は民間にもあり、たとえば1895年1月12日の『東京経済雑誌』では、北京紫禁城が陥落しても、清の皇帝は降伏せず、退去して抗戦するケースを想定している。原田(2007)p.85。また、同誌では、当時の日本国民が開戦時に高唱した「義戦」もまた、東洋にあっては聞こえがよいものであっても実は虚飾にすぎず、ヨーロッパ列強はただ利のみを図っているのであり、それゆえ介入の心配は常にせねばならないのであり、日本国内における、義のために国富と人命を消耗することを良しとする考えは愚かであることも指摘している。隅谷(1971)p.36
  5. ^ 海軍部内には台湾全島を望んだ上で、遼東半島は朝鮮に任せてもよいという意見があった。陸軍では遼東半島のほか山東半島の領有を望む声もあった。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 猪木正道『軍国日本の興亡』中央公論社中公新書〉、1995年3月。ISBN 4-12-101232-1
  • 加藤祐三「8 日本開国とアジア太平洋」『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論社、1998年10月。ISBN 4-12-403425-3
  • 小島晋治丸山松幸『中国近現代史』岩波書店岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8
  • 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2007年2月。ISBN 4582487149
  • 隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論社〈中公バックス〉、1971年9月。
  • 陳舜臣『中国の歴史14 中華の躍進』平凡社、1983年4月。ISBN 4582487149
  • 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年2月。ISBN 4582487149
  • 御厨貴『日本の近代3 明治国家の完成1890-1905』中央公論新社、2001年5月。ISBN 4-12-490103-8
  • 陸奥宗光中塚明校注)『新版 蹇々録』岩波書店〈岩波文庫〉、1983年7月。ISBN 4-00-331141-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]