コンテンツにスキップ

日本文藝家協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本文芸家協会から転送)
公益社団法人日本文藝家協会
団体種類 公益社団法人
設立 2011年4月1日(発足:1946年)
所在地 東京都千代田区紀尾井町3番23号
文藝春秋ビル
法人番号 1010005016618 ウィキデータを編集
起源 社団法人日本文藝家協会
主要人物 林真理子(代表理事理事長)
基本財産 50,000,000円
会員数 2,269名(2020年6月12日現在)
ウェブサイト http://www.bungeika.or.jp/
テンプレートを表示

公益社団法人日本文藝家協会(にほんぶんげいかきょうかい、: Japan Writers’ Association)は、文芸を職業とする者の職能団体として設立された公益社団法人である。社団法人時代は文化庁が所管していた。文藝春秋ビル内に事務局[1]を持つ。2022年5月現在の代表は林真理子理事長。

文芸家である会員と、著作権継承者である準会員によって構成され、会員数は約2200人。著作権管理事業については会員以外の管理も請け負っている。

なお同じく作家等の集まりである日本ペンクラブは、表現の自由を守るための組織であって職能団体ではない[2]

沿革

[編集]

1926年(大正15年)に劇作家協会と小説家協会が合併して発足。初代会長は小説家協会で幹事を務めていた菊池寛[3]1942年(昭和17年)に一度解散して日本文学報国会に吸収されたが、1946年(昭和21年)に再発足した。1948年(昭和23年)から理事長制をとり、会長・理事長の二本立てになったが、1984年(昭和59年)以降、会長職は廃止された。1990年(平成2年)、永山則夫連続射殺事件の犯人である永山則夫の入会拒否問題をめぐる対立をきっかけに、柄谷行人中上健次筒井康隆井口時男らが抗議のため脱会した。

文芸家の職能を擁護確立する目的をもって設立されており、政治的主張は基本的には行わず、もっぱら文芸家の地位向上、言論の自由の擁護、文芸家の収入・生活の安定などを活動の主軸としている。このため、文芸美術国民健康保険組合の加盟団体であったり、静岡県の冨士霊園内に共同墓「文學者之墓」を所有するなど、文学者の生活向上を主眼とした、あまり衆目に触れない活動も多い。

上記の立場から、著作権問題については保護期間の延長を、再販売価格維持制度についてはその維持を訴えることが多い[4]

2003年(平成15年)、協会内に著作権管理部を設立し、解散した日本文芸著作権保護同盟の著作権管理業務を引き継いだ。また啓蒙活動のために特定非営利活動法人日本文藝著作権センターを設立した。

2011年(平成23年)に、公益法人改革により、公益社団法人となった。

歴代会長・理事長

[編集]

会長

[編集]

理事長

[編集]

著作権問題のまとめ役

[編集]

日本文藝家協会は、日本美術著作権連合日本写真著作権協会日本脚本家連盟日本シナリオ作家協会が参加[5][6]する「著作者団体連合」(著団連)に理事長を送り出し、日本複写権センターでも中心的な役割を果たしている。

かつては、著作権の保護期間を当時の死後50年から死後70年に延長することを主要な目的として設立された「著作権問題を考える創作者団体協議会」(創団協)にも三田誠広副理事長を議長として送り、まとめ役としての役割を果たしていた。


文芸美術国民健康保険組合の結成

[編集]

日本文藝家協会を中心に、1953年に文芸美術国民健康保険組合が設立された。文芸美術映画写真などの同種の業種に従事する者を組合員とする。略称=「文美国保」。芸術ジャンルを超えた社会保障制度整備の取り組みのなかでは、1973年日本芸能実演家団体協議会による「芸能人年金共済制度」発足よりも20年も早い。創設の中心になった当時の日本文藝家協会理事長の丹羽文雄に関する行政マスコミの記述でも、特筆すべき先進的な取り組みとして取り上げられている[7][8]

出版物

[編集]

文藝家協会では毎年以下の出版物の編纂を行っている。

永山則夫入会保留問題

[編集]

1990年、協会に入会申請した永山則夫の入会を日本文藝家協会が事実上拒否した問題について、辺見庸は以下のように述べている[9]

永山は1990年、編集者らの勧めで日本文芸家協会に入会申請したのだが、同協会の入会委員会が、決定を〝保留〟したという事実である。偏見、無理解、誤解、差別、守旧性、特権者意識ゆえの、実際上の拒否であった。いく人かのまっとうな表現者たちが、これに抗議して退会し、永山は結局、申請を取り下げる意思を明らかにした。永山を文芸家協会に入れさせたい、とする人々は、そうすることで国家が彼を殺すのをなんとか防げることができれば、という、これは文芸家として当然すぎるほど当然な思いをも込めていたのである。 — 辺見庸、『眼の探索』(2001) p15 角川書店

脚注

[編集]
  1. ^ 以前は書記局と称していた。
  2. ^ 活動について
  3. ^ 「劇作家協会と小説家協会が合同」『東京朝日新聞』1925年12月30日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.631 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ ただし2001年(平成13年)の声明では、流通上の問題を見直してもなお再販制度に問題がある場合は再販制度自体の見直しも否定されるべきではないともしており、その点が「再販絶対護持」を掲げる日本ペンクラブと大きく異なっている。
  5. ^ 役員名簿及び、平成20年度事業報告書参照、いずれも日本複写権センターサイト内
  6. ^ 『日本雑誌協会・日本書籍出版協会50年史 Web版』(日本雑誌協会・日本書籍出版協会編・2007年11月)「第4章 知的財産権・出版者の権利」「B 出版者の権利と複写等の権利処理」 (p181の注31)PDF 日本書籍出版協会サイト内
  7. ^ 広報よっかいち 2007/2月下旬 特集 丹羽文雄記念室
  8. ^ 「中日新聞」2005年4月20日「丹羽文雄さん死去 作家 100歳 仏教文学『親鸞』『蓮如』生む」
  9. ^ 辺見庸『眼の探索』株式会社角川書店、2001年3月25日、15頁。ISBN 4043417063 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]