懐徳館庭園

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懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園) は、東京都文京区にある国指定の名勝(2015年3月10日指定)である。読み方は「かいとくかんていえん(きゅうかがはんしゅまえだしほんごうほんていていえん)」。 座標: 北緯35度42分31秒 東経139度45分43秒 / 北緯35.708660度 東経139.761962度 / 35.708660; 139.761962 (懐徳館庭園 (旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園))

概要[編集]

懐徳館庭園(1911年)

東京大学本郷構内の南西隅には、同学の迎賓施設である木造和風建築の懐徳館が建ち、その南に明治後期の旧加賀藩主前田氏本郷本邸に起源を持つ和風庭園が広がる。昭和3年(1928)に前田氏は建築・庭園を含む敷地の全体を東京帝国大学に寄贈し、昭和10年(1935)に、大学は庭園に臨んで建っていた「日本館」と「西洋館」のうち、「西洋館」に対して論語の「君子懐徳」に因み「懐徳館」と命名した。現在の懐徳館は、第二次世界大戦により焼失した「西洋館」の跡に近接し、同じく焼失した「日本館」の一部を模して昭和26年(1951)に再建した木造建築であるが、寄贈後の命名である「西洋館」の名称を継承した。

前田氏は藩政時代に所有した本郷上屋敷の敷地を明治維新に伴っていったん政府に返納したが、その直後に政府は敷地の一部を再び前田氏に給付した。前田氏第15代の利嗣(1858~1900)は明治天皇行幸を願って敷地南半部の改築を決定し、その遺志を継いだ第16代の利為(1885~1942)は明治38年(1905)に木造2階建て瓦葺きの「日本館」を、同40年(1907)に石造地下1階地上2階建て銅板葺きで塔屋を伴うルネサンス様式の「西洋館」をそれぞれ建造した。さらに、明治天皇をはじめ皇室の行幸啓があった同43年(1910)7月の直前にあたる1月から5月までの短期間に、新たに庭園を築造した。

作庭には御抱えの庭師であった珍珠園伊藤彦右衛門があたり、下谷の根岸別邸から多くの樹石を移したのをはじめ、讃岐・小豆島からも多くの石材を集めた。築山の北東斜面には3段の立体的な構成を持つ滝石組みを設け、水道水を用いて築山の頂部から水を落とした。その下方から流れが始まり、北方の芝生地に面して広がりを見せつつ築山の裾部を大きく巡り、南西の池泉へとつながる。行幸啓に先立って流れ・池泉には京都鴨川河鹿を数十匹、を2万匹も放った。また、明治天皇は行幸時に「日本館」東端の奥座敷付近から芝生地を挟んで正面の築山に懸かるの風景を賞玩した。さらに、邸宅は外国使節の迎賓施設としても使われ、大正5~15年(1916~26)に訪れたロシア英国スウェーデンの王族は芝生地の上で写真撮影を行った。

現在の庭園は概ね5つの部分から成る。第1は敷地の南端付近に位置する直径約60~70m、高さ約5mのなだらかな円錐形の築山である。第2は築山の頂部付近から北東斜面にかけて造られた滝石組み、第3は築山の裾部を北から南西へと巡る流れ・池泉、第4はその北側の広々とした芝生地、第5はそれらを南に望み、北側に車寄せを伴う木造建築として昭和26年に新築した現在の懐徳館である。これらの5つの部分を結んで、飛び石・沢飛び石などから成る回遊路が巡る。所々に後補の部分もあるが、全体の敷地構成、庭園の主たる地割・意匠はほぼ作庭当時を継承している。

現在、築山の頂部には給水施設の一部が遺存するが、その経路は詳らかではなく、給水が途絶えた滝・流れ・池泉は枯山水となっている。築造当初に設えたとされる2基の石灯籠、銅製のの置物、3基のアーク灯なども残らない。しかし、敷地の構成をはじめ、築山とその頂部に行幸啓を記念して明治44年(1911)に建てた石碑、滝石組み、流れ・池泉に架かる石橋、岸辺の随所に用いたクロボクの景石などに、築造当初の庭園の遺風及び意匠の特質が伝わる。また、庭園の北西隅部には、戦災焼失前の「西洋館」から弧を描いて連なっていた煉瓦造の塀の一部及びアーチ式の石造門も残っており、造営当初の状況を物語る貴重な証拠となっている。

元の「西洋館」及び「日本館」の流れを汲む懐徳館からの展望、築山・滝石組み・流れ・池泉などの回遊を主体とする伝統的な和風の作庭、外国使節の饗応の場となった芝生地の配置など、懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)には明治後期から大正期にかけての日本庭園に共通する特質を持つのみならず、江戸時代の旧藩主が近代の東京の都心に築造した庭園の遺存例として貴重である。その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値は高い。

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