戸沢光盛
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![]() 『戸沢家歴代肖像』 | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 |
天正4年(1576年)[1] または天正5年(1577年)8月とも[2] |
死没 |
天正20年3月15日(1592年4月26日)[1] または4月15日(5月26日)[2]、5月15日(6月24日)[3] |
別名 | 平九郎[1][4] |
戒名 | 月山心公大居士[3] |
主君 | 豊臣秀吉 |
氏族 | 桓武平氏戸沢氏 |
父母 | 父:戸沢道盛、母:本堂親条の娘[2] |
兄弟 | 戸沢盛重、戸沢盛安、戸沢光盛 |
妻 | 正室:大森御前(楢岡光清の娘、光信の妹) |
子 | 実子なし[5]。養子:戸沢政盛 |
戸沢 光盛(とざわ みつもり)は、安土桃山時代の大名。戸沢氏の第19代当主[1]。出羽角館城主。
生涯
[編集]天正4年(1576年)、第16代当主・戸沢道盛の子として角館城で生まれる。
天正18年(1590年)、兄で第18代当主の戸沢盛安が早世し、その実子である戸沢政盛も幼少だったため、家督を継いで第19代当主となる[4][1]。豊臣秀吉の奥州仕置では領地を安堵され、「出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳」では4万4350石余の所領を安堵されている[4]。
天正20年(1592年)、豊臣秀吉による文禄の役が始まると、それに参加して肥前名護屋城に向かったが、その途上で発病し、3月15日(または5月15日[3])に播磨国姫路において死去した[1][5]。享年17[1](4月15日に明石で死去、享年16とする説もある[2])。伝承によれば、播磨国塩屋(現・兵庫県神戸市垂水区塩屋町)にて疱瘡で死去し[5]、塩屋の海岸にて荼毘に付され、禅昌寺(神戸市須磨区)に埋葬されたといわれる。また、その墓である五輪塔は、疱瘡除けとして信仰された[6]。
跡を甥の政盛が継いだ[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
- 鍋島直身『神戸名勝案内記』日東館書林、1897年4月14日。
- 仲彦三郎『西攝大観』明輝社、1911年。
- 太田睦郎『カウベ新風土記』神戸又新日報、1934年5月6日。
- 大友義助『新庄藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2006年8月。ISBN 4-7684-7105-6。
- 嶺金太郎『最上郡史料叢書』葛麓社、1925年。
- 田口五左衛門『新庄古老覚書』戸沢家、1918年。