新垂井駅
新垂井駅 | |
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![]() ホーム跡(2002年12月)
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しんたるい Shin-Tarui |
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大垣 ► (8.1km)
(5.7km) ► 関ケ原
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所在地 | 岐阜県不破郡垂井町大石 |
所属事業者 | 日本国有鉄道(国鉄) |
所属路線 | 東海道本線(下り線)* |
キロ程 | 418.1km(東京起点) |
電報略号 | ルイ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 単式 1面1線 |
開業年月日 | 1944年(昭和19年)10月11日[1] |
廃止年月日 | 1986年(昭和61年)11月1日[1] |
備考 | * 下り列車のみ停車[1]。 |
新垂井駅(しんたるいえき)は、かつて岐阜県不破郡垂井町大石にあった、日本国有鉄道東海道本線の駅(廃駅)である。
かつて東海道本線大垣駅 - 関ケ原駅間の別線にあった駅である。この線路は下り列車専用であり、停車する列車も下り列車のみであった[1]。
東海道下り本線(新垂井駅経由)を通る特急しらさぎ
概要[編集]
垂井駅を通る垂井線と区別するため迂回線(新垂井駅経由)を通る方を新垂井線と呼ぶことがある。
東海道本線には大垣駅 - 関ケ原駅間に最大25パーミル (25/1000) の急勾配区間があるが、蒸気機関車時代にはそれを克服するため下り列車は大垣駅に一旦停車して補機を連結する必要があり、牽引定数も限られた。太平洋戦争中の輸送力増強のため、下り列車専用の勾配緩和別線(最大10パーミル)を建設することとなり、その別線上に設けられたのが新垂井駅である。そのため上り列車は設定されず、下り列車しか停車しなかった。
当駅から上り方面(大垣駅方面)に行くには、いったん関ケ原駅まで行き同駅で上り列車に乗り換える必要があり、逆に関ケ原駅以西(柏原駅方面)から当駅に行くにはいったん大垣駅まで上り列車で行って下り列車に乗り換える必要があった。そのためこれらの経路で乗車する場合は、運賃計算の特例が適用されていた(大回り乗車しても、新垂井 - 大垣、関ケ原 - 新垂井間は最短距離で運賃を計算)。
当駅の開業直後は、従来の垂井駅経由の下り線を撤去し、すべての下り普通列車が当駅経由になったものの利用者は少なく、逆に利用客が多い垂井駅は大垣方面からの列車がなくなったことでかえって不便となったことから、利用客救済のため垂井駅との間に連絡用の国鉄バス(府中線)を走らせた[2]。だがそれでも不便さは解消されず、戦後すぐ大垣駅 - 垂井駅 - 関ケ原駅間に再び上下共用の単線(通称:垂井線)を上り本線に並行して敷設し、下り列車に限って新垂井経由と垂井経由双方の普通列車を運行した。しかし、次第に大半の下り普通列車が利用者の多い垂井駅を経由するようになり、当駅廃止直前のダイヤでは大垣発関ケ原方面行きの定期普通列車28本(平日1日)のうち、当駅に停車するのは6本のみという状況であった[1]。乗客の流れとして、岐阜・名古屋方面に向かう乗客が多く、下り列車しか停車しない当駅を利用する乗客が1日平均8人と少なかったというのが、廃止の理由の一つである[1]。廃止が決定した際、地元住民からは反対運動すら起きなかったという。
現在この区間を経由する定期普通列車は下り列車もすべて垂井駅経由で運転されており、旧新垂井駅経由のルートを通る列車はない。普通列車に関しては車両の性能が向上したため、わざわざ遠回りのこのルートを走らせる必要はないが、垂井駅経由(垂井線)は線路規格が低く運行速度が 85 km/h に制限されていることから、下り列車は貨物列車のほかに特急列車もこのルートをとっている。
駅廃止後も木造駅舎は残されていたが、1998年ごろ解体された。敷地はそのままになっていたが、2014年になって整地が行われ、入り込めないよう厳重な柵が設置された。敷地は現在もJR東海の管理である旨の表示がある。現在もホーム跡が残り、かつての着発線の一部を利用し、保線機械の留置・待避に使用される。
駅構造[編集]
通過線(下り本線)と待避線(副本線)の2線があり、待避線に単式ホームが1面あった。
駅周辺[編集]
歴史[編集]
- 1944年(昭和19年)10月11日 - 開業。垂井-新垂井間省営自動車(府中線)運行開始[3]
- 1972年(昭和47年)4月1日 - 荷物の取扱いを廃止。
- 1986年(昭和61年)11月1日 - 廃止[1]。
隣の駅[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 廃駅
- ミステリー列車が消えた - 当駅及び垂井駅が登場する西村京太郎の推理小説。