戸部政直

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戸部政直
戸部城趾の戸部政直の墓
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:新左衛門
主君 織田信秀今川義元
氏族 戸部氏
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戸部 政直(とべ まさなお)は、民間伝承の戦国時代武将で実在していない。通称の戸部新左衛門(とべ しんざえもん)の名で知られる。その事績の多くは、実在した桜中村城城主山口左馬之助教継に依っている。

略歴[編集]

初め織田氏に従っていたが、今川氏とも関係を持ち、『甲陽軍鑑[要文献特定詳細情報]によると、安城合戦織田信広が今川方に降伏した際、今川義元に信広助命の仲介をしたという。織田信秀の死後は今川義元に寝返ったとされ、義元の妹婿になったともいう。その後、織田方の寺部城主・山口重俊に攻められるが撃退し敗死させた。

『甫庵太閤記』[1]等によると、政直の寝返りに怒った織田信長が、右筆に政直の筆跡を真似て練習させ、信長に内通する書簡を偽造。それを商人に化けさせた森可成駿府城下へ持ち込ませた。書簡を見て裏切りを信じた義元の命により、政直は三河国吉田で処刑されたという。その時期は、史料により弘治3年(1557年)と永禄2年(1558年)の二説がある[2]。しかし、この話は信頼性が高いとされる『信長公記[要文献特定詳細情報]には載っていない。同じように織田方から今川方へ寝返り、義元に処刑された山口教継教吉親子の話があることから、教継と政直は同一人物ではないかとみる説もある。

名古屋市南区戸部町の戸部城址[注釈 1]には、戸部新左衛門政直の墓と霊碑があった。現在は富部神社に移されている。なお、跡地は幼稚園の駐車場となっており、原型をとどめていない。服部英雄[注釈 2]によると、霊碑の方は明治7年(1874年)に政直の子孫を称する戸部新吾によって建立されたが、『張州府志』には戸部新左衛門は全く登場せず検討が必要だとしている[3]

なお、政直は自分の前を横切る者は誰でも切り捨てたが、跳んで逃げる蛙は切ることができなかったという言い伝えがあり、これに因んで戸部の蛙という郷土玩具が作られるようになったという[4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 昭和4年(1929年)の区画整理で、本来の場所より約300メートル東にある。
  2. ^ 九州大学大学院比較社会文化研究院教授

出典[編集]

  1. ^ 小瀬甫庵『太閤記』1626年。 
  2. ^ 『戦国10大合戦の謎』[要ページ番号]
  3. ^ 『昭和30年代・濃尾平野と周辺の中世城館』(『比較社会文化』第16巻 2010年 123頁)
  4. ^ 朝日新聞デジタル:「戸部蛙」よみガエル - 愛知 - 地域”. www.asahi.com. 朝日新聞社. 2022年11月27日閲覧。

出典[編集]