成蹊中学校・高等学校

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成蹊中学校・高等学校
Seikei JHS and HS.jpg
過去の名称 成蹊中学校
成蹊高等学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人成蹊学園
設立年月日 1914年
創立者 中村春二
共学・別学 男女共学
中高一貫教育 併設型
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
高校コード 13733C
所在地 180-8633

北緯35度42分56.9秒 東経139度34分20.5秒 / 北緯35.715806度 東経139.572361度 / 35.715806; 139.572361座標: 北緯35度42分56.9秒 東経139度34分20.5秒 / 北緯35.715806度 東経139.572361度 / 35.715806; 139.572361
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成蹊中学校・高等学校 (せいけいちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都武蔵野市吉祥寺北町三丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校高等学校

概要[編集]

1914年に旧制成蹊中学校を創設し、1925年に旧制成蹊高等学校に発展した。

官立が多かった旧制高等学校の中で、全国でも4校しかない私立の7年制(尋常科4年+高等科3年)の旧制高等学校の歴史を受け継ぐ。

かつては多くの生徒が東京大学(東京帝国大学)へ進学し、1949年は東京大学に64名合格(全国5位)、1950年は49名合格(全国7位)で私立校では全国トップであった[1]。1941年には東京帝国大学に45名合格(全国9位)している。

校名の由来[編集]

成蹊の名称は『史記』の作者司馬遷が、「李将軍列伝」において李廣の人物を讃えるために引用したことわざ「桃李不言下自成蹊」に由来する[2]

設立の背景[編集]

成蹊高等学校は、明治末期〜大正期の教育者である中村春二が、三菱財閥総帥の岩崎小弥太、今村銀行(第一銀行と合併)頭取の今村繁三の協力を得て創設した私塾「成蹊園」を源流に、1912年明治45年)4月に設立された「成蹊実務学校」を母体として設立された。

中村が設立を目前にして1924年に死去したため、成蹊高校の設置者(経営団体)となったのは、中村が1919年大正7年)に設立した財団法人成蹊学園(現在の学校法人成蹊学園)である。成蹊高校開校にあたり、三菱合資会社(後に三菱本社)社長であり、成蹊学園初代理事長だった岩崎小弥太が多大な支援を行い、実務学校の所在地であった池袋からの移転先として現在地の吉祥寺を選定するとともに、当地に所有していた1万余坪の農園と、新たに購入した隣接する8万余坪の広大な土地を併せ、個人的に成蹊学園に寄附した。

歴代理事長・評議員[編集]

成蹊学園 歴代理事長[編集]

氏名 就任時期 備考
初代 岩崎小弥太 1925ー1945 三菱財閥4代目総帥
第2代 山室宗文 1945ー1947 三菱信託会長、三菱地所会長、理事長職代行
第3代 石黒俊夫[3] 1947ー1964 三菱地所会長[4]
第4代 岡野保次郎 1964ー1964 三菱重工業社長、理事長職代行
第5代 小笠原光雄 1964ー1978 三菱銀行頭取
第6代 古賀繁一 1978ー1992 三菱重工業会長
第7代 三橋啓了 1992ー1993 理事長職代行
第8代 飯田庸太郎 1993ー2002 三菱重工業社長・会長
第9代 岸暁 2002ー2009 東京三菱銀行頭取・会長、旧制成蹊高等学校23期生★
第10代 佃和夫 2009ー2021 三菱重工業会長・相談役
第11代 小林健 2021ー現在 三菱商事社長・会長

上表のように成蹊学園理事長には代々三菱金曜会のトップが就任している。

そのほか歴代の成蹊中学・高等学校長谷正紀三菱自動車工業副社長★[5])、栗原美能留高知県知事★)、土田誠一東京高等学校教授)がいる。

成蹊学園 評議員[編集]

評議員にも三菱グループ関係者が数多く登用されている(以下に2022年現在までの評議員経験者を一部抜粋する。★は成蹊出身者)。

三菱グループ関係者[6][7]

上記以外の評議員経験者[6][7]

沿革[編集]

明治末期~大正期の教育者である中村春二が、高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)時代からの友人であった、岩崎小弥太(後の三菱財閥総帥)と今村繁三(後の今村銀行頭取)の協力を得て東京本郷の自宅に創設した私塾「成蹊園」が母体となっている[8]

旧制高校時代[編集]

財政的に支援した成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太
Mitsubishi logo.svg 第4代 三菱財閥総帥
成蹊学園設立のひとり今村繁三

旧制成蹊高校当初の学級定員は1学級30名とし、尋常科は1学年1学級、高等科は文科・理科に分け1学年各1学級だった。履修する第1外国語により、文科甲類(英語)・文科乙類(ドイツ語)・理科甲類(英語)・理科乙類(ドイツ語)と細分された。当時、医学部に進学する人はドイツ語を学ぶために理科乙類に入った。学制改革に際しては、高等科は新制成蹊大学へ、尋常科は新制成蹊中学・高校へそれぞれ移行したと考えるのが一般的である。

成蹊中学校の設置[編集]

当時、東京府下の中学校は第一中学校から第四中学校までの府立中学校、29の私立中学校、ほかに慶應義塾普通部慶應義塾中等部宮内省管轄の学習院中等科、中村の母校東京高等師範学校附属中学校などがあった。1912年時点で成蹊園の生徒24名のうち5名が中学校に在籍し、京北中学校開成中学校などに通学していた。中村春二は信頼できる中学校の少なさに疑念を抱き、中学校新設を強く希望していた。成蹊実務学校開校から僅か2年後の1914年4月、実務学校舎南側に成蹊中学校が開校する。同時に翌12月6日付の朝日新聞読売新聞の朝刊で5人(岩崎・中村・今村・永井・高木)を理事とする財団法人の設立と、学校の特色が報じられた。開設決定の場は高輪岩崎邸であった。尋常小学校卒業を入学資格とする修業年限5年制学校であり、1886年公布の中学校令に準じ「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」ことを目的に設立される。設立申請書は東京都公文書館に所蔵されている。生徒は主に、経済的余裕があって教育熱心な中流家庭および上流家庭の子弟で構成され、卒業生の進路としては高等学校専門学校が多く高等専門学校の予備教育機関としての色合いが強かった。実際に生徒の保護者層は華族や実業界の成功者、高級官吏など社会の上層の人を含んでおり、無職父兄もあったがその大半は地所・株券の収入で生計をなす資産家高等遊民であった。成城学園創立者澤柳政太郎甲南学園創立者平生釟三郎も自身の子弟の教育を託した。成蹊園客員の男爵新田義美岩松新田家3代当主)とその兄弟も他校から成蹊に転入した。

中学校設立には中村春二の東京高等師範学校附属中学校同窓生らも賛同していて、特に外務次官永井松三・医師の高木兼二(東京慈恵会医科大学創設者で海軍軍医総監を務めた男爵高木兼寛の次男)の2名が熱心に後押しし成蹊中学校理事にも就任した。両者もまた中村の成蹊教育に共鳴し、自身の子息らを1915年創設の成蹊小学校に入学させている。

学則により入学は選抜試験合格者に限る事が定められた。また学則第8章には「生徒心得」として守るべき校訓5カ条を掲げている。これは中村自身が附属中学校入学に際して陸軍少将山川浩校長から授かった訓示を踏襲したもので、同校で学んだ精神を成蹊中学校にも継承した。学費入学金1円、授業料は月額5円であり、当時の私立中学の学費相場(1円から3円)を上回っていた。寄宿舎に子弟を入舎させる場合はさらに高額となった。自他共に認める高額の月謝徴収を決めた成蹊中学校でも、実務学校創立理念を受け継ぎ学則にはない特待生制度を用意した。

指導面で特に留意したのは英語と数学で、英語講師には英語学英語教育の専門家、青木常雄東京教育大学名誉教授)を採用している。青木は当時東京高等師範学校でオーラル中心の新教授法が早期から導入されており、それを参考に成蹊中学校でも口頭練習を多分に取り入れた授業を展開した。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者津田梅子や、学習院熊本謙二郎といった当時の英語教育の第一人者も授業を参観している。鈴木ビアトリス文化勲章受賞者の鈴木大拙夫人)や香港総督秘書であった英国伯爵リチャード・ポンソンビー・フェインら外国人教師も招かれ本場の英語に触れて欧米文化を吸収した。図画教師には成蹊園に在籍する曽宮一念洋画家)が任命された。

陸軍大将を務めた上原勇作
陸軍大将や学習院長を務めた大迫尚敏

また、成蹊中学校の精神主義・鍛錬主義の教育は注目を集め陸軍士官学校長陸軍幼年学校長が度々来校した。1916年3月には陸軍大将上原勇作、同じく元陸軍大将で学習院長大迫尚敏が来校して凝然や授業を熱心に参観し「生徒の気込を真剣ならしむる点は実に良い」と述べた。当時、陸軍当局が優秀校として注目していた東京府下の中学校は成蹊中学校を筆頭に、府立四中開成中学の3校であり、成蹊中学校の生徒たちは陸軍士官学校の卒業式、恒例の観兵式に特別招待された。1925年4月、「陸軍現役将校学校配属令」発令に伴い、習志野で中高合同の野外練習が実施され、軍事教練査閲では近衛師団長朝香宮鳩彦王からは「成蹊は全国学校中、最優秀である」との講評を受けている。

成蹊実業専門学校の設置[編集]

1916年9月1日、岩崎によって「財団法人成蹊学園設立許可願」が文部大臣宛に提出され認可を得た。私立成蹊実業専門学校は1916年(大正5)年10月、財団法人成蹊学園理事の中村春二によって設立申請され、12月に文部大臣高田早苗により認可された。日清戦争日露戦争を経て日本は産業革命を達成し国内経済が飛躍的に発展する中、就学率が向上し高等教育である専門学校への進学希望者が増加していた。専門学校令、改正し実業学校令が公布され私立では3番目に成蹊実業専門学校が設立された。学園理事には、三菱の三好重道(初代検事総長三好退蔵の子、三菱製鐵社長・三菱造船取締役)と山室宗文陸軍中将山室宗武の兄、三菱銀行常務・三菱信託三菱地所会長)が名を連ねていたが、岩崎の「近頃は安心して金庫の鍵を預けられる人材が少なくなった」という発言に対し、三好と山室は「成蹊学園において真に信頼しうる人材を養成してみてはどうか」と提案した。この提案によって成蹊実業専門学校が設立されるに至った、と今村繁三が証言する。すなわち成蹊実業専門学校設立は実業界、特に三菱における中堅的人材の育成が求められて企画されたものであった。三菱が社員養成を目的とする、1878年明治11年)開設の三菱商業学校慶應義塾の分校となる)のように、三菱の銘売った学校を創らずに、中村の成蹊に教育を託した根底には、岩崎と中村の長年の信頼に基づく関係があった。岩崎は教育者としての中村春二に絶大な信頼を有し、惜しみない支援をしたいという思いがあった。中村もまた岩崎の思いを受け、実務学校において着実に教育成果をあげて社会から高い評価を得ると共に、社会状況を受けて岩崎の求める三菱や実業界の人材教育の実践に向かったといえよう。実業専門学校設立を提案した三好重道と山室宗文もまた中村の成蹊教育に共鳴し、成蹊小学校に師弟を通わせていた保護者であった[9][信頼性要検証]。山室は1934年にも学園理事となり、1946年から成蹊学園理事長(第2代)を務め成蹊学園の運営に深く関わっていく人物である。

教務主任には第一高等学校東京帝国大学時代の同級生であった中島万次郎(哲学者天台宗大学講師)の他、生徒監には渡辺八郎(秩父宮御用掛、学習院学生監)が着任した[10]。民法・経済学は末弘厳太郎東京大学名誉教授)、森戸辰男(第63・64代文部大臣広島大学学長)[11]石坂音四郎京都帝国大学教授)を通じて鳩山秀夫衆議院議員、第6代衆議院議長鳩山和夫次男)が担当した。鳩山は成蹊教育に期待して一人息子を成蹊小学校に入学させた保護者でもあった。商業科目講師は三菱の選任によった。三菱は1912年から毎年社内で定期的に簿記講習会を開催した。1916年からは早稲田大学商科教授の吉田良三会計学の権威、のちに一橋大学名誉教授)が講師を担当し、翌年に開校した成蹊実業専門学校の講師にも吉田を起用させている[12]

鳩山秀夫

実務学校創立趣旨に準じて成蹊実業専門学校においても特待生制度を設けた。この奨学金を積極的に支出した後援者は、久原房之助(鉱山王、第32代逓信大臣立憲政友会総裁)や川崎財閥総帥二代目川崎八右衛門平生釟三郎甲南学園創設者)、内田信也鉄道大臣農商務大臣)などの大富豪らであった。志願者は毎年5倍を超える人気であったが、1920年になると、第一次世界大戦後の反動不況により、奨学金を支援していた久原房之助や内田信也ら実業家の経営状況が悪化したため特待生募集は中止された。代わりに賃費生を若干名募集した。

米国留学時の八右衛門(右から2人目)。幼名は金三郎だったが、滞米中は川崎金二郎と名乗っていた。左端は岩崎清七、その隣に大三輪奈良太郎(名古屋明治銀行頭取[13][14])、右端は木村利右衛門。この頃に親しくした郷温の妹とのちに結婚した。

第1回卒業生の17名の就職先内訳は、三菱合資会社6名、川崎銀行4名、久原財閥関係2名、そのほかは横浜正金銀行台湾銀行三井銀行などであった。1919年から1923年までの本科生卒業後の進路としては、三菱銀行13名で最も多く、三菱製鐵三菱商事三菱製紙三菱造船などやはり三菱グループの就職が多かった[15]

成蹊高等女学校の設置[編集]

1872年の学制公布、同時に「学事奨励に関する被仰出書」が出され、国民皆学が原則となった。1917年(大正6年)に目白に創設された成蹊女学校は、高等女学校令に基づく学校へと改組され、1921年(大正10年)4月校名を「成蹊高等女学校」に変更した。修業年限本科4年(専攻科3年)で、定員は各学年本科25名(専攻科20名)、授業料は年額84円であった。同年の第1期入学者は20名で、うち成蹊小学校からの内部進学者は15名である。1919年(大正8年)9月に奥田正造女学校主事に就任、翌年中村春二の後を受けて高等女学校長となった。中村は厳格な賢母教育を実現するため女子に対しては男子よりも厳しい指導の必要性を強調し、炎天下での草取りや寒中の体操などで心身を鍛えさせていた。卒業後の進路の中では専攻科への進学が最多であったが、1928年度卒業者は東京女子大学聖心女子学院東京家政学院に進学する者もあった。

1924年(大正13年)、三菱本社で理事会が開催され成蹊高等女学校の学園からの分離が議題に挙がったが今村繁三頭取の助力で回避された。しかしながら第一次世界大戦後の不況が長期化する中、7年制高等学校開校を間近に控える学園の財政状況に決して余裕はなかった。廃校後、特殊な女子教育機関として現校長奥田が経営を続ける案や、新財団法人設立のため安田財閥近藤滋弥実業家男爵)と交渉努力を重ねるものの話はまとまらなかった。1935年に財団法人東京成蹊高等女学校設立の申請が行われ許可が下り、10年に及ぶ分離独立問題は上記の形で決着した。理事長は今村繁三、理事には荻野仲三郎歴史学者)、奥田正造校長、監事に土肥章司(東京慈恵会医科大学教授)が就任した。1954年に成蹊学園へ合併し、1956年に廃校となった[16]

新財団法人成蹊学園への統合[編集]

1917年(大正6年)4月に成蹊女学校と成蹊実業専門学校が開校したことにより、中村春二が校長を務め、池袋目白に校地を有し、名称に「成蹊」を冠する5つの学校が出揃った。5校の設立主体は、小学校および高等女学校は中村個人だが、中学校は中村春二が設立した財団法人私立成蹊中学校、また実務学校・実業専門学校は岩崎小弥太が設立した実業教育を主たる目的とする財団法人成蹊学園であった。女学校は中学校の保護者で秋田最上直吉銀行家衆議院議員[17]が寄付金を出資し、岩崎が継続的に他を出資した。しかしながら教育・経営の両立は安定性を欠いたものであった為、統合する方向へ舵を切った。この統合には三菱財閥3代目当主である岩崎久弥の協力が得られ、1917年に賛助員となって岩崎小弥太と今村と共に各自5万円ずつを出資し校地1,4000坪の大部分を購入、将来的に財団の基本財産となる資産を蓄積し、新財団法人への移行準備に取り掛かった。翌年、東京府知事を通じ文部省(文部大臣中縞徳五郎)に提出、設立登記が行われた。成蹊実務学校・成蹊実業専門学校・成蹊中学校・成蹊高等女学校・成蹊小学校の5校が1つの財団法人成蹊学園に統合された。

学園創立100周年[編集]

2012年5月12日、学園創立100周年記念式典が東京国際フォーラム東京會舘で2万3000人の来場者のもと実施されている[18]。主な出席者には中村春二岩崎小弥太今村繁三の三家の代表者らのほか、東儀秀樹(雅楽師★)、服部克久(作曲家★)、高島彩(進行役★)、中江裕司(映画監督)、鶴見辰吾(俳優★)、中井貴一(俳優★)、佃和夫(理事長)、平野博文(文部科学大臣)、吉沢英成甲南学園理事長)、波多野敬雄学習院院長)、谷正紀(元中学高等学校長★)がいた。

年表[編集]

建学の理念[編集]

「個性の尊重」「品性の陶冶」「勤労の実践」

教育[編集]

中学校のクラスはAからG組の7クラスであり(ただし中学1年次は国際学級H組が存在する)、高校のクラスはAからH組の8クラスがある。体育等の授業では隣り合う組と合同であるが、中学校のGH合同ではH組の人数が若干少ないために比較的少人数での授業となる。

高校1年次は芸術以外はすべて共通科目で、芸術は必修選択科目となっており、音楽・美術・工芸デザイン・書道の中から1つを選択する。
高校2年次からは文系・理系に分かれ、英語・数学が習熟度別の少人数クラス編成となる。第2外国語として、ドイツ語フランス語中国語韓国語を選択することも可能。
高校3年次からは現代文・英語・体育など一部が必修となり、18のコースからなる選択科目が中心の授業になる。英語・理系数学は学力別に少人数授業が行われる。例えば、高校3年では数学がグレード①から④、英語がグレード①から③に別れる。中学1年の英語の授業では、原則として成蹊小学校からの内部進学者と成蹊中学校からの入学者で分かれるが、2年次以降は合同である。

国際学級の設置[編集]

1962年11月の学園審議会で、当時の成蹊小学校長の杉山穣により海外勤務者子女教育を目的とする特別学級の復活が提案[19]された。これよりも以前に成蹊学園は1918年設置の「和組」、1935年設置の「操要学級」と海外勤務者の子弟を受け入れてきた経緯があった。しかし戦中の国際関係悪化を理由に1940年に廃止されていた。戦後日本が高度成長へと向かう中で、外交官貿易商社銀行等の金融機関の海外勤務者が著しく増加した。帰国子女を対象とする教育施設の設備は当時の日本においてごく僅かな先例しか存在せず、公立学校では皆無だった。本格的には1964年1月高瀬荘太郎学園総長の任命により特別学級設置委員会が発足した。3月に委員会策定による「在外子弟のための特別学級開設計画」が審議会に提案・決議された。

1期生(1964年度入学)の保護者の勤務先はボンベイニューデリーサンフランシスコマニラで、商社3名、外務省1名であった。[19]1964年当時、帰国子女クラスを設置する国公立小中学校は存在せず、翌65年東京学芸大学附属大泉中学校に、69年に同小学校に設置されたのが国公立初の事例[20]である。成蹊中学では帰国生受け入れのため、1964年から国際特別学級(1995年に国際学級と改称)を設置している。1967年に文部省(文部科学省)から海外帰国子女教育研究協力校の指定を受けた。[20]

過去には全学年に設置されていたが、現在は国際学級が1学年制になり、中学2・3年からの国際学級編入試は廃止となったが、2008年からは中学2年への帰国生編入試を実施し、中2一般クラスへ編入する。2000年以降、中学国際学級は海外での説明会を実施し、香港シンガポールヨッロッパ等の複数の都市で開催[21]されていた。

学校行事[編集]

体育祭・体育大会
中学の体育祭は9月、高校の体育大会は5月と9月に行われる。
夏の学校
中学1年では自然観察を通じて仲間づくりを行い、中学2年では2000m級の山に登って心身を鍛える。
修学旅行
中学3年の5月に行われる修学旅行は、4泊5日で京都・奈良へ行く。
学習旅行
高校2年の夏休み・春休みに、海外を含めて約8つのコース別に分かれて行われる。生徒と教員が一緒に企画し、希望者参加型となっている。
蹊祭(こみちさい)
毎年秋に行われる中高合同の文化祭。
マラソン大会
高校1年、2年の2月にマラソン大会を実施している。

国際教育[編集]

10スクールと呼ばれる米国の名門ボーディングスクール(全寮制の寄宿学校)3校への留学プログラムなど多数の国際交流がある。

長期留学・短期留学
1856年創設のアメリカ屈指の全寮制私立学校であるセント・ポールズ・スクールは、日本では成蹊高校とだけ交換留学制度を設けている。1949年から成蹊高校から毎年1名の留学生を派遣し、1976年からはセントポールズ校からの留学生を受け入れている。35周年に当たる1984年に、安倍晋太郎外務大臣から両校交流を通じた日米親善関係促進に対する感謝状が送られた。基本的に1年の留学プログラムで、成蹊を退学して留学し、多くの場合は現地校に2年以上在学し卒業するが復学も可能。成蹊OBの槇原稔有馬龍夫清水義明などは同校出身で、多くの留学生は帰国せずに、そのままハーバード大学プリンストン大学などの海外の大学に進んでいる。成蹊学園が実施する留学プログラムの中で最難関である。
1890年創設のアメリカ屈指の全寮制私立学校であるチョート・ローズマリー・ホール(チョート校)へは、2015年よりサマープログラムの派遣、2016年より長期留学生の派遣を開始した。サマープログラムは6月末からで、それぞれ選択したコースと科目を受けながら、5週間のプログラムに参加する。サマープログラムでは、2015年の第1回、2016年の第2回とも5名を派遣した。留学期間はチョートに申請し、審査の上で延長可能。
1781年創設のアメリカ屈指の全寮制私立学校であるフィリップス・エクセター・アカデミー(エクセター校)で日本語を学ぶ高校生が、成蹊中高生の家庭にホームステイしながら本校に通い交流を深める。2016年6月には現地校7名の生徒が来日し、成蹊中高での2週間のサマースクールを経験した。また、同年9月から11月の秋学期(日本の2学期)の約2ヶ月半、同校の5名の生徒が来日し、ホームステイ留学を経験した。2016年から、成蹊高校生が同校のサマースクールで5週間学ぶ奨学制度が創設された。
オーストラリアニューサウスウェールズ州カウラ市にある公立高校で、1970年から1年間の交換留学(留学費用はカウラ側が負担する)を行っている。第二次世界大戦中、カウラ郊外に存在した捕虜収容所が存在し、日本兵捕虜の集団脱走事件が発生した(カウラ事件)。戦後カウラ市長の提案を受け成蹊高等学校間で日豪友好交換留学プログラムが発足し、2020年度で50周年を迎えた。2003年から2年に1度実施の短期留学(ホームステイプログラム)も実施している。
世界屈指の名門ケンブリッジ大学を構成する31のカレッジの中で3番目に古い1347年創立のペンブルック・カレッジが特別に運営するサマースクールで、加藤節成蹊大学名誉教授)の個人的な繋がりによって始まり、2006年より短期留学制度を開始した。夏休みに3週間、ケンブリッジ大学のスタッフが運営するプログラムに基づいて行われる。成蹊学園創設者のひとり三菱財閥総帥・岩崎小弥太も1905年度の本カレッジ卒業生である。参加費は約76万円(奨学金制度あり)。
春休み中の2週間、ホームステイ先からカリフォルニア大学デービス校(UCD)に通い、「英語とキャリア教育」を中心に学び、英語でのプレゼン力も鍛える。途中1日かけてスタンフォード大学サンフランシスコを訪問する。サクラメント市のフードバンクでのボランティア活動や地元デービス高校生との交流なども実施。2015年の第2回は生徒31名、2016年の第3回は生徒29名が参加した。
デンマークコペンハーゲン郊外の私立学校・ルンステッド高校は同国で唯一、日本語の授業がある学校。同校の国際教育の一環で、世界各国を訪問するプログラムがあり、日本短期訪問グループはそのうちの2泊3日を成蹊中高でのホームステイ交流に充てている。また、2016年からは10月のほぼ一カ月をホームステイ先から通学する短期留学制度が始まった。2017年夏からは、成蹊生も同校でのホームステイ体験とスウェーデンのカルマル市にある私立高CISでのホームステイ体験の相互交流を開始する。
スウェーデン南部のバルト海に臨むカルマル市にある、私立学校カルマーレ国際高校では日本語を学ぶコースがある。同校は生徒たちを世界中の姉妹校に派遣しているが、成蹊中高との間に2015年に繋がりができた。そして2016年には同校から3名の生徒が成蹊中高でホームステイプログラムで一カ月滞在した。2017年より夏期派遣を行う。
米国マサチューセッツ州ディアフィールド市にある名門全寮制男子中学校が実施するアジアの中学生向けの2週間プログラム。日本では成蹊・開成・早稲田・慶應などの生徒が対象。普段は男子校ながら、通常のサマースクール(米国内および世界各国から参加する7月プログラム)は女子生徒も多数参加し、日本の夏休みに入ってから行われるこのプログラムも男女共学で実施される。生徒3名につき1名の割合で教員がついて指導にあたる。ハーバード大学MIT訪問やキャンプなどの校外学習もあり、英語でのプレゼンが課される。
国内プログラム
  • プレエンパワーメント・プログラム、エンパワーメント・プログラム
2014年導入の通学型「校内留学」プログラムで、プレエンパワーメントは中学生、エンパワーメントは高校生。カリフォルニア大学スタンフォード大学の大学生・院生が生徒宅にホームステイしながら生徒5~6名ごとに1人ついて英語で進めるキャリアパスプログラム。期間は7月中旬の5日間と短いが、基本的にはカリフォルニア大学デービス校プログラムの国内版となっている。
校内の国際交流
  • 長期(1年間)留学生の受け入れ
オーストラリアのカウラ高校、カウラジュニア(元カウラ高校からの留学生の子供)、アメリカのセントポールズスクール、AFS、YFU財団を通して世界中から毎年数名の留学生を受け入れている。
  • 短期留学生の受け入れ
アメリカのフィリップス・エクセター・アカデミーからサマー生として夏期2週間、またターム生として秋に3ヵ月間、留学生を受け入れている。ターム生は成蹊の生徒のために、海外大学進学のSAT/ACTレクチャーやチャットルームを開くこともある。またカウラ高校、スウェーデンのカルマーレ高校、デンマークのルンステッド高校などの生徒が定期的に来校している。

施設・設備[編集]

ケヤキ並木・サクラ並木[編集]

学園入口から中学校・高等学校正門まで約600メートル続くケヤキ並木(124本)は「日本の音風景100選」(環境省)、「新東京百景」(東京都)に選定されている。全体としても、成蹊学園キャンパスは2011年度グッドデザイン賞を受賞した。[22]

成蹊学園ケヤキ並木

成蹊学園が池袋から吉祥寺に移転した後、1924年(大正13年)に植樹された並木で、樹齢は100年を超える[23]。ケヤキ並木は、五日市街道から本館まで、さらに学園正門から中学・高校に至る道筋の約600メートルに100本以上が植樹されている[23][24]。成蹊学園のケヤキ並木は、以下の3つに選定・指定されている。

2017年には「けやき循環プロジェクト」を開始し、1日の2トンにもなる落ち葉を資源とし、サステナビリティー持続可能性)教育の場として活用されている[23][25]

桜並木

成蹊学園構内には、1924年(大正13年)の移転時にケヤキと共に桜が植えられたため、正門から成蹊小学校の先まで続く「桜並木」が存在する。桜はソメイヨシノヤエザクラシダレザクラ等の合計120本に及ぶもので、間もなく樹齢100年を迎える。関連行事として毎年4月の第1日曜日に開催される成蹊学園桜祭が春を告げる恒例行事となっている。(11月には欅祭が開催される。成蹊中高の学園祭は蹊祭と呼ぶ。)ただし、2021年2022年に関しては新型コロナウイルス感染症拡大の影響で開催中止となった。

図書関連施設[編集]

成蹊中学・高等学校ではないが、成蹊大学情報図書館成蹊小学校新校舎(成蹊学園100周年記念事業)の設計は建築家巨匠坂茂によるもので成蹊小学校、中学校、高等学校第27回の卒業生である。

成蹊大学図書館(坂茂設計)

中央館にある成蹊中学校・高等学校図書館の蔵書数は合計で約15万冊であり、中高の図書室としては日本有数の規模と設備を誇る。成蹊大学情報図書館の蔵書数は130万冊を超える。利用許可書(生徒部で発行)と身分証明書、高等学校図書室利用カード(通称『(うから)』)の提示があれば中高生にも大学図書館の利用が可能である。また、2008年度のグッドデザイン賞を受賞している。

旧制成蹊高等学校は1938年に「緑陰堂文庫」を開設し、情報図書館2階にはその横額、学園史料館には原版が保管されている。文庫の命名は岩崎小弥太理事長によるもので、自作の句「緑陰清風筧の音のありところ」が由来とされ、欅並木のように青葉茂った木立の日陰で快適に読書できる場所を意味している。現代の高度情報化社会の中でも岩崎小弥太理事長の考え方が成蹊の伝統として受け継がれている。

成蹊気象観測所[26][編集]

成蹊学園は成蹊気象観測所を所有している。1924年、尋常科理科の教諭として赴任した加藤藤吉氏によって翌1925年に設立された。気象観測法に基づいた精密な気象観測を生徒らと進めたのが最初で、公式記録は1926年から出されている。戦時中に東京管区気象台から吉祥寺観測所の指定を受け1959年に正式な所有権が成蹊学園に移り、私立の気象観測所として設立された。この気象観測の精密さは、気象庁による観測と同程度であった。実に100年前(2022年現在)から高精度な観測が実現されていた訳である。観測記録をつけた野帳は1926年から存在し、観測開始から1日の欠測も無く記録が続けられている。現所長は宮下敦(成蹊大学教授、元成蹊中高教諭)である。

  • 中学・高等学校中央館:中学校生徒ホール、高校食堂(300席)、コンピュータ教室A(50席)、コンピューター教室B(40席)、視聴覚教室B、中学校図書室・高校図書室(蔵書数合計15万冊)、分割教室(30名×4部屋)、会議室、事務室がある。中高ホームルームと連結している。
  • 理科館:物理・化学・生物・地学の各研究室、講義室、実験室あわせて11の教室、屋上には成蹊気象観測所と天文気象部(高校)が使用する天文観測ドームがある。
  • 造形館:金工室、木工室、美術室、工芸室がある。
  • 特別教室棟:大教室、調理室、被服室、和室、書道室、音楽室(2部屋)、第二視聴覚室、共同研究室がある。
  • 中学校ホームルーム棟(2007年7月竣工):鉄筋4階建て、延床面積5,492平方メートル
  • 高校ホームルーム棟(2008年12月竣工)
  • 中高テニスコート(5面・全面人工芝)
  • 中高グラウンド
  • バスケットボール・バレーボールコートなど(3面・屋外)
  • 中高体育館2棟:第1体育館(中学)、第2体育館(高校、2階にトレーニングルーム・卓球場
  • 中高部室棟2棟(中高各1棟)

この他に、学校行事や体育の授業では成蹊大学の施設を通年利用する(以下参照)。

けやきグラウンド(400m競技場)
  • けやきグラウンド(400m競技場)
    陸上競技、ラグビー、サッカーの公式試合が可能で、約1200名収容可能な観客席がある。2009年春から創立100周年記念事業(環境整備事業)として、インフィールドの人工芝化、トラックのウレタン舗装、照明施設の増設とスタンドの改修・増設工事をして、2009年12月に竣工した。授業のほか部活動や試合、四大戦などで使用されている。2009年の改修工事では、日本陸上競技連盟公認に準拠して、砲丸投げ・走り幅跳び・走り高跳び・棒高跳びなどのエリアが整備された(公認は取得していない)。インフィールドは、ラグビー・サッカーの公式戦ができるよう、公認規則に適合した縦100m・横69mとし、ロングパイル人工芝(フィールドターフ)を敷設した。中学・高等学校における体育の授業(サッカー・ラグビー等)でも利用される。
  • 大学サッカー場・ハンドボールコート(全面人工芝)
  • 野球場
  • 柔道場
  • 北プール(屋外、縦25.0m・横16.4m、水深1.2〜1.5m)
  • 南プール(屋外)
  • テニスコート(9面・全面人工芝)

ただし、上記以外にも成蹊小学校が所有する屋内プール、成蹊大学が所有する馬術場・北体育館・小体育館が存在するが、中高の授業では原則利用しない。

制服[編集]

  • 男子:冬服は、黒蛇腹の縁取りを施した紺色のホック留め詰襟。夏服は、白いワイシャツまたは開襟シャツに、紺色のズボンを着用する。中学は冬服の場合襟に学年とクラスを表した金バッジを、夏服の場合はワイシャツないし開襟シャツに校章を付ける。
  • 女子セーラー服。冬服は紺襟に桃のマークと白線3本が入った紺のセーラー服で、夏服は紺襟に桃のマークと白線3本が入った白のセーラー服。中学はえんじ色のスカーフ、高校は黒色のスカーフを着用する。2022年より女子生徒のスラックス着用が許可され、新たな制服が誕生した。
  • 男女ともに、中学では校章が刺繍された指定のセーターを着用できる。(刺繡は男子が青、女子が赤)

学園歌[編集]

ホームページに記載されている校歌、心力歌(こころの力)以外に応援歌の「太陽の子」「若草薫る」(1958年発表)、虹之寮寮歌の「山の友によせて」(1952年発表)、「箱根寮の歌」「波左間のうた」(ともに1951年発表)、「膚を濡らす」(1930年代発表)と数多くある。

 心力歌[編集]

作成は成蹊学園創立者中村春二の盟友であった小林一郎。小林は少年期に奥津雁江私塾において和漢書を学習し、東京帝国大学を卒業後は西洋哲学の著訳書を相次いで出版、さらには日蓮法華経などの仏教を中心に東洋哲学に精通している研究者でもあった。教育の基本的な在り方を日本古来の教育理念である「修養」としたことから、生徒に心の奥底にある「尊い心」を気付かせるための手段として制作を依頼され1913年に完成。構成は全8章で漢文調であり、人間の内面的主体性の重要性を多角的に説く。1922年には当時の成蹊実務学校の英語教師により英訳され海外も紹介された。現在も入学式や卒業式の際に唄われ成蹊教育の重要な役割を担っている。

進路[編集]

系列校への内部推薦制度[編集]

成績上位者には、成蹊大学への内部推薦の権利を持ちながら他大学を受験できる内推併願制度がある。基準は評定平均8.0以上とされる。成蹊大学への内部推薦には従来「内推テスト」が実施されていたが廃止された。内部推薦基準は評定平均6.5以上(10段階)とされる。ちなみに成蹊中学校から高等学校への内部進学には、中3評定が6.0以上で欠点(4.0以下)が無いことが条件である。

進学実績[編集]

例年、卒業生の約3〜4割が系列校の成蹊大学に進学し、その他の多くは国公立大学私立大学へ進学する。実際2019年と2021年の成蹊大学内部推薦者は卒業生のうち約30%、2020年は36%であった。ただし上記の内部推薦併願制度による他大学進学者も若干名含まれている。

2020年の大学合格状況は、東京大学4名(うち東大推薦1名)、慶應義塾大学41名(うち慶應義塾大学医学部1名)、早稲田大学43名、上智大学31名など。上智大学東京理科大学も合格者は例年30名を超える。

医学部への進学も多く、2019年は53名、2020年は27名、2021年は39名が医学科に合格した[28]。主な合格校は慶應義塾大学医学部(2018年、2020年に1名ずつ)、東京慈恵会医科大学(2018年に5名、2019年度からは3名)・日本医科大学などの私立医大御三家や、順天堂大学医学部、昭和大学などである。

海外大学合格実績も豊富であり、2019年はスタンフォード大学ニューヨーク大学ロンドン大学キングスカレッジ、2021年は清華大学など。

部活動[編集]

硬式テニス部は強豪で、中学男子は全国大会優勝3回・準優勝2回を誇る。

ラグビー部は旧制高校時代の1923年創部の古豪で、花園に4度出場。

都心ながら校内に馬場を持つ馬術部や、スキー部も全国大会に出場している。

籠球部(バスケットボール部)は1927年創部で、旧制成蹊高校時代の1927年、全国高校バスケットボール大会準優勝。1931年には、第10回全日本籠球選手権大会(現 全日本総合バスケットボール選手権大会)で、高校生ながら大学を含む強豪チームを破り、全日本制覇という偉業を達成したことがある。

天文気象部は気象観測で知られ、メディアにも度々登場し(構内に1926年設立の成蹊気象観測所がある)、「小柴昌俊科学教育賞」奨励賞を受賞している。

都内では珍しい中高ストリングス部(弦楽部)やサイクリング部も存在する。

硬式テニス部
ラグビー部
  • 中学 2002年以降の主な戦績
    • 東日本中学生ラグビーフットボール大会
      • 2002年・第22回大会 3位
      • 2003年・第23回大会 ベスト8
      • 2004年・第24回大会 1回戦敗退
      • 2007年・第27回大会 1回戦敗退
      • 2015年・第35回大会 1回戦敗退
    • 関東中学生ラグビーフットボール大会
      • 2002年・第53回大会Aブロック 優勝
      • 2003年・第54回大会Bブロック ベスト4
      • 2004年・第55回大会Aブロック 5位
      • 2006年・第57回大会Bブロック 優勝
      • 2011年・第62回大会Dブロック 優勝
      • 2014年・第65回大会Cブロック 3位
      • 2015年・第66回大会Bブロック 優勝
      • 2016年・第67回大会Cブロック 優勝
  • 高校
馬術部
  • 1929年、第6回全国高校馬術競技大会優勝
  • 全日本高等学校馬術競技大会(インターハイ)多数出場
スキー部

運動部[編集]

中高共通

  • 野球部
  • 水泳部(高校男子は水球)
  • 硬式テニス部(男・女)
  • ソフトテニス部
  • 陸上競技部
  • 卓球部
  • ラグビー部
  • サッカー部
  • バスケットボール部(男・女)
  • 女子バレーボール部
  • 山岳部
  • 剣道部

高校

  • 柔道部
  • スキー部
  • 馬術部
  • 自転車(サイクリング)部
  • 男子バレーボール部
  • バドミントン部
  • 水球部(男子)

文化部[編集]

中高共通

  • ダンス部
  • 英語部
  • 写真部
  • 美術部
  • 演劇部
  • コーラス部
  • 吹奏楽部(成蹊ウィンドオーケストラ)
  • 弦楽(ストリングス)部
  • 書道部

中学

  • 自然科学部
  • 科学技術部
  • 社会探検部
  • 家庭部
  • イラスト漫画部

高校

  • 文芸部
  • 天文気象部
  • 生物部
  • 料理部
  • 鉄道研究部

新制成蹊高等学校出身者(五十音順)[編集]

政治・行政[編集]

法曹[編集]

実業[編集]

学術[編集]

文化[編集]

芸能[編集]

スポーツ[編集]

その他[編集]

旧制成蹊高等学校出身者(五十音順)[編集]

政治・行政[編集]

法曹[編集]

実業[編集]

学術[編集]

文化[編集]

交通[編集]

成蹊中学校・高等学校の位置(東京都内)
成蹊中学校・高等学校

系列校[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する(光文社新書)より
  2. ^ 成蹊の名の由来|成蹊教育のモノコト|成蹊学園”. www.seikei.ac.jp. 2022年5月6日閲覧。
  3. ^ 明治25年1月5日愛知県生まれ。東京帝国大学卒業後、大正6年三菱合資会社に入社した。三菱銀行を経て昭和20年に三菱本社常務、財閥解体時には三菱の代表清算人となり、昭和28年から三菱地所会長を務めた。昭和39年6月15日死去。
  4. ^ 20世紀日本人名事典. “石黒 俊夫とは” (日本語). コトバンク. 2022年5月27日閲覧。
  5. ^ 【新聞ウォッチ】三菱自動車前副社長、名門私立校の校長に就任” (日本語). レスポンス(Response.jp). 2022年5月27日閲覧。
  6. ^ a b 役員等一覧|成蹊学園について|成蹊学園”. www.seikei.ac.jp. 2022年5月27日閲覧。
  7. ^ a b 成蹊学園評議員決定 | お知らせ-〜H14” (日本語). 一般社団法人 成蹊会. 2022年5月27日閲覧。
  8. ^ 第21話 小彌太編 東京生まれの“いごっそう”~信念を貫いた三菱四代目社長” (日本語). 三菱商事. 2022年5月27日閲覧。
  9. ^ 山室宗忠”. www6.plala.or.jp. 2022年5月13日閲覧。
  10. ^ 成蹊学園 (1963). “成蹊会誌”. 成蹊会誌 第21号: 4頁. 
  11. ^ 亀嶋庸一 (2019). “丸山眞男と創立期の成蹊大学”. 成蹊法学 第92号. 
  12. ^ 論文 わが国の税務会計教育をめぐる現状と課題 (上)”. 立教大学. 2022年5月13日閲覧。
  13. ^ 大三輪奈良太郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  14. ^ 大三輪奈良太郎君『名古屋百紳士』馬場籍生 著 (名古屋百紳士発行所, 1917)
  15. ^ 中村春二 | 三菱グループサイト” (日本語). www.mitsubishi.com. 2022年6月22日閲覧。
  16. ^ 成蹊学園広報44号 成蹊女学校
  17. ^ 秋田県の資産家で、父の最上広胖は平鹿銀行(現秋田銀行)設立者である。1894年7月に慶應義塾 正科卒業後、犬養毅 の知遇を得て立憲国民党立憲政友会に所属していた。
  18. ^ 創立100周年記念について|成蹊学園”. www.seikei.ac.jp. 2022年6月22日閲覧。
  19. ^ a b 『成蹊学園百年史』学校法人成蹊学園、平成27-07-01、1210頁。 
  20. ^ a b 『成蹊学園百年史』学校法人成蹊学園、平成27-07-01、1215頁。 
  21. ^ 『成蹊学園百年史』学校法人成蹊学園、平成27-07-01、1226頁。 
  22. ^ 成蹊学園キャンパス [成蹊学園キャンパス]”. Good Design Award. 2022年3月27日閲覧。
  23. ^ a b c <首都残景>(30)学び見守る古木:東京新聞 TOKYO Web” (日本語). 東京新聞 TOKYO Web. 2022年1月30日閲覧。
  24. ^ 成蹊学園ケヤキ並木” (日本語). 武蔵野市観光機構(むー観) 武蔵野市(吉祥寺・三鷹・武蔵境)の観光イベント情報. 2022年1月30日閲覧。
  25. ^ けやき循環プロジェクト”. 2022年1月30日閲覧。
  26. ^ 富士山会議インタビュー Vol.14 宮下敦” (日本語). 富士山世界遺産国民会議|いつまでも富士山を世界遺産に. 2022年3月28日閲覧。
  27. ^ 「時をつくる こころで創る」 大林組” (日本語). www.obayashi.co.jp. 2022年3月27日閲覧。
  28. ^ 大学合格状況・指定校推薦 成蹊高等学校
  29. ^ 天坊昭彦(27)教育の現場へ” (日本語). 日本経済新聞 (2020年4月28日). 2022年5月27日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]