悟り

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悟り(さとり、: bodhi)は、迷いの世界を超え、真理を体得すること[1]覚悟証得証悟菩提などともいう[1][注釈 1]仏教において悟りは、涅槃解脱とも同義とされる[1]

日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する[2]

原語・語義・類語[編集]

インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された[3][要検証]

正覚
語頭に“無上”や“等”など何らかの形容語がついたものを含めれば、日本で編纂された三蔵経である大正新脩大藏經に1万5700余みられるが[4]、意味の異なる数種類以上のサンスクリットの単語・複合語の訳として用いられている[5][要ページ番号][要検証]。元となるサンスクリットの原意はその種類によって幅広く、初転法輪にかかわる意味から成仏に近似した意味、智波羅蜜に類した意味にまでに及ぶ[5]
開悟
日本語で悟りを開く意の「開悟」と漢訳されたサンスクリットは数種類ある[6][注釈 2]。いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」など、彼岸行の始まりを示唆する婉曲な表現の複合語で、prativibudda の場合、開悟のほかにも「夢覚已」「従睡寤」と漢訳されることがあった[7]
単独の訳語として用いられる数種類のサンスクリットのうち、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの(avabodha)」という名詞と、「覚された/学ばれた(avabuddha)」という形容詞である[8][要ページ番号][要検証]。これらとは逆に、一つのサンスクリットが複数種類以上の漢訳語を持つケースは珍しくなく、「知」「解」「一致」など数種類の漢訳語を持つ anubodha, saṃvid, saṃjñā などの名詞は「悟」と訳されることもあった[8]
菩提
bodhi の漢訳で、「覚」「道」「得道」などと漢訳される場合もある[9]。大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音訳せず「覚」と意訳した新訳があるが、「覚」の訳が当てられたサンスクリットは十種類以上に及ぶ[10][要検証]
阿耨多羅三藐三菩提
大乗経典で多用され[11]、「最も優れた-正しい-知識」「最も勝った-完全な-理解」といった意味あいで[12]、すでに部派仏典に見られる述語である[13]
モークシャ
モークシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、天国地獄を超越した場所として、モークシャを指す場合もある。

科学的見解[編集]

悟った人を「仏」と呼ぶ場合がある。「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている[14]。また、宇宙には、物質の宇宙と意識の宇宙があるとする説がある[注釈 3]

各宗教における悟り[編集]

仏教[編集]

釈迦(しゃか)は、29歳で出家する前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ[16][要ページ番号]ピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たして悟りを開き[17][注釈 4]梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする[19]

釈迦は悟りを開いた当初、自身の境涯は他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから(聖求経)、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされることがある[1]。一方、藤本晃によれば、南伝仏教であるテーラワーダ仏教では、釈尊は悟りを四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことはできないとパーリ語仏典や漢訳阿含経典に書いてあるとする[20]

釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。

ジャイナ教[編集]

ジャイナ教のシンボル

ジャイナ教では、修行によっての束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。

モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。

このモークシャを得るために、徹底した苦行瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。

  1. 霊魂(ジーヴァ)
  2. 非霊魂(アジーヴァ)
  3. 業の流入(アースラヴァ)
  4. 束縛(バンダ)
  5. 防ぎ守ること(サンヴァラ)
  6. 止滅(ニルジャラー)
  7. 解脱(モークシャ)

ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは“存在しない”とする。

霊魂(ジーヴァ)とは、インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在し、“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻すると伝えられている。

霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は外界の対象に執着してはならないとの教えで、あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。

霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだと云われる。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている[21]

ヒンドゥー教(バラモン教)[編集]

ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。

仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟り意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態とされる。サンスクリットニルヴァーナ涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。

インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。

ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。

悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。

悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。

現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。

通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。

キリスト教[編集]

仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している[22]。 また、イエスは、古今東西の覚者と同じく、悟りの体験をしていたという見解がある。[23]

福音書における悟りの関連個所[編集]

イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる[24]

十字架にかかる以前のナザレのイエスの教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫貪欲悪意、奸計、好色、よこしまな眼、涜言、高慢、無分別などがあげられている[25][注釈 5]

仏教的な悟達者との関連[編集]

これらの箇所に見えることは、人が、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは一種の悟りである、という「自力救済的な教え」を、時にイエスは説いていたということである[注釈 6]。しかし、ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。

『闘技者トマスの書』に見るナザレのイエスと悟りの関連性[編集]

福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」[28]という言葉などにも、人が、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書のトマス福音書とは異なり、異端であるとはされなかった。

「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている[29]

闘技者トマスの書における悟りと関連した信念[編集]
  • 2、イエスの友と呼ばれる人は、自らを測り知らなければならない。
  •  自分が何者なのか、いかにして存在しているのかについて、知らなくてはならない。
  •  自分がいかなる存在になるかを、学び知りなさい。
  •  イエスの兄弟と呼ばれている人は、自分自身について無知であってはならない。
  •  私は真理の知識である[注釈 7]
  •  私が真理の知識であることを、誰もが認識することができる。
  •  今だ自分自身について無知であっても、すでに認識にたっすることはできる。
  • 3、自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。
  • 5、変化するものは滅し、滅びる。肉体が滅びるのと同じように、万物は変化し、滅びてゆく。
  • 6、万物の深遠や真理の知識は、見ることができず、説明することも困難である。
  • 8、欲情や肉欲は肉体に属する火炎である。人の心を酔わせ、魂を混乱させる。人々の霊を焼き焦がす。
  •   真の知恵から真理を求める者は誰でも、自らを翼にして飛翔し、「欲情」から逃れることが出来る。[31]
  • 9、これは完全なる者たちの教えである。もし、あなたたちが完全になろうと思うならば、あなたたちはこれらのことを守るであろう[注釈 8]
  • 11、幸いだ、賢者は。彼がそれを見出した時に、彼はその上に永遠に安息し、彼を動揺させる者どもを恐れることがなかった。
  • 12、本来的自己の中に安息することは、益になる。そして、それはお前たちにとって善いことなのだ。
  • 22、あなたたちが、身体の苦悩と苦難から離れるとき、あなたたちは、善なる者[注釈 9]から安息を受け、王とともに支配するであろう[33][34]
『トマス福音書』における悟りと関連した信念[編集]

(77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。

(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。

(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。

(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である[35][36]

イスラム教[編集]

一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュ英語版のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある[37]

スーフィズムの修行例[編集]

イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派があるとされている。彼らは、人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーにおいて、神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、神は、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、修行者においては、自己否定の無の底に、「遍在する人格的な神」の実在性の顕現が為されるとされる。[38]

  • 「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、・・・それを汝が知らないでいる状態のことだ」。(アブー・サイード)(11世紀のスーフィー)
  • 「汝が汝であることよりも、大きな災いはこの世にはありえない」。(アブー・サイード)
  • 「我こそは真実在」。(ハッラージ)(10世紀のスーフィー)
  • 「我が虚無性のただ中にこそ、永遠に汝の実在性がある」。(ハッラージ)
  • 「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現がその者の内部を占拠して、もはや神以外のなにものの意識もまったく残らないことだ」。(ジャーミー)(15世紀のスーフィー)
  • 「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、わたしは自分という皮を脱ぎ捨てた。・・・私は彼だったのだ」。(バーヤジード)(9世紀のスーフィー)

[注釈 10]

初期イスラーム教と悟り[編集]

初期イスラーム教について[編集]

ムスハフ解釈本を研究する者は、大体三つの時期に全体を大別するのが常である[40]。 ムハンマドに表立って反対する者が出てくる前、最初の啓示から四年ほどの間に下されたアッラーによる初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの教え)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる[41] [42]

アラブの伝承では、人はめいめいに自身の精霊(ジン)を持っているとされ、砂漠の民は、神、あらゆる精霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いているとされる[43]。当時、ムハンマドの住んでいた地域のキリスト教は、異端とされるものであったとされ、閑静な場所で、瞑想生活を送るタイプの異端であったとされる。ムハンマドは、啓示を受け始める以前、ヒラー山の洞窟に、定期的に数か月単位で瞑想生活を送っていたとされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教徒に関心を持ち、異端とされる宗派の信仰生活に影響を受けてのものであったようだ。祖父の代より行われていた、一家の宗教行事ともいえる瞑想生活を契機として、ムハンマドに神の啓示が下される事態となったわけである。しかしそのとき、ムハンマドが悟っていたかどうかについては、定かではない。

啓示を受け始めた当初、神はムハンマドに対して「あなたは神の預言者である」という言葉を繰り返していたとされている。彼が瞑想のために山に登るたび、その声が彼をつつみ、彼の自覚を促していたという[44]。その神が、ユダヤ教やキリスト教の神と同じであると直感したのは、彼を取り巻く人たちであった。

ヒラー山にて、内的啓示を受けたとき、ムハンマドは、それがアラブに昔から言い伝えられるジンと呼ばれる霊的存在であると思った。妻は、妻のいとこに相談をした。「かつてモーセを訪れた偉大な神が到来したのだ」と、いとこは、ムハンマドに語ったと言われます[45]。その後、ムハンマドが「ヒラー山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の使徒である」という、神の、啓示があったとされる。ムハンマドには、その神が、「モーセを訪れた偉大な神」であるかどうかは判らなかった。けれども、神によって、モーセに連なる預言者の一人としての自覚を促されている、という認識はあったようだ[注釈 11]

スーフィズムにつながる心境[編集]

ムハンマドの啓示も、当初はイエス(宗教者)と同じ、一なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったとされる。しかし、平和のために剣を取ることによって生じた甚だしい自己矛盾が、神の理とその啓示から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけてしまった、という見解がある[46]。そのような観点からすると、ムハンマドの意識は、最初期に限定してみた場合、「神の理」を悟る心境にあったとみることができる。また、信者においては、こうした瞑想生活と神の理に対する理解と洞察から、後年のスーフィズムが生じてきたとみることができる。

老荘思想と悟り[編集]

「悟り」と「道の体得」との関係[編集]

」は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。この「道」は言葉によって客観的に捉えることができないとされている。そのため、荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている[47]ことを感得した人であるとされている。また、「道」は、無限なる者[48]として、天地のまだ存在しない大古から、すでに存在しているものであり、これを感得する者を、真人や聖人と呼んでいる。また、道を体得した者は、霊妙な力を持つ天帝鬼神の存在についても知ることになる、とされている。(斉物論篇 九)。「道」は、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている[49]。このことは、宇宙の真理を説いたとされる初期仏教における悟りと何らかの関係にあると見ることができる。[注釈 12]

荘子の「道」について[編集]

道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[50]

自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている、とされる(斉物論篇)[47]

老子の「道」について[編集]

老子においては、実在としての道は、循環運動を永遠に続けているとされている[51]。あらゆる存在は、「」として、「」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。

「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。

「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである[52][注釈 13]。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。

荘子(書物)と悟り[編集]

荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている[47]ことを感得した人であるとされている。

道は、万物が皆よって生ずる根本的な一者であり、無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[50]

根源的な真人や聖人における心境[編集]

聖人における「聖」という概念には、倒置の状態(自己を外物のうちに見失い、自らの本性を世俗の内に喪失した状態)から完全に脱することができた真人という意味合いがある。聖人の境地とは、およそ無心のままに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静まりかえって作為から離れていることとされる。それは、天地の安定した姿のうちにあり、自然のままの道徳の極致を体現した聖なる存在であるとされる。(天道篇 二)[注釈 14]

自得について[編集]

自得とは、最初の段階では、自分自身の在り方に満足することであり、与えられた運命のままに生きるという随順の立場と変わりがないといえる。しかし、これは、自分の「外なる物」という自分の本性でないものと自分の内にある本性とを弁別して、自らの本性を選択し続ける、という段階につながっている。その外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声である。これらの外物を遠ざけ、退けるところにはじめて自然の性が保たれるのである、とされる[53]

道の徳を身に得た者は、徳を傷つける知識を得ようとはしない。だから、「ただ自己のあり方を正すことがすべてである」。このような自己本来の立場にあって、完全な楽しみを得ること、これを「わが志を得る」という、とされている(繕性篇)。

明知について[編集]

天地の徳を明白に知る者は、いっさいの根源を宗とする者であるといえる。それは天との和合をもたらすものであり、また、天下万物に調和を与え、人との和合をもたらすものである(大宗師篇)、とされている。また、道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない、ともされている(庚桑楚篇)[54]

荘子の坐忘的心境と悟りについて[編集]

荘子の思想の中には、「道」と「無為」とを同一視してしまう場合がある。また、「無為」と、「自然の為すところ」とが同一視されている場合もある。至人の境地に至るためには、これらを念頭に生きることが不可欠な道標であるとされる場合もある。この場合の至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする(大宗師篇)。こうした思想は、後代になって、解脱を目的とする禅宗の成立に大きな影響を与えたとされる[55]。仏教における禅宗は、仏教伝統を受けつぎながらも荘子を頂点とする中国思想と深く交流することによって、はじめて成立したものであるとする見解がある。それによると、禅宗における悟りと関連した概念(「不立文字」「見性仏性」等)と、荘子における無為自然との合一という概念とには、相通じるものがあるとされている[56][注釈 15]

老子道徳経と悟りについて[編集]

玄同(道との合一)について[編集]

「その光を和らげ、その塵を同じくす。是を玄同という」(第56章)という言葉がある。玄を道と解釈した場合、老子においても道との合一を果たす生き方は、一つの悟りであり、「道の徳」や「道の援助」のうちに生きる生き方であると見ることができる。

道は全体に対して、弱い力として働いており、沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。(42章)

グノーシス思想と悟り[編集]

古代ギリシアにおいては、「知識」・「認識」はグノーシスと呼ばれていた[57]。古代思想としてのグノーシスは、「神の認識の仕方」の一種であるとされる[58]。宗教用語として見た場合、グノーシスという言葉は、広義な意味を有している。古代ギリシアにおいて、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい状況にある。そのため、客観的認識作用や、主観的認識作用とその結果を、グノーシスと呼ぶことが可能である。「悟り」についても、広義の意味におけるグノーシスの一部に属していると見ることができる[注釈 16]。また、古代ギリシアより遅れて生じ、グノーシスを壊滅させたキリスト教においては、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする教義によって、国民を統制する立場であった。歴史的に見て、絶対的一神教は、悟りと関わりのある宗派・宗教を異端として弾圧してきた。こうした、絶対的一神教(三位一体神等)による神の認識の仕方は、悟りとは逆の思想であるといえる。

グノーシス思想(ギリシア)と悟り[編集]

グノーシスは、古代ギリシア語で「知識」・「認識」を意味している[57]ギリシア哲学では知のことをソフィアとしているが、ソクラテスやプラトンも、神や、神の世界や魂を信じていた。宗教と哲学を分かつことは難しい。言い換えると、古代において、ソフィアとグノーシスを分けて考えることは難しい。古代のグノーシスは、悟りのようなものであると見ることができる[注釈 17]。そうしたグノーシス主義には、神の存在を認めない哲学的思想を批判している文書もある。また、スピノザの説いた一元的汎神論は、グノーシス主義に似通っているが、絶対的一神教が支配的な社会であったためか、無神論の一種として扱われた。

古代ギリシアでは、あの世の神的次元にいるとされる神々が、賢者に啓示を下すと考えられていた。プラトンは、ソクラテスの言葉として、神々に対する不敬を行った者などは、あの世にて重い罰を与えられるエルの物語を記した。これは、神話ではなく、ソクラテスの受けた啓示を物語として記したものであるといえる[注釈 18]

広義な意味でのグノーシス思想と悟り[編集]

グノーシスとは、「現れえないものどもを、現れているもののうちに見出すことから、はじまる」という言葉がある[59]。広義な意味において、グノーシスとは、「神は、宇宙を含むすべての存在についての真理を認識できるようにしている」、という信念に基づく類の宗教思想を全体的に言い表す言葉であるといえる。該当する宗教の中に、神話論的、実践的、直感的な真理としての「神の認識の仕方を有する宗教思想」があった場合、その宗教は、グノーシスとしての面を持っていると解釈することができるようだ。

汎神論的宗教(遍在神的) における神の認識の仕方と悟り[編集]

古代思想としてのグノーシスと悟り[編集]
  • プラトンの転生輪廻の記憶と古代文明
  • 太陽信仰におけるエジプト文明とゴータマ・ブッダ(宗教者)における太陽信仰。
  • 最古は、ゴータマ・ブッダによって伝承された、7回の宇宙期における、それぞれの文明の中で悟った賢者による「諸仏の教え」であるとされる。また、初期の仏典に現れたとされる「世界の主」は、諸仏のきまりとして、「人格的な面を持つ万古不滅の理法」の導きに頼って生きることを啓示したとされる。
  • リグ・ヴェーダの賛歌は、その最古のものは紀元前1500年ころより作られ、前1200年頃に形成されたとされる[60]。インドの西北方から攻め入ったアーリア人によって作られたとされている。

ヴェーダにおける神の認識の伝承は、バラモン教やヒンドゥー教にも影響している[注釈 19]

初期の仏教における神の認識の仕方と悟り[編集]

ゴータマ・ブッダは、仏教というものを説いたことがなく、あらゆる宗教に通じた万古不滅の法を説いたとされる。その中には、ウパニシャッドの哲学等においける、悟達の境地に到達した古仙人たちのことが語られている[注釈 20]ので、古代の聖人たちと関係のあるバラモン教の宗派の悟りと古代文明のグノーシスとには、密接な関係があると見ることができる。

ゴータマ・ブッダは、自然の背後に神の存在を認めていた。また、神はあるということは、智者によって一方的に(直感的に)認識されるべきであるとしていた[61]。宇宙の真理としてのバフラマーは、啓示を「この世の主であるバフラマー神」によって、修行完成者としてのブッダに下したとされる。また、万古不滅の法[62]として、諸仏の教えがあるとしている。また、ブッダは、諸仏を尊敬し信じる心のある者は、それだけで、天に生まれるとしている[63][注釈 21]

初期の仏教においては、相手に応じて法を説いた。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときもあれば、知識階級でも実践的真理の欠けているものには、哲学とは無意味であるとする回答をしているときもある。あるいは、論理的な説明がかえって害となる場合には、黙して返事をしない場合もあった。

唯一神教(汎神論的)による神の認識の仕方と悟り[編集]

ギリシア思想・ユダヤ教の思想における神の認識の仕方と悟り[編集]

中期プラトン主義はグノーシス主義に影響を与えたとされている。また、旧約聖書も影響しているとされている。全能者は、この世界を覆っていて、悪(貧しさや高慢)であるとする思想は、キリスト教グノーシス主義のみではなく、非キリスト教グノーシス主義にも、よくある要素であるとする見解がある[64]。こうした二元論的なグノーシス主義は、直感的な悟りの体験における喜悦や神の愛を、知によって不平や不満に変質させる、という特質を持っている。

西洋古代末期におけるグノーシスと悟り[編集]

『エウグノストス』における神の認識の仕方と悟り[編集]

ナグ・ハマディ文書の中に、『エウグノストス』という写本がある。この書は、宇宙開闢の神について語られている。次の、宇宙の真理を説く天啓に満ちた人が来るまでの神の認識の書であるとされている。端的に見るならば、宇宙開闢の神が、天啓を賢者に下した、と見ることができる[注釈 22][注釈 23]

イエスの思想を起点とした神の認識の仕方と悟り[編集]

ここでのイエスの思想は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものであるとされている[65]

トマス福音書の中には、イエスの直伝にまで遡る可能性が想定されている句が二つあるとされる(77の後半、98など)[66][注釈 24]。イエス(宗教者)の直伝の経文がほとんど無いのは、単純に言うと、直伝の経文が破棄されたり、別の思想者によって編集・改ざんされたためである。

イエスの思想と悟り[編集]

77の後半:「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」・・・この句は、神の遍在思想と関係があるとされる[67]。イエスは一なる神を信じていた。

98:イエスが言った、「父の王国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕が強いかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した。」・・・この句は自己吟味の勧めであるとされ、ルカ14:31-32に類似しているとされている[68]。ルカ14:33では、自らの財産のすべてを断念しない者は、誰一人私の弟子になることはできない、とされている。父の王国は、自らの財産のすべてを断念しないと入ることができない、と考えると理解しやすいといえる。 荒野の試みのところでは、悪魔がこの世を支配していることが述べられている。この句に言われている「高官」とは、この世の君(高官)を指し、その支配から脱却することを、彼は高官を殺した、と譬えたことがうかがえる。高官殺人をたとえに用いたのは、弟子の中に刀を持っていた者がいたためであると、考えられる(ヨハネ18の10)。また、民衆の多くは、救世主が、ユダヤの政治的な解放者であると考えていたとされており、政権の転覆には、高官暗殺が必要と考えていた弟子がいたのではないかと思われる。

「エリアはすでに来た」という句では、ヨハネの前世がエリアであったことが表明されている。エリアの転生輪廻は、天から生まれたことになり、トマス福音書の天から人は生まれてくるという記述とつながっている。

四福音書におけるイエスの思想は四つほどである。他は、福音記者による物語か、講釈である。四福音書のイエスの言行には「人間を育む慈悲の神」は出てきているが、「唯一の神」は出てきていない。唯の字をはぶいた「一なる神」という概念を、ユダヤ教の聖書を引用するときに使ったとされている[69]。宗教者としてのイエスの考察にとって重要と思われる『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に出てくる神は、この、「一なる神」や、あるいは、ブッダの説いた「人格的な面を持つダルマ(神)」に近いようだ。全宇宙の神として観た場合、「一なる神」は、ブッダが説いた「人格的な面を持つ神(ダルマ)」というものに似ているといえる[70] [注釈 25]

トマスと悟り[編集]
マリアと悟り[編集]

シャーマニズムにおける啓示宗教と悟り[編集]

広義には、地域を問わず、シャーマンが関わる宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼んでいる。その中にあって、自然界における神的存在やあの世の神的存在がシャーマンに神事を告げてきた時には、啓示宗教としての形態を持つことになる。そのため、各文明におけるシャーマンの思想が、万古不滅の法にかなったものである場合には、そのシャーマン自身の悟りに結びついているといえる。

万古不滅の法と絶対的一神教の関係[編集]

キリスト教と悟り[編集]

キリスト教は、すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場であるので、悟りとはほど遠い思想である[注釈 26]

367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている[71]

ユダヤ教と悟り[編集]

「在りてある者」としての神は、モーセに、十戒等の啓示を下したとされる。在りてある者としての神は、人格的な面を持つ実在のことであると言い換えることができる。旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった[72]。拝一神教とは、他との調和をはかるという特質がある[注釈 27]。神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされるので、モーセの時代には、多神教徒とは争わないで調和して生きよ、という神の啓示があったと見ることができる。

タナハにおいて、拝一神教に該当する部分については、啓示宗教であるといえる。また、タナハにおいて、絶対的一神教としての神の啓示の部分は、神話と編集作業から生まれたものとされている[注釈 28]

イスラム教と悟り[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 菩提は: bodhiの音写[1]
  2. ^ 「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明。
  3. ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。[15]
  4. ^ 釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蝋月(12月)8日は、今日でも降魔成道会として、曹洞宗では最も重要な年中行事の一つとなっている[18]
  5. ^ 「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点があるとされている。[26]
  6. ^ 福音書において、「十字架」という語には、贖罪論的な意味はなく、自力的な人生の重荷や使命といった意味を持つ言葉としてしか使われていないとされている。[27]そうしたことから、福音書の中には、「自力救済的な教え」と、「他力救済的な教え」とが混在していると言える。そして、キリスト教が国家宗教としての位置を確立するころには、「他力救済的な教え」以外のものを異端として排斥するようになっていった。
  7. ^ 自分の霊的な本質を認識していることを指しているとされている[30]
  8. ^ マタイ5:48にも、同じような言葉が使われている。
  9. ^ 太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神[32]
  10. ^ 内面的に純化されたイスラームは、「悟り」を求める修行者の意識と共通する部分があると言える。このように、内面的ともいえるイスラームの一宗派は、イスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまで来ているとされている。そのため、イスラーム教において彼らは、異端として弾圧されてきたとされている。[39]
  11. ^ しかし、初期の啓示とされるものについても、ヒラー山にて下されたものはごくわずかであり、2年ほど通信は途絶えたとされている。その後は、当時の偶像崇拝のメッカであった神殿にて再開されたと言われている。当時の神殿は、人身御供も行われるほど、霊的に乱れた場所であり、その後の神の啓示の神聖さに大きな影響を与えたと考えられる。詳しくはナスフを参照のこと。
  12. ^ 初期仏教の経典の中には、サーリプッタ解脱をしたときに、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる。(出典『原始仏典II 相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳)
  13. ^ 老子が「道(タオ)」と呼んできたものは、人間がこれまで神とか仏とか宇宙意識とか呼んでいた、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)
  14. ^ 欲望に動かされずに道徳の極致にいたるというのは、初期仏教における「諸仏の教え」に通ずるものであると見ることができる。
  15. ^ また、荘子において、「明」によって照らすとする思想の中には、是非の対立を超えた明らかな知恵を持つことであるとする場合がある。この場合の明知は、絶対的な智慧を指し、こては仏教でいう無分別智にあたるとされる(出典『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P178 森三樹三郎
  16. ^ 宗教的な直感的認識として限定的に見た場合のグノーシスは、超感覚的な神との融合の体験を可能にする「神秘的直観」に関する知識を指しているとされる。神秘的直観は、霊知とも解釈される。
  17. ^ グノーシスという言葉は、宗教用語としては、広義に過ぎるため、一般的には西洋古代末期における宗教思想の一つに限定して用いられている。広義における「認識」や、「神の認識」は、宗教用語としても使われていない。神の認識の仕方としてのグノーシスは、グノーシス主義と同一の言葉として扱われることが多い。
  18. ^ ギリシアの古代の思想は、宗教と哲学とを分けて考えてはいなかった。また、古代ギリシャの宗教としてのオルペウス教は、神話を啓示の位置にもってきている。
  19. ^ バラモン教とは、バフラマーの教えという意味もあり、宇宙の真理を悟ることとバフラマーとは、関係があると考えられていた。
  20. ^ 原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた。(出典 原始仏典II 相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか)
  21. ^ 初期の仏教においても、神の存在と、人間が肉体と霊体で構成されていること、などが言われている。そのため、人間の直感を用いて宇宙の神秘的な真理と倫理を体得するという点においては、不連続なつながりがあると言うことができる。
  22. ^ キリスト教グノーシス主義者によって編集されている同名の他の一冊を度外視して考えると、古典的な古代ギリシャ思想であると見ることができる。(出典『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 岩波書店 1998年 解説エウグノストス P503 小林稔)
  23. ^ キリスト教的グノーシス主義とされるものは、自己の霊的な本質の認識と神についての認識に到達することを求める思想である。
  24. ^ 初期の仏教の経文なども、短い詩句などは、ブッダの直伝にまで至ることができるものが多い。
  25. ^ それとは異なり、「座して全存在を支配している人格神」というのは、旧約聖書のイザヤ書(14章)や、新約聖書の使徒行伝やヨハネによる黙示録に出てくる「神の座に座す唯一神」に該当するといえる。座して全存在を支配している人格神について、「唯一の神」の「唯」の字をわざわざ省くことによって、イエスはこれを否定している、と見ることができる。
  26. ^ しかしながら、一部の修道院や、一部の聖人とされる者や、一部の実践者などには、悟りに近いと思われる人がいると見ることができる。
  27. ^ 拝一神教は、特定の一神のみを崇拝するが、他の神々の存在そのものを否定せず、前提としている点で、絶対的一神教(唯一神教)とは異なっている。(出典岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869 拝一神教の項目 山我哲雄)
  28. ^ どの部分に編集の手が加わっているかははっきりしないので、絶対的一神教を強調している部分は、啓示的ではない、と解釈することができる。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、370-371頁。 
  2. ^ 新村出(編)『広辞苑』(第三版)岩波書店、1986年10月、972頁。 
  3. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁。
  4. ^ 『正覚』 大正新脩大蔵経テキストデータベース
  5. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「正覚」 687頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
  6. ^ 『広説佛教語大辞典』 中村元著 (東京書籍) 上巻 「開悟」 180-181頁。
  7. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) prativibudda 840頁。
  8. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
  9. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) bodhi 932頁。
  10. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。
  11. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 がは大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。
  12. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) anuttarāṃ 58頁, samyak 1437頁, sambodhiṃ 1434頁。
  13. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 (阿含部) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  14. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元
  15. ^ 『心の原点』高橋信次  三宝出版 1973年 P26
  16. ^ 『四禅‐定』 (禅学大辞典)参照: 釈迦族の農耕祭のときに四禅定を得たとする。同辞典の旧版では農耕祭での相撲のときに四禅の相を現したとしている。
  17. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大日經疏演奧鈔(杲寶譯)』 (T2216_.59.0414a08: ~): 疏如佛初欲成道等者 按西域記 菩提樹垣正中金剛座。…(中略)… 若不以金剛爲座 則無地堪發金剛之定 今欲降魔成道 必居於此。
  18. ^ 清水寺成道会12/8 ※記述内容は各寺共通 - 京都・観光旅行。
  19. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『釋迦譜』 (T2040_.50.0064a08: ~): 佛成道已 梵天勸請轉妙法輪 至波羅捺鹿野苑中爲拘隣五人轉四眞諦。
  20. ^ 藤本晃 (2015年11月). 悟りの四つのステージ. サンガ [要ページ番号]
  21. ^ 渡辺研二 2006.
  22. ^ 鈴木大拙全集第十巻[要追加記述]
  23. ^ 『人間の絆 響働編』高橋佳子 祥伝社 1991年 P55
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  25. ^ マルコ福音書7-21
  26. ^ 『新約聖書』新約聖書委員会岩波書店2004年、P31
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  28. ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 闘技者トマスの書 3 岩波書店、1998年、 荒井献大貫隆、小林稔、筒井賢治訳 
  29. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』 P380
  30. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III 』用語解説 P5
  31. ^ マリア福音書参照
  32. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 III』P57
  33. ^ 『ナグ・ハマディ文書 III 説教・書簡』 闘技者トマスの書 岩波書店、1998年、 荒井献大貫隆、小林稔、筒井賢治訳 
  34. ^ 闘技者トマスの書参照
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  37. ^ イスラム史におけるスーフィズムの意義について(Webpage archive、2012年8月5日) - http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/ronbun3.html
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参考文献[編集]

  • 鈴木学術財団 編『漢訳対照梵和大辞典』(新訂版)山喜房佛書林、2012年5月。ISBN 9784796308687 
  • 中村元『広説佛教語大辞典』東京書籍、2001年6月。 NCID BA52204175 
  • 大蔵経テキストデータベース研究会『大正新脩大藏經テキストデータベース』(2012版)、2012年http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php 
  • 禪學大辭典編纂所 編『禅学大辞典』(新版)大修館書店、1985年11月。ISBN 4469091081 
  • 渡辺研二『ジャイナ教入門』現代図書、2006年。ISBN 4-434-08207-8 

関連項目[編集]