故郷 (小説)

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故郷」(こきょう、原題故鄕)は、魯迅の代表作ともいえる短編小説のひとつ。1921年5月『新青年』に発表され、のちに魯迅の最初の作品集である『吶喊』(1923年)に収録された。作品に描かれた主人公の生家の没落、故郷からの退去は、魯迅本人の経験がもととなっている。当時の社会に残存する封建的な身分慣習に対する悲痛な慨嘆が込められている作品である。

あらすじ[編集]

主人公の「私」は20年ぶりに故郷に帰ってくる。かつて地主であったが、今は没落してしまった生家の家財を引き払うためであった。主人公の想い出の中で美しかった故郷はすっかり色あせ、土地だけでなく住む人の心さえも貧しく荒み果てていた。 主人公は、少年時代に仲良く遊んでいた小作人の息子・閏土(ルントー)との友人として再会を楽しみにしていたが、再会した閏土との口から出た言葉は、地主階級と小作人という悲しい身分の壁を否応無く突きつけるものであった。しかし、その後主人公のの宏児(ホンル)が閏土の五男の水生(シュイション)との再会を約束したことを知り、明るい未来の存在を願う。

日本での受容[編集]

1927年(昭和2年)に雑誌『大調和』(武者小路実篤が手掛けていた同人誌)に「無名氏」(誤訳のしかたから、日本人と考えられる[1])によって翻訳されたのが最初である[2]。これは同時に魯迅の作品が日本国内に紹介された最初であるともいう[2]

1932年(昭和7年)1月に佐藤春夫が『中央公論』に翻訳を発表訳本からの重訳である(この英訳本もフランス語訳本からの重訳であった[1])が、中国語原文も入手して対照されており、英訳本にあった句の脱落も補われている[1](曲嵐は論文において、漢文や白話文は読解できたものの現代中国語文法には通じていない佐藤が、不明な点を英訳本を参照にしたのだろうと考察する[1])。著名作家が代表的総合雑誌で紹介したことの意味は大きかった[2]。その後、佐藤春夫増田渉アドバイスを受けつつ、1935年(昭和10年)に『魯迅選集』(岩波文庫)で改訳を行っている[1]

1932年(昭和7年)11月、『魯迅全集』(改造社)で井上紅梅が翻訳を行った[2]。この『魯迅全集』は「全集」とはいうものの26の短編小説集であるが、日本語訳の中ではまとまった翻訳集であった[3]

日本では以下のような訳者によって翻訳が手がけられている。

日本では、中学3年用国語教科書5社すべてに採用されており、親しまれている。

国語教科書では竹内好『魯迅文集』(筑摩書房)収録の訳文が底本として用いられている。

猹(チャー)[編集]

上からヨーロッパアナグマ、アジアアナグマ、ニホンアナグマ

本作中には「」(チャー、chá)という動物が登場する。一般的には「アナグマのような動物」と解釈されている。

この動物正体は、本作が世に知られ、外国語に翻訳されていく過程で注目されることとなった[4](なお、1932年に最初期の日本語翻訳(青空文庫に収録されている翻訳)を行った井上紅梅は「土竜」と訳した)。さまざまな問い合わせに対する魯迅の答えは「地元での呼称を表現するために「」という漢字を造った」「魯迅自身も話に聞いただけで「猹」を見てはいない」「おそらくアナグマのようなものである」であった。

  • 北京大学ロシア語教授していたポレヴォイは、1927年に『故郷』の翻訳を行った際に「猹」が動物学書籍に掲載されていないことに困惑し、翻訳家の章衣萍を通して「猹」とは何かを魯迅に問い合わせた。魯迅は「」が造字であること、「アナグマのようなもの(獾一類的東西)」と回答している[4]
  • 百科事典『辞海』の編纂主任舒新城中国語版は、魯迅に「猹」とは何かを問い合わせた。1929年5月4日付の舒新城宛の手紙で魯迅は、「「猹」という文字は郷里の人々の発音に合わせて作ったものであり、「査」と発音する。自分も結局これがどのような動物なのかはわからない。閏土が話したものであるが、他の人もこれを知らない。今思えば、多分アナグマだろう(现在想起来,也许是獾罢)」と書いている[4]

舒新城は「猹」が魯迅の造字であると知り、1936年に発行された『辞海』には「猹」を収録しなかった[4]中華人民共和国の建国後、魯迅の評価が高まると「猹」も辞典類に収録されるようになったが、「瓜を好むアナグマに似た動物」というその説明は『故郷』に基づいている[4]

魯迅自身がよくわからないと述べている「猹」については、ハリネズミ(刺猬)[5]であるとか、皖南(安徽省南部)方言で「蛇」であるとか[5]キバノロ(獐)[4]であろうといった説も出された。

2020年5月、浙江省林業局は目撃例が約20年途絶えていた貴重な野生のアジアアナグマ英語版 (Meles leucurus, 中国名: 亚洲狗獾) が初めて映像で捉えられたというニュースリリースで、『故郷』の「」はアジアアナグマである(また李時珍の『本草綱目』に記載された「貆」もアジアアナグマである)と付け加えた[6]。『故郷』は中国においても語文科教科書(语文は日本の「国語科」に相当する)に「少年閏土」(少年闰土)として抜粋が収録されているためにへの関心は高く、中国メディアでは「魯迅が書いた猹が現れた」と話題になった[7][8][9]

これに対し、中国科学技術協会科学普及サイト「科普中国网」は、公式サイトで「猹」と現実のアナグマを混同しないよう声明を出した[4]。紹興魯迅記念館館長や中国魯迅研究会理事を務めた裘士雄は、2020年5月の取材に対して、たとえアナグマをモデルにしたとしても「猹」はあくまで芸術的創作物である、「猹」を現実の何らかの動物と結びつけようとすることは誤りであると述べている[4]

備考[編集]

  • 本作中に登場する私 迅ちゃん(シュンちゃん)は魯迅ではないかといわれている。
  • 魯迅は1920年1月 - 2月に故郷の紹興に帰省している(そのときの出来事がこの小説モデルという説もある[10])。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e 曲嵐 (2019). “佐藤春夫の翻訳方法の一考察 : 魯迅著「故郷」について”. 岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要 (48). https://ci.nii.ac.jp/naid/120006776442 2020年7月18日閲覧。. 
  2. ^ a b c d 李艶 (2013). “日本における「故郷」翻訳史(自由研究発表)”. 全国大学国語教育学会発表要旨集 (125). https://ci.nii.ac.jp/naid/110009810791 2020年7月18日閲覧。. 
  3. ^ 勝山稔 (2011). “改造社版『魯迅全集』をめぐる井上紅梅の評価について”. 東北大學中國語學文學論集 (16). https://ci.nii.ac.jp/naid/120004247808 2020年7月18日閲覧。. 
  4. ^ a b c d e f g h 被拍到的究竟是不是鲁迅笔下的猹?这回涨知识了……”. 绍兴网 (2020年5月20日). 2020年7月21日閲覧。
  5. ^ a b 鲁迅说的“猹”为何物?”. 中国新闻网 (2011年7月13日). 2020年7月21日閲覧。
  6. ^ 浙江失踪二十多年的狗獾终现安吉”. 浙江省林業局 (2020年5月13日). 2020年7月18日閲覧。
  7. ^ 鲁迅先生笔下的猹,出现了!”. 贵州网络广播电视台(央视新闻の転載) (2020年5月11日). 2020年7月18日閲覧。
  8. ^ 鲁迅笔下的猹,现身了!”. 文汇网 (2020年5月11日). 2020年7月18日閲覧。
  9. ^ 魯迅の小説「故郷」に登場する動物「チャー」とはコレ!”. 人民網日本語版 (2020年5月13日). 2020年7月18日閲覧。
  10. ^ よくわかる国語の学習3(明治図書) pg.74より

外部リンク[編集]