感応寺 (江戸川区)

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感應寺
所在地 東京都江戸川区一之江七丁目23番11号
位置 北緯35度41分18.4秒
東経139度52分42.6秒
座標: 北緯35度41分18.4秒 東経139度52分42.6秒
山号 江久山
宗旨 日蓮宗
創建年 正応元年(1288年
開基 日進
別称 蓮光院
文化財 梵鐘
公式HP 江久山 感應寺
地図
感応寺 (江戸川区)の位置(東京都区部内)
感応寺 (江戸川区)
法人番号 5011705000048
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感應寺(かんのうじ)は東京都江戸川区一之江七丁目にある日蓮宗の寺院[1]山号江久山蓮光院とも称す。開山は元久2年(1205年)で真言宗の寺院だったが正応元年(1288年)、のちに日蓮宗総本山・身延山久遠寺3世を継ぐ日進が改宗し開基となった[2]。江戸川区の有形文化財に指定された梵鐘は、元禄11年(1698年太田近江大掾藤原正次の作で区内に残る梵鐘の中では最も古いとされる[3]。旧本山は5大本山の一つ・千葉県法華経寺中山門流[4][5]。かつては蓮明・是林坊の2院を擁していた。法脈は小西法縁[6]平成20年(2008年本堂鐘楼堂・客殿・庫裡を再建[7]。平成25年(2013年永代供養墓として納骨堂を建立。現・感應寺住職の38世・日裕(新井貫厚)は更生保護活動にも携わり平成27年(2015年)秋に叙勲を受章した[8]

由緒[編集]

元久2年(1205年)感應寺は真言宗の僧・空念によって開かれた。しかし正応元年(1288年)各地を巡り日蓮の教えを説いていた僧侶、のちに日蓮宗総本山・身延山久遠寺3世となる日進が感應寺を訪れ、法論を決した末に改宗、日進が日蓮宗の感應寺として改めて開基したと伝えられている。以来今日まで日蓮宗の寺院として仏教の教えを説いている[6][7]

感應寺史と時代背景[編集]

鎌倉期[編集]

改宗・真言から日蓮へ[編集]

聖徳太子の時代に伝来した仏教は、平安時代初期に開かれた天台宗真言宗により日本に深く浸透した[9]

鎌倉時代に入ると権力争いが頻繁に起こり治安が悪化、天災、飢饉、疫病も相次ぎ、人々の不安が増大した[10]。こうした中「鎮護国家の祈禱と研究の仏教」から「民衆を救済する仏教」が求められ、のちに鎌倉新仏教と称される浄土系の宗派・禅宗日蓮宗が開かれ世に広まった[9]

感應寺は元久2年(1205年)に真言宗の僧・空念が開山した寺院であったが、正応元年(1288年)に日蓮の孫弟子で中老僧の1人・日進が来訪し、法論の末、日蓮宗へ改宗したと伝えられている[11]

日進・身延山3世に就任[編集]

日進は日蓮宗感應寺を開基後、正和2年(1313年)に日蓮の直弟子で六老僧の1人・日向の跡を継ぎ、甲斐(現・山梨)の日蓮宗総本山・身延山久遠寺3世となった。日進は諸堂の建立など身延山の発展に努め、また下総(現・千葉)の中山法華経寺(当時は本妙寺)3世・日祐と親交を結び、上総と下総の布教にも尽力した[12]

江戸後期の地誌には、感應寺の本堂内に日進作の日蓮像(長1尺5寸)があったと記されている[5]。現存はしていない。

江戸期[編集]

中山法華経寺の末寺に[編集]

関ヶ原の戦いの翌年・慶長6年(1601年徳川家康寺院諸法度を定め、寺院の序列を決める本末制度によって仏教勢力の武力を抑制し、寺社支配の体制を整えた[13]

日蓮宗は各地の寺院を概ね本寺(総本山・大本山・本山)と末寺(中本寺・小本寺・小本寺末寺)に区分し[14]、感應寺は大本山・中山法華経寺(中山門流)の末寺[5]で中本寺となった[11]

檀林の誕生〜小西法縁へ[編集]

寛永14年(1637年キリスト教徒による大一揆・島原の乱が起こると、徳川幕府檀家寺請)制度を定め、全ての民衆を仏教宗派に属させると共に、仏教僧への教育を奨励した[13]

各宗派は檀林など僧侶の教育研究機関を設置、日蓮宗の関東8檀林・関西6檀林には門流の枠を超えた学僧が多数在籍し[15]、やがて学系の寺院団体・法縁(法類)へと発展していった[16]

感應寺も江戸中頃から日蓮宗関東3大檀林の1つ・小西檀林の学系となった。感應寺22世・日榮が小西法縁の僧だったため、21世・日亭が没した宝暦9年(1760年)頃には小西法縁の寺院だったとされる。また感應寺は小西法縁の中では東京・墨田区本所法恩寺の法脈を持ち、法恩寺四天王寺の1つでもあった[6]

梵鐘製作と江戸期の境内[編集]

明暦年中(16551658年)感應寺に梵鐘製作の計画が持ち上がるが頓挫、元禄11年(1698年)18世・日恵が檀信徒の助力を得て梵鐘製作にこぎつけた[3]。梵鐘はのちに将軍家の御成先御用釜師を勤める鋳物師の名跡・太田近江大掾藤原正次が鋳造した[17][18]

江戸後期までの感應寺は蓮明・是林の2院を擁していたが安政2年(1855年)の江戸地震で倒壊。また、境内には本堂の西に七面大明神が祀られ、池に白蛇がいたと伝えられている[11]

昭和期[編集]

本末解消〜旧本山に[編集]

昭和12年(1937年日中戦争が勃発。翌年、国家総動員法を制定した大日本帝国[19]、宗教団体についても国の統制下に置く事を決めた。そして昭和14年(1939年)宗教団体を国が保護・監督する宗教団体法を公布し翌年施行した(戦後廃止)[20]

同法により昭和16年(1941年宗教法人となった日蓮宗は、本山と末寺の関係を解消して総本山・大本山以外の寺格を同等にした。各本山の力を失くし、総本山・身延山久遠寺を中心に全寺院を統制しつつ、大日本帝国に協力しやすい体制を整えた[21]。本末解消により多くの本山が経済的に苦しむ一方で、末寺は上納金が無くなり所有地を増やした。特に檀家を多く抱えた末寺は経済的に豊かになった[22]。のちに各寺院では旧本山・旧末寺と呼びならわし、感應寺も旧本山・中山法華経寺の旧末寺とした[6]

戦時供出・梵鐘の危機[編集]

日中戦争中、軍需物資の生産資源に乏しく廃品回収運動でも補えなくなった大日本帝国は、昭和16年(1941年)金属類回収令を実施。工場・会社はもとより一般家庭や寺院などからも強制的に金属類を回収した。同年12月になると太平洋戦争が勃発、兵器の生産資源の需要が増す中、寺院では多くの梵鐘や仏具が戦時供出された[23]

感應寺の梵鐘は37世・日進の尽力で昭和18年(1943年)金属類特別回収物件譲渡免除となり、江戸川区内で戦時供出を免れた唯一の梵鐘として現存している[6]

金属類回収令には、国宝や重要な美術品、寺宝など申請により例外的に供出免除となるケースがあった[23]

戦後・寺領消失と檀家増[編集]

昭和20年(1945年第2次世界大戦に敗れGHQ占領下に置かれた日本は、GHQ指導のもと民主化政策を進め、昭和22年(1947年)から農地改革を行った。

当時の寺院は広大な農地を所有し、多数の小作人に耕作権を与え小作料を得ることで寺院経営を行っていたが、改革により農地は小作人に払い下げられ多くの寺院が窮乏した[24]。しかし、その後の高度経済成長バブル景気の波に乗り、都市部やその近郊など多くの寺院は檀家数を増やして経営を立て直した[25]

感應寺もまた農地改革により広大な寺領を失ったが、その後、檀家数は増加した。感應寺が所在する江戸川区の人口は昭和25年(1950年)の約21万人から平成22年(2010年)には約68万人と大幅に増えている[26]

昭和の寺院再建[編集]

昭和10年(1935年)感應寺36世・日隆が新たに本堂を建立、広さは正面6間、奥行5間半、檜造りの本堂を完成させた[6]。その後、日隆は千葉県茂原の本山・藻原寺79世となった[27]

昭和40年代までは、本堂の東に三十番神堂があり、講中の参拝で賑ったが、老朽化で取り壊され、御神体は本堂内陣に収められた。

昭和46年(1971年)37世・日進が檀信徒の助力を得て、翌年迎える日蓮生誕750年の慶讃記念事業として庫裡書院を建立した[6]。日進は完成の翌年、逝去した。

平成期[編集]

失われた20年と納骨堂[編集]

平成2年(1990年)末、東京株式市場が大暴落した。バブル崩壊に始まった平成の不況は、金融危機に陥った平成10年(1998年)頃から慢性的なデフレとなり、失われた20年と称されるほど長期化した。景気停滞は所得格差を生み、高齢者の貧富の差も広がった。また非正規雇用ワーキングプアと共に増えた晩婚化は、非婚化現象に発展し少子化を進めた[28]。さらに親子の別居や核家族化、離婚の増加が単身の高齢者を増やし、日本の特色ともいえた「共同体」意識の希薄化が、家族の絆を弱めた[29]

こうした中、仏教界では墓を子に継承しない人や継承できない人が現れ、金をかけない埋葬や1世代だけを埋葬する新たな墓の形が生まれた。永代供養墓(合祀墓)・納骨堂散骨樹木葬などである[30]。感應寺においても平成25年(2013年)に永代供養墓として納骨堂を建立した[31]

更生保護活動・叙勲受章[編集]

平成の不況と共に犯罪も増加した。刑法犯の認知件数は平成8年(1996年)から毎年戦後最多を更新し平成14年(2002年)には285万件に達した。しかしその後は減少し、平成28年(2016年)には100万件を下回って戦後最小を更新した[32]。防犯カメラの普及を背景に、街頭犯罪に多かった少年犯罪の減少が全体の引き下げにつながった[33]

感應寺38世・日裕(新井貫厚)は更生保護の活動に携わり、平成20年(2008年)から4年間、江戸川区保護司会の11代会長を務めた[34]。また同活動の功績が認められ平成22年(2010年)法務大臣表彰[35]、平成27年(2015年)秋に叙勲を受章し国から勲章「瑞宝双光章」を授かった[8]

平成の寺院再建[編集]

平成20年(2008年)38世・日裕のもと、本堂鐘楼堂・客殿・庫裡が再建された。本堂と鐘楼堂は欅と桧木を使った木造で屋根は銅板平葺き、 客殿と庫裡は鉄筋コンクリート壁構造の躯体で建てられた[7]。また平成30年(2018年)3月には檀家の寄進により境内に日蓮の銅像を建立した。

感応道交[編集]

感應寺の名前の由来については定かではないが、衆生の関わりを述べた仏教用語に感応道交(かんのうどうこう、または、かんのうどうきょう)という言葉がある。感応導交は、衆生の機縁に仏の力が自然に応じて、衆生の感と仏の応が互いに通じ合うことで、人が心から仏を求めれば、仏の心がそれに応じて、人と仏が一つに交わるという。また逆に、仏の働きかけを人が感じ取ることで、人の心が仏と通じるともされる[36]

日蓮銅像[編集]

平成30年(2018年)3月、檀家の寄進により感應寺境内に日蓮の銅像を建立、台座には日蓮が書いた「立正安国」の文字が復元された。感應寺の日蓮銅像(約1.8m)は、大正12年(1923年)千葉県鴨川市にある大本山・清澄寺の旭が森に建立された日蓮銅像(約3m)を等身大に近づけて復元したもので、旭が森は法華経を広める決意を固めた日蓮が立教開宗したと伝わる霊跡である[37]。清澄寺の日蓮銅像を復元したものは平成30年(2018年)3月時点で全国に40体以上あり、墨田区法恩寺にも日蓮銅像(約2.4m)が復元されている[38]

またこの日蓮銅像は明治から昭和にかけて活躍した彫刻家彫塑家)渡辺長男の作品で[37]、渡辺は文化勲章を受章した彫刻家(彫塑家)朝倉文雄の実兄である。渡辺の代表作の多くは戦時供出等で失われ、現在は東京都中央区日本橋欄干にある獅子像と麒麟像、旧多摩聖蹟記念館明治天皇騎馬像、八王子市御衣公園の菅原道真像などが鑑賞できる[39][40]。日本橋の麒麟像は推理作家東野圭吾が平成23年(2011年)に書き下ろした小説「麒麟の翼」に登場し翌年の映画化でも話題となった[41][42]

文化財[編集]

感應寺梵鐘[編集]

昭和57年(1982年)「江戸川区指定有形文化財・工芸品」に指定された感應寺の梵鐘[43]元禄11年(1698年)のちに将軍家の御成先御用釜師を勤める鋳物師の名跡・太田近江大掾藤原正次(通称「釜屋六右衛門」「釜六」)により鋳造された[17]。同梵鐘は太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に江戸川区内で唯一戦時供出を免れ、区内に残っている梵鐘の中で最も古いとされる[3]。同梵鐘の高さは152cm、口径は77cm[43]。鐘を突く橦木には古来より最適とされる棕櫚の木を使用している[44]

また釜六が鋳造した初期の梵鐘は東京都内に3口の現存が確認でき、江戸川区の感應寺の他には、台東区浅草寺世田谷区豪徳寺に現存する。墨田区回向院の銅造阿弥陀如来坐像も釜六の代表作として知られる[45]

賢性院日是大徳筆小塚[編集]

賢性院日是大徳筆子塚(けんしょういんにちぜだいとくふでこづか)は昭和63年(1988年)に「江戸川区登録有形文化財・歴史資料」に指定された[46]

江戸時代、村には僧侶が読み書きやそろばんを教える寺子屋があり、その生徒を筆子と称した。筆子たちが建てた恩師の供養塔を筆小塚という。

感應寺の過去帳によれば、賢性院日是大徳は感應寺塔中の是林坊で筆子を指導したと伝えられ、文政6年(1823年)に没した。墓石の向かって右側面には「毫子中」の文字が刻まれ、左側面には「夢の世や 二十余年を月の露」の句が彫られている[47]

仏涅槃図[編集]

感應寺の寺宝として釈迦入滅時の悲嘆の情景を描いた仏涅槃図を所蔵。感應寺の涅槃図は元禄年間(1688〜1703)16世・日全の代に描かれ、その後、文政9年(1826)、平成20年(2014)と2度に渡って修復した。掛軸の寸法は横207.5cm、縦345.5cm[7]

感應寺永代納骨堂・鐘楼堂 [編集]

感應寺永代納骨堂は、核家族化や少子化などが進み、墓の継承への悩みが増す中、平成25年(2013年)に建立された。この納骨堂は八角円堂で、曲線美にこだわった屋根は木造、軒から下は鉄筋コンクリートで造られた。コンクリートの外壁面には木造の伝統建築を思わせる造り込みを施し、銅板葺きの屋根と漆喰色の壁のコントラストが静寂さを醸し出すという[31]

また隣接する鐘楼堂の屋根も美しいカーブを描く。建材に欅と吉野の桧を使用した鐘楼堂は中世の折衷様式を用いて平成20年(2008年)に建立。特に屋根は大工職人の技の粋を集め、振隅、切裏甲、垂木は居定付きとし、精巧で優美なものに仕上った[44]

永代納骨堂と鐘楼堂、庫裡はいずれも佐藤秀一級建築事務所の設計である[31][44]。同建築事務所を創始した佐藤秀三は昭和期に活躍した建築家で、日本の木造住宅の伝統美に西洋建築の美しさを取り入れて独自の作風を確立し、数多くの住宅建築を手掛けた。代表作には国の重要文化財に指定された住友家俣野別邸(焼失)、昭和54年(1979年BSC賞を受賞し遺作ともなった日光プリンスホテルなどがある[48]

江戸川区一之江の日蓮宗寺院[編集]

  • 江久山感應寺(東京都江戸川区一之江7丁目)
    • 元久2年(1205年)開山。真言宗だったが正応元年(1288年)に身延山久遠寺3世・日進が日蓮宗に改宗[11]
    • 境内には江戸川区内に残る中では最も古い釜屋六右衛門作の梵鐘や、日蓮が立教開宗した清澄寺の日蓮銅像を復元した像、永代納骨堂などがある[3][38][31]
  • 金嶋山妙覚寺(東京都江戸川区一之江6丁目)
    • 弘安7年(1284年)開山。江戸川区の地に開かれた日蓮宗寺院としては最古[49]。開祖は豪族千葉氏の出と伝わる日全で感應寺開基・日進に師事したとされる[50]
    • 境内には日蓮銅像、妙見堂などがある。妙見菩薩は国土を守り延命の福徳があるとされ、武家の守護神として千葉氏など地方豪族が帰依したという[51]
  • 利栄山長勝寺(東京都江戸川区一之江6丁目)
    • 天正11年(1583年)開山。開祖は京都本圀寺から来た日信、妙覚寺9世・日住の弟子で長勝寺は始め妙覚寺の塔頭だったと伝わる。
    • 境内にある浄行菩薩像は美肌・皮膚病などにご利益があるとされタワシでこすって祈願する参拝者もいる[49]

近隣の公園[編集]

脚注[編集]

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出典[編集]

  1. ^ 交通案内”. 感應寺公式サイト. 感應寺. 2018年1月25日閲覧。
  2. ^ 全国寺院名鑑 (1969), p. 東京都-79
  3. ^ a b c d 江戸川区の文化財 第5集 (1988), p. 6
  4. ^ 日本大百科全書21 (1989), p. 470
  5. ^ a b c 蘆田 (1996), p. 101.
  6. ^ a b c d e f g 小西法縁名鑑 (1977), pp. 31-32
  7. ^ a b c d 感應寺について”. 感應寺公式サイト. 感應寺. 2018年1月5日閲覧。
  8. ^ a b 平成27年秋の叙勲受章者名簿 (PDF)”. 内閣府. p. 8. 2017年12月26日閲覧。
  9. ^ a b 保坂 (2010), pp. 98-109.
  10. ^ 渡辺 (2011), pp. 22-31.
  11. ^ a b c d 江戸川区史 (1976), p. 524
  12. ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 663
  13. ^ a b 保坂 (2010), p. 114.
  14. ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 776
  15. ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 550
  16. ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 696
  17. ^ a b 近江の鋳物師 (2002), pp. 30-31
  18. ^ 江戸川区史 (1976), p. 578
  19. ^ 日本史大事典 (2009), p. 348
  20. ^ 日本史大事典 (2009), pp. 1087-1088
  21. ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 835
  22. ^ 影山 (2009), pp. 110-112.
  23. ^ a b 昭和ニュース事典 (1994), pp. 127-133
  24. ^ 鵜飼 (2015), pp. 212-216.
  25. ^ 鵜飼 (2015), pp. 216-222.
  26. ^ 江戸川区人口ビジョン (PDF)”. 江戸川区経営企画部. 江戸川区. p. 2. 2017年12月26日閲覧。
  27. ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 1295
  28. ^ 船橋 (2015), pp. 8-18.
  29. ^ 橘木 (2011), pp. 34-41.
  30. ^ 自分らしい葬儀とお墓 (2009), pp. 116-127
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  34. ^ 東京における保護司活動 (2014), p. 142
  35. ^ 東京における保護司活動 (2014), p. 208
  36. ^ 感応道交』 - コトバンク
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  50. ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 619
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参考文献[編集]

外部リンク[編集]