手力雄神社 (岐阜市)

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手力雄神社
Tejikara-O-jinjya Gifu2008-1.jpg
所在地 岐阜県岐阜市蔵前6丁目8-22
位置 北緯35度23分44.5秒
東経136度48分19.2秒
座標: 北緯35度23分44.5秒 東経136度48分19.2秒
主祭神 天手力雄神
社格 郷社
創建 貞観2年(860年)
例祭 4月第2土曜日・10月22日
地図
手力雄神社の位置(岐阜県内)
手力雄神社
手力雄神社
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手力雄神社(てぢからおおじんじゃ)は、岐阜県岐阜市にある神社

式内社美濃国厚見郡比奈守神社とされているが、同じ岐阜市内の比奈守神社の説がある。現在の「比奈守神社」は明治元年「飛騨守神社」が改名したもの。新撰美濃誌には「比奈守神社今手力雄神社といふ」とある。

歴史[編集]

貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられる。弘治年間には斉藤氏の祈願所になる。

中世には長森が戦略上の要所であることから、度々戦火に見舞われた。木曽川渡河点は手力雄神社鎮座地以外に無く、尾張以東の東海道の軍勢が京に上るには、この場所で木曽川を渡るしかなかった。従って信長父子は数次に亘って当所を攻めたが、湿地帯であることから大兵を用いることができず、断念。墨俣で陽動作戦を行う一方、鵜沼、前渡の川並衆を調略し、舟で各務原に渡った。信長公記には「新加納に布陣した。」とある。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、当社を祈願所としていた織田氏が西軍についたため徳川家康の襲撃を受け、神体などごく一部を除き全焼した。

元和年間(1615年1624年)に本殿・拝殿などが再建され、幣殿・拝殿は明治13年(1881年)に再度造営されている。現在の社殿は平成20年(2008年)に新築である。

境内と周辺[編集]

三の鳥居
  • 本殿・幣殿・拝殿
  • 社務所
  • 三の鳥居 朱塗り。道路の半分を占める。道路は手力雄神社の参道で、私道。祭礼に使用しない時は市民に開放されている。
  • 二の鳥居 石造。中山道と手力雄神社参道との境。

一の鳥居は、はるか大垣市赤坂にあるとされる。中山道が開設当時美濃赤坂から鵜沼まで舟航であった時代の名残。天正14年以後陸路になった。

主な神事[編集]

  • 2月22日 祈年祭
  • 4月第二土曜日 春の大祭(手力の火祭
  • 10月10日 秋の大祭
  • 11月22日 新嘗祭

春の大祭は、火薬や花火を仕込んだ神輿を裸男が担ぎ、火の粉を浴びつつ境内を練り歩く豪壮なもので「火祭」として著名。300年余の歴史を誇り(火祭の神事は、昭和34年まで秋の大祭の一環として行われていた)、岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されている[1]

  • その他、毎年8月第2日曜日には、岐阜市観光コンベンション課により「長良川水と火の祭典.手力の火祭・夏」が長良川河川敷で開催されている。迫力は本祭さながら。

文化財[編集]

  • 岐阜県指定文化財
    • 手力雄神社火祭り(重要無形民俗文化財)[1]
  • 岐阜市指定文化財 
    • 木造僧形神像(彫刻)[2]
    • 神酒壺(工芸品)[2]

交通アクセス[編集]

手力雄神社(岐阜市)と手力雄神社(各務原市)の関係[編集]

  • 各務原市の那加手力雄神社の祭神の天手力雄神は、戸隠神社の影響が強いといわれている。事実、本殿の軒に龍の彫刻があり、龍に関わる話が伝わっているが、これは戸隠神社の九頭竜社の影響という。
  • 岐阜市の手力雄神社は、貞観2年(860年)、朝廷の宮中の祭神を分祀したもので、元々の祭神は伊勢神宮の天手力雄神であるという。手力雄神社は長森13ヶ村の郷社であり、那加手力雄神社は那加13ヶ村の郷社である。隣社という以外何の関係もない。

脚注[編集]

  1. ^ a b 手力雄神社火祭り”. 岐阜県. 2013年4月20日閲覧。
  2. ^ a b 市指定文化財一覧”. 岐阜市. 2013年4月20日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]