愛新覚羅奕キョウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本来の表記は「愛新覚羅奕」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
愛新覚羅奕
ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ
ᡳ ᡴᡠᠸᠠᠩ
愛新覚羅氏
Hubert Vos's painting of Yikuang.jpg
慶親王奕肖像(1899年、ヒューベルト・ボス画)
称号 慶親王
敬称 慶密親王(諡号)
出生 (1838-03-24) 1838年3月24日
清の旗 北京城
死去 (1917-01-28) 1917年1月28日(78歳没)
中華民国の旗 中華民国北京西城区定阜街3号慶親王府
子女 載振載𢱿載掄
父親 愛新覚羅綿性
役職 内閣総理大臣
テンプレートを表示
愛新覚羅奕
ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ
ᡳ ᡴᡠᠸᠠᠩ
Pmyikuang.jpg
慶親王奕

内閣 慶親王内閣
在任期間 1911年5月8日 - 1911年11月16日
皇帝 宣統帝
テンプレートを表示

愛新覚羅 奕(あいしんかくら えききょう、アイシンギョロ・イクワン、満州語:ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ
ᡳ ᡴᡠᠸᠠᠩ
、転写:Aisin-gioro I-kuwang、道光18年2月29日1838年3月24日[1] - 1917年民国6年)1月28日)は、末期から中華民国初期の皇族。乾隆帝の曾孫で咸豊帝又従兄に当たる。

生涯[編集]

輔国公中国語版綿性中国語版(慶僖親王中国語版の六男)の長男として誕生、伯父の鎮国公綿悌中国語版の養子に入る。

家族[編集]

清の皇族は5人まで妻を持つことができたが、奕には6人の妻があった。このことからも彼が親王の中でも特別な地位にいたことが分かる。

6人の男子がいたが、三男・四男・六男は夭逝した。

この他に12人の女子がいたが、その中で三女・四女は常々西太后に付き従って遊んだり写真に写ったりしている。娘の1人は西太后の弟である承恩公桂祥中国語版の息子に嫁いでいる。

評価[編集]

過去の評価は「愚昧な汚職官吏」というものであった。しかし奕は清末の新政においてどちらかと言えば積極的な推進派であり、例えば沈家本の法制度構築を支持したりしている[3]

参考文献[編集]

  • 清史稿』巻二百二十一 列伝八 諸王七

脚注[編集]

  1. ^ 『道光十二年至宣统三年王公大臣年歳生日表』
  2. ^ 郭廷以『中華民国史事日誌』
  3. ^ 江庸『趨庭随筆』p.61。黄源盛『法律継受与近代中国法』第三章
公職
先代:
創設
清の旗 内閣総理大臣
1911年5月8日 - 1911年11月16日
次代:
袁世凱