成田山新勝寺

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成田山新勝寺
Naritasan-Shinshoji-Temple-2008.jpg
成田山新勝寺本堂前広場
所在地 千葉県成田市成田1番地の1[1]
位置 北緯35度47分9.79秒
東経140度19分5.79秒
山号 成田山
宗派 真言宗智山派
寺格 大本山
本尊 不動明王(大聖不動明王)
創建年 940年(天慶3年)
開基 寛朝僧正
正式名 成田山 金剛王院 神護新勝寺
別称 成田不動・成田山
札所等 関東三十六不動霊場三十六番札所
文化財 光明堂、釈迦堂、三重塔、仁王門、額堂(国の重要文化財
鐘楼、一切経蔵他(成田市指定文化財)
地図
成田山新勝寺の位置(千葉県内)
成田山新勝寺
成田山新勝寺の位置(日本内)
成田山新勝寺
法人番号 3040005006341
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成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)は、日本千葉県成田市にある真言宗智山派寺院であり、同派の大本山のひとつである。山号成田山寺号新勝寺というが、山号を省略せずに呼ぶのが通常で、寺号のみで呼ぶことは少なく、むしろ山号のみで呼ぶことが珍しくない。本尊不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山平安時代中期にあたる天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋葉牡丹

参詣者数において関東地方屈指の寺である。初詣参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、神社仏閣としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、仏閣に限れば全国第1位である。現在ではおおむねこの順位を維持しているが、以前は神社仏閣として川崎大師に次ぐ全国第3位、仏閣に限れば全国第2位であった。今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られる。

歴史[編集]

成田山新勝寺の縁起は、平安時代中期、東国で起こった平将門の乱朝廷を悩ませていた最中の天慶2年(939年)、将門調伏祈願密勅朱雀天皇より賜った寛朝僧正総国へ下向したことに始まる。寛朝は、の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて総国へ下り、明くる天慶3年(940年)、難波津から海路で上総国に入って尾垂浜から上陸すると、陸路で下総国公津ヶ原へ入り、この地にて朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。ややあって、寒の戻りの風に乗った一本の流れ矢が将門を射て乱を見事に“鎮めた”のは歴史の知るところである。天皇は、不動明王の法力と勲業いさおしに歓喜した。また、摩訶不思議なことに寛朝が帰京しようとしても不動明王像が現地を動こうとしないとの報せを受けて感動し、彼の地にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、寛朝に開山せしめ、神護新勝寺の寺号を下賜したという。

永禄年間(永禄9年〈1566年頃〉と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地といわれている。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。

江戸時代には、江戸征夷大将軍城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、「秘宝特別出張公開」)が行われた。元禄16年(1703年)、深川永代寺富岡八幡宮別当寺で、廃仏毀釈により廃寺となったが、塔頭寺院が1896年明治29年〉名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。

明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年昭和20年)の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し、武運長久を祈願、お札を身につけている。 第18世住職・荒木照定1928年(昭和3年)に新更会を設立、「成田町報」などを通じて、地域の民衆に対して、日本古来の伝統的思想の教化に積極的に努めた。1938年(昭和13年)には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納している。また、真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した。

本尊として安置されている不動明王及二童子像は、1964年(昭和39年)5月26日に国の重要文化財に指定された[2]鎌倉時代後期(13世紀14世紀)の製作とされる[3]

2007年(平成19年)11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m, 桁行14m, 梁行8m)が完成。

年表[編集]

  • 出典1 - (外部リンク)成田山の歴史”. 大本山 成田山(公式ウェブサイト). 成田山新勝寺. 2018年4月15日閲覧。
  • 出典2 - (外部リンク)特集 市川團十郎と成田山のお不動さま”. 大本山 成田山(公式ウェブサイト). 成田山新勝寺. 2018年4月15日閲覧。
  • 出典3 - (外部リンク)成田山と団十郎”. FEEL成田(公式ウェブサイト). 成田市観光協会. 2018年4月15日閲覧。

平安時代[編集]

鎌倉時代[編集]

室町時代[編集]

  • 応永15年(1408年室町時代中期) - 当地域にて「成田(成田郷)」という地名の初出[4]
  • 永禄9年前後(1566年前後。室町時代後期、戦国時代後期) - 現在所在地に近い不動塚界隈(現在の成田市並木町界隈)に当寺が遷座され、成田山新勝寺の名が成立する/成田村一七軒党代表の名主が、本尊(不動明王像)を背負って遷したといい、これより、当地にて伽藍が建立されてゆく。
  • 戦国時代 - 長きに亘る戦世にあって、当寺も荒廃し、寂れる。

安土桃山時代[編集]

江戸時代[編集]

  • 明暦元年(1655年) - 成田村の新勝寺(当寺)にて、本堂(現・薬師堂)の建立[4]
  • 延宝2年(1674年) - 徳川光圀が、江戸藩邸への帰路、成田村の新勝寺に参詣する[4]
  • 貞享4年(1687年) - 歌舞伎役者初代市川團十郎が、成田山新勝寺の薬師堂(本堂)に通って、一心に求子祈願を行う/当世を代表する千両役者となった團十郎ではあったが、子宝には恵まれず、市川宗家本貫の近傍にあって以前から篤く信仰していた新勝寺に頼った。
  • 元禄元年(1688年) - 初代市川團十郎の祈願が成就し、長男・九蔵(長じての2代目團十郎)を授かる。團十郎は新勝寺の霊験を大いに喜ぶ。
  • 元禄8年(1695年) - 初代市川團十郎が『成田山不動明王』を初演し、自ら不動明王を演じる/これは、歌舞伎演目として初めて不動明王を主題としたもので、求子祈願を叶えてくれた「お不動様」とその寺への感謝と信仰に裏打ちされた作品であった。この上演を機に市川家は「成田屋」を屋号として使い始める。以来、不動明王役は歴代團十郎の十八番となる。
  • 元禄11年(1698年)頃 - 初代市川團十郎と10歳になった九蔵が中村座にて親子共演で『兵根元曽我つわもの こんげんそが』を初演/不動明王を主題としたこの芝居も大当たりし、團十郎親子は新勝寺に大神鏡を奉納する。以来、この演目はたびたび上演されることとなる。初代團十郎が寄せるようになった篤い信仰と実体験に材を採って発想された演目は、成田山新勝寺の名を大いに高める結果となり、新勝寺は、團十郎を通じて知った霊験と観光を目当てに詣でる大勢の信徒と顧客を獲得し、このような「成田詣で」の賑わいに応じて、寺は伽藍などを、周辺地域は門前町を充実させてゆくという、隆盛と観光地化の時代を迎えることとなる。
  • 元禄14年(1701年) - 古い本堂(現・薬師堂)に替わる新たな本堂(現・光明堂)の建立[4]
  • 元禄16年(1703年) - 新勝寺が、江戸永代寺八幡宮にて初めての出開帳を行う[4]
  • 宝永2年(1705年) - 佐倉藩主・稲葉正通が、成田村囲護台の新畑50石を、新勝寺に寄進する[4]
  • 宝永3年(1706年) - 江戸弥勒寺末より離れる。
  • 宝永4年(1707年) - 大覚寺末に転ずる。
  • 正徳2年(1712年) - 三重塔の建立。
  • 享保7年(1722年) - 一切経堂の建立。
  • 時期不詳 - 5代目市川團十郎(1741年-1806年)が、歌舞伎演目『』の口上に「中央大日大聖不動、成田は先祖の産神にて…」という台詞を初めて取り入れたという。
  • 文政12年(1829年) - 二宮尊徳が、新勝寺に参詣する[4]
  • 天保2年
  • 3月(1832年4月頃) - 「身代わり札」由緒の事故の発生/仁王門棟上式の直前、大工の辰五郎が高所の足場から落ちたが、新勝寺の守り札が身代わりになって真っ二つに割れ、本人は怪我一つなかったという。
  • 4月か(1832年5月頃) - 仁王門(現存)の建立。
  • 天保13年(1842年) - 奢侈禁止令に触れた7代目市川團十郎が、新勝寺の地続きの延命院に寓居する[4]
  • 嘉永5年(1852年) - 成田村にて大火あり、120軒の焼失[4]
  • 安政5年(1858年) - 古い本堂(現・光明堂)に替わる新たな本堂(現・釈迦堂)の建立[4]
  • 文久元年(1861年) - 額堂の建立。

明治時代[編集]

大正時代[編集]

昭和時代[編集]

  • 1928年昭和3年)某月某日 - 欧米偏重の風潮を嘆く荒木照定が、新更会を結成。
  • 1938年(昭和13年)某月某日 - 成田山開基一千年祭の開催。当寺は軍部に陸海軍機を献納し、陸軍機「新勝号」の命名式を執り行う。
  • 1943年(昭和18年)某月 - 当寺が、奥の院境内より伐採した1000本の木材を、造船用材として日本海軍に献納する。
  • 1944年(昭和19年)某月某日 - 日本海軍水路部が、当寺の新更会館(現・霊光館)へ移駐する。
  • 1946年(昭和21年)某月某日 - 当寺が大本山へ昇格。
  • 1960年(昭和35年)5月某日 - 新勝寺の縁起地である尾垂浜(千葉県山武郡横芝光町尾垂浜)にて、寛朝大僧正の聖蹟顕彰を旨とした「成田山不動尊の上陸記念碑」の造立。
  • 1964年(昭和39年)5月26日 - 本尊の木造不動明王及二童子像が、「木造不動明王及二童子像(本堂安置)」名義で、国指定重要文化財となる[2]
  • 1968年(昭和43年)某日某日 - 古い本堂(現・釈迦堂)に替わる新たな本堂「大本堂」の建立[4]
  • 1975年(昭和50年)某月某日 - 境内にて、光輪閣の建立。
  • 1976年(昭和51年)2月3日 - 毎年の節分の日にはNHK大河ドラマの出演者が新勝寺恒例の「特別追儺豆まき式」に参加しているが、この年に限っては、ドラマが平将門を主人公とする『風と雲と虹と』であったことから、出演者は参加を見合わせた。
  • 1984年(昭和59年)某月某日 - 平和大塔の建立。
  • 1988年(昭和63年)某月 - 成田山開基一千五十年祭の開催[4]

平成時代[編集]

  • 1998年平成10年)4月某日 - 新勝寺の縁起地である尾垂浜(千葉県山武郡横芝光町尾垂浜)にて、成田山浪切り不動尊像の造立。
  • 2007年(平成19年)11月28日 - 総門の建立/開基1070年記念事業の一環として。
  • 2008年(平成20年)4月 - 成田山開基1070年を迎える/正確には開基1068年にあたるが、1938年(昭和13年)に開基1000年祭を祝っていることから2008年は開基1070年としている。

未来[編集]

  • 2434年 - 平和大塔の落慶時(1984年)に塔の地下に埋められた「平和へのメッセージ」入りタイムカプセルの開封予定。

伽藍[編集]

三重塔(重要文化財)

境内は広く、新旧のさまざまな建造物が並んで、庶民の信仰の場の雰囲気を残している。江戸中期〜末期の建築である仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂の5棟が国の重要文化財に指定されている。

成田駅及び京成成田駅の「参道口」から新勝寺への参道が伸びる。参道を10分ほど歩き、急な石段を上った先の台地上に伽藍が広がる。石段の途中に仁王門、石段を上った先の正面に大本堂、その手前右手に三重塔、鐘楼、一切経蔵などが建つ。この他、大本堂の左手に釈迦堂、大本堂背後の一段高くなった地には額堂、光明堂、開山堂、平和の大塔などが建つ。境内の東側は広大な成田山公園になっている。

総門

開基1070年記念事業として2006年(平成18年)に竣工した。境内入口に建つ。総欅造り。高さ15m、桁行14.2m、梁行6.3m(設計:財団法人建築研究協会 施工:大林組金剛組、日本木彫連盟江戸木彫刻)。2階部には不動明王や千手観音、大日如来など8体の木製仏像が奉安されている。

光輪閣

境内入口、仁王門左方に建つ鉄筋コンクリート造建築で1975年(昭和50年)の竣工(設計:石本建築事務所 施工:共同企業体)。護摩祈祷の受付、精進料理の接待など、信徒向けに使われる建物である。

仁王門

国の重要文化財。参道から大本堂へ至る急な階段の途中に建つ。入母屋造の八脚門で、1830年(天保元年)の建立。

大本堂

仁王門をくぐり、石段を上りきった正面に建つ、当寺の中心となる堂。本尊不動明王像を安置する。入母屋造り二重屋根の鉄筋コンクリート造で、規模は間口95.4m、奥行59.9m、棟高32.6m。1968年建立(設計:吉田五十八研究室 施工:大林組)。

三重塔

国の重要文化財。大本堂の手前右手に建つ、1712年(正徳2年)建立の塔。高さ25mの中規模の塔だが、近くにある大本堂に比較して小さく見える。軒裏には垂木(軒を支える棒状の部材)を用いず、雲文を刻んだ板で軒を支える板軒とする。初層は各面の中央を扉とし、その両脇の柱間には十六羅漢の彫刻を施す。この他、柱、長押、貫などの部材に地紋彫りを施すなど、近世建築らしく装飾性豊かな塔である。

釈迦堂

国の重要文化財。大本堂左手の広場に建つ入母屋造の仏堂で、1858年(安政5年)建立の旧本堂。後述の光明堂(これも旧本堂)と似た形式になるが、規模はこちらの方が一回り大きく、屋根正面に千鳥破風を付ける点も異なっている。堂の周囲には二十四孝五百羅漢の浮彫が施されている。

額堂

国の重要文化財。大本堂左裏の階段を上った先の平地に位置する。1861年(文久元年)に建てられた入母屋造、全面吹き放し(建具や壁を造らない)の堂で、絵馬を掲げるための建物である。東北地方太平洋沖地震以後、掲げてある絵馬(普通の絵馬ではなく額装され絵画のように大きい)が強い余震により落下する恐れが生じたため、立ち入りが一時禁じられ、2015年から2016年にかけて安全確保のための修復が行われた。

光明堂

国の重要文化財。額堂のさらに先に建つ入母屋造の仏堂で、1701年(元禄14年)建立。釈迦堂が本堂になる前の旧本堂である。愛染明王・不動明王・大日如来が祀られている。愛染明王が祀られた右側は自由に立ち入り可能。成田祇園祭の期間中は霊剣「天国宝剣」(あまくにのほうけん)を用いる「天国宝剣頂戴」(お祓い)が受けられる[5]

一切経堂

三重塔の前。1722年(享保7年)に建てられた。方三間、宝形造。一切経が収められた輪蔵

平和大塔

「平和の大塔」とも称する。境内最奥に建つ、鉄筋コンクリート造、高さ58.1mの多宝塔形の仏塔で、1984年の建立(設計監理:財団法人建築研究協会 施工:大林組)。外観は二重塔だが内部は5階建てである。塔の基壇部分にある1階は霊光殿と称し、大塔入口と写経道場のほか、絵馬などの文化財を展示している。2階は明王殿と称し、不動明王を中心とする五大明王の巨像を安置し、昭和曼荼羅、真言宗祖師伝などの絵画で荘厳されている他、大塔各所を警備するコンソールが置かれている。3階・4階はそれぞれ経蔵殿、法蔵殿と称し、信徒が奉納した不動明王の小像を多数安置している。5階は金剛殿と称し五智如来像を安置する。全館立ち入り自由(1階以外は土足厳禁)で、2階・5階では自分の守護仏を拝むことができる。地下には各国の元首から寄せられた「平和へのメッセージ」を封入したタイムカプセルが、落慶した1984年(昭和59年)、記念に埋められている。このタイムカプセルは2434年に再発掘・開封予定。

奥之院

成田山新勝寺の本尊である「不動明王」の本地仏「大日如来」が安置されている。通常は閉鎖されており、大日如来の祭礼である成田祇園祭の期間中(その他の例外も有り)のみ開帳される。

成田山公園

境内の東側一帯に広がる、池を中心とした大公園で、広さは165,000m2

薬師堂

成田駅方向から、成田山へ向かう三差路の左側、成田山新勝寺飛地境内に位置する。光明堂が本堂になる前の旧本堂である。1655年(明暦元年)に建立され1855年(安政2年)に現在地に移転した。成田山新勝寺建物としては、現存する中で最も古い建物であるが、創建当時の構造材は少ない。 2011年から2年掛けて保存修復工事が施された。

醫王殿

2017年11月28日落慶。開基1080年の記念事業として平和の大塔の横に建立された。本瓦、総欅造り。薬師堂に鎮座していた薬師如来と平和の大塔に奉安されていた十二神将がこちらに移されて祀られ、健康長寿・当病平癒の祈祷に利用されている。

湯殿山権現社

JR成田駅東口の成田駅前交番裏に位置する。成田山の管理地であり、成田山の祭礼である成田祇園祭は、元々は湯殿山権現の祭りとして執り行われていた。境内には、小さな祠と多くの石碑がある。湯殿山の名は、出羽三山の湯殿山の流れをくむものである。また境内は聖地につき関係者以外立入禁止となっている。

交通安全祈祷殿

国道51号の成田山入口交差点を入り、少し行くと左側に位置する。その名の通り交通安全祈祷を行う場所。成田山の交通安全祈祷は、昭和30年代より始められた。成田山入口交差点には「仏心で 握るハンドル 事故はなし」と書かれた成田山の看板がある。

歴代貫首[編集]

  • 開山 寛朝僧正
  • 中興
    1. 照範
    2. 快盛
    3. 照朝
    4. 照諦
    5. 照峯
    6. 照乗
    7. 照誉
    8. 照胤
    9. 照融
    10. 照阿
    11. 照獄→(正)照嶽
    12. 照順
    13. 原口照輪
    14. 三池照鳳
    15. 石川照勤
    16. 服部照和
    17. 池田照誓
    18. 荒木照定
    19. 松田照應
    20. 鶴見照碩
    21. 橋本照稔

文化財[編集]

  • 重要文化財
    • 木造不動明王及二童子像[2] - 大本堂に安置する当寺の秘仏本尊。中尊の不動明王像は、坐像で像高約133cm[3]。両脇に二童子をしたがえる。鎌倉時代の後期(13世紀14世紀)作[3]
    • 建造物5棟(仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂)解説は前出。

その他、鐘楼、一切経堂、薬師堂、清滝権現堂、輪転経蔵(各成田市指定文化財)他多数の文化財を有する。

別院・分院・末寺・末教会[編集]

別院・分院・末寺・末教会を合わせて全国に71カ寺ある[6]

関連施設[編集]

所在地と交通[編集]

正月三が日の成田山門前の表参道風景。

その他[編集]

明治天皇成田行在所
  • 境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。1881年(明治14年)6月および1882年(明治15年)6月に、明治天皇が千葉県下の下総種畜場(後の宮内庁下総御料牧場)へ行幸する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。行在所は1933年(昭和8年)11月に史蹟として文部省より指定されたが、1948年(昭和23年)に他の明治天皇関連史跡とともに指定解除されている[7]
  • 高幡不動金剛寺などとともに、関東三大不動の一とされる。関東三大不動の残り1か寺については不動ヶ岡不動(總願寺)、大山不動(大山寺)および高山不動(常楽院)等があげられる。また、高尾山薬王院川崎大師平間寺とともに真言宗智山派の関東三大本山のひとつとなっている。
  • 東京別院深川不動堂東京都江東区)、川越別院本行院埼玉県川越市)、名古屋別院大聖寺愛知県犬山市)、大阪別院明王院大阪府寝屋川市)など日本各地に別院がある。
  • 戦前、「鉄砲の弾から身を守る札」として、身代わり札が流行した。また、成田山号と名づけられた戦闘機が海軍へ、新勝号と名づけられた戦闘機が陸軍に献納された。
  • 平将門の乱平定に関わる由緒から、将門を祀る築土神社神田明神の氏子を始めとして将門所縁の人々の中には現在に至っても成田山参拝を良しとしない風潮が残るとされる。(→平将門#調伏伝説
  • 毎年2月3日節分の日に節分会が開かれ豆まきが行われる[8]。不動明王の前ではさえ改心するため鬼はいないとされており、成田山では「鬼は外」を言わず、「福は内」のみを言うのがならわしとなっている。特設舞台を設置して、「特別追儺豆まき式」を行う。特別追儺豆まき式は3回行われ、そのうち第1回・第2回には、大相撲力士とその年のNHK大河ドラマの出演者がそれぞれ5名程度「特別年男」として豆まきに参加する。なお、『風と雲と虹と』(1976年)は平将門が主人公であったことから将門役の加藤剛を始めとした出演者は参加を見合わせている。
  • 成田山新勝寺としてのCMは、関東地方の民放キー局では初詣前後にしか行わない。地元千葉県の千葉テレビ放送では2011年頃まではほぼ毎日CMを放送していたが、現在は放送されていない。
  • 身代わり札 - 天保2年(1831年)3月、仁王門棟上げ式直前、大工の辰五郎が高さ17メートルの足場から落ちたが、新勝寺の守り札が代わりになって真っ二つに割れ、本人は痛かっただけで怪我一つなかったという伝承に基づく。境内の「お札受け所」にも掲げられている有名な言い伝えである。
  • 1950年に成田山公園内(成田山新勝寺の敷地内)で木村荘太作家、翻訳家)が自殺しているのが発見された[9]
  • 1950年から青少年の健全な育成を期して「はぼたん日曜学校」を開校。2001年、この活動で正力松太郎賞を受賞した。
  • 脱税で摘発された。東京国税局から2011年3月期までの5年間で約1億円の申告漏れを指摘された。過少申告加算税を含む追徴税額は、約2100万円(2013年10月3日のニュース)[10]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 日本の僧として3人目、真言宗で初の、大僧正としても知られているが、寛和2年(986年)以前の僧綱は僧正である。
  2. ^ 和暦の天慶2年1月1日と1月30日(同月最終日)は、西暦ユリウス暦)では939年1月23日と2月21日。
  3. ^ 将門が戦死したのは和暦の天慶3年2月14日で、西暦(ユリウス暦)に換算すると940年3月25日。護摩供は21日間続いたということからすると、始めたのは和暦の天慶3年1月24日、西暦での940年3月5日ということになる。

出典[編集]

  1. ^ [www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=3040005006341 法人番号公表サイト] 国税庁(閲覧:2018年4月11日)
  2. ^ a b c 国指定文化財等データベース(木造不動明王及二童子像) - 文化庁 2018年4月8日閲覧
  3. ^ a b c 国指定文化財等データベース(木造不動明王及二童子像、解説) - 文化庁 2018年4月8日閲覧
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 成田のあゆみ”. 公式ウェブサイト. 成田市立図書館 (2010年1月5日). 2018年4月15日閲覧。
  5. ^ 成田山祇園会とは 成田山新勝寺
  6. ^ 大本山成田山 - 全国の成田山
  7. ^ 昭和23年6月29日文部省告示第64号により解除
  8. ^ “成田山新勝寺 恒例の豆まき”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年2月3日). オリジナル2013年2月6日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-0206-1337-02/www3.nhk.or.jp/news/html/20130203/t10015259841000.html 2013年2月6日閲覧。 
  9. ^ 「文芸評論家 木村荘太氏(六十一)の首つり自殺死体が十六日朝千葉県成田山公園内で発見された。」『朝日新聞』昭和二十五年四月十六日〔成田発〕
  10. ^ 成田山新勝寺、1億円申告漏れ 日本経済新聞 2013年10月3日 19:22

関連項目[編集]

外部リンク[編集]