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志摩町片田

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志摩町片田
—  大字  —
片田漁港
志摩町片田の位置
志摩町片田の位置(三重県内)
志摩町片田
志摩町片田
志摩町片田の位置
座標: 北緯34度15分23.0秒 東経136度50分44.4秒 / 北緯34.256389度 東経136.845667度 / 34.256389; 136.845667
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Mie Prefecture.svg 三重県
Flag of Shima, Mie.svg 志摩市
面積
 - 計 2.36km2 (0.9mi2)
標高 4m (13ft)
人口 (2012年11月1日)
 - 計 2,467人
等時帯 日本標準時 (UTC+9)
郵便番号 517-0705
市外局番 0599
ナンバープレート 三重
※座標・標高は志摩市片田共同福祉施設付近

志摩町片田(しまちょうかただ)は、三重県志摩市地名郵便番号は517-0701。2012年11月1日現在の人口は2,467人[1]2004年現在の面積は2.36km2[2]

明治時代伊東里きアメリカ合衆国に渡り、里きに続いて多くの片田地区の住民がアメリカに移民したことから、「アメリカ村」の異名を持つ[3]

地理[編集]

志摩市の南部、志摩半島最南端の先島半島(前島半島)東端に位置する。北は英虞湾に、南は太平洋熊野灘)に面する[4]。東は深谷水道をはさんで大王町船越、西は志摩町布施田と接する。

熊野灘沿岸は、岩礁が発達し、複雑な地形を形成する一方で、大野には砂浜が広がる[5]海食崖である麦崎[6]には志摩半島最南端の灯台である麦崎灯台が建ち、布施田水道に東から入る船の目標物となっている[7]

片田の中央部は起伏が多いため、限られた平地に家々が密に建ち並ぶ[8]。集落は東側の大野と西側の乙里に分かれ、相互にライバル意識を持つ[5]。大野集落は海抜ゼロメートル地帯であり、長年に渡り暴風雨高潮の被害を受けてきた[8]

  • 岬:麦崎
  • 海浜:大野浜
  • 島:大莚(おおむしろ、おむしろ)島、小莚島、猪子島

小・中学校の学区[編集]

市立中学校に通学する場合、志摩町片田全域が、片田小学校・志摩中学校学区となる[9]。片田小学校は志摩町片田にある[9]2014年3月31日に片田中学校が閉校するまで、同校の学区であった[10]

歴史[編集]

近世まで[編集]

志摩町片田と志摩町布施田の境界付近にある小字切間では、弥生土器須恵器土師器が見つかっている[11]。また大莚島、乙部、宮の谷、田尻では弥生時代遺跡が、大塚では直径約20m円墳が発見されている[12]

鎌倉時代の『神鳳鈔』には「片田御厨」と「小大野」の地名が記載されている[11]言い伝えでは、片田地区は片田集落(乙里)と大野集落を1つに合わせた地区だとされる[11]。また、中世の古文書には『皇太神宮年中行事』や『神領給人引付』に「片方」として記録するものもある[4]

江戸時代には志摩国英虞郡鵜方組に属し、片田村として鳥羽藩の配下にあった。江戸時代を通して村高は589石余であった[4]。毎年初鰹5枚を藩主に献上し、エビサザエアジなども必要に応じて代銀を受け取って納めた[12]。このほかにもさまざまな漁獲物があり、船数は121艘に上った[12]。藩主内藤忠政参勤交代の際には船を出し、海難救助にも当たった[12]

近代以降[編集]

かただむら
片田村
廃止日 1954年12月1日
廃止理由 新設合併
片田村布施田村和具町越賀村御座村志摩町
現在の自治体 志摩市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方東海地方
都道府県 三重県
志摩郡
団体コード なし(コード導入前に廃止)
面積 3.49km²
総人口 4,058
(『志摩町史』、1953年)
隣接自治体 志摩郡船越村、布施田村
片田村役場
所在地 517-07
三重県志摩郡片田村
Map of Shimacho-Katada.png
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町村制が施行されると、片田村は単独で村制を敷き、2度の市町村合併を経て、大字として存続している。片田村時代は半農半漁村だった一方、機帆船を所有して海運業に従事する村民も多かった[4]1889年(明治22年)1月26日、片田村出身の伊東里きは横浜港からサンフランシスコへ渡り[13]1894年(明治27年)にアメリカ人男性との間に生まれた娘を連れて片田村に帰郷した[14]。すっかり垢抜け、英語が端々に混ざる話し方をする里きの姿に村人は驚き、アメリカの労働賃金の高さを知って渡米を希望した若者を連れ、再びサンフランシスコへ戻っていった[14]

渡米した若者たちは玄米1俵が3円の時代に平均して年間300円を故郷に送金したため[3]、片田村では里きを頼ってアメリカに渡る人が急増し[15]、明治末期から大正初期にかけて移民が片田郵便局に送金した金額は、片田村の予算の3倍にも達した[3]。片田村からの移民の中に平賀亀祐の父もおり、亀祐は父を追って渡米し、現地で絵画を学んだ[16]。この移民ブームは第二次世界大戦前まで続いた[12]

1932年(昭和7年)10月14日に深谷水道が開通し[17]、以後片田村で副業として真珠養殖を行う業者が増加した[18]1935年(昭和10年)の国勢調査によれば男性100人に対する女性の人口は131人で、東京文理科大学青野壽郎は「海女といふ職業が、女子を郷土に定住せしめる有力な経済的要因となつてゐることに基く結果の人口現象であると解せられる。」と分析した[19]

1954年(昭和28年)に谷野良之は片田村の小中学生を対象に起立性蛋白尿の調査を行った[20]。これによると、小学生は夏季に毎日3時間水泳を行うため高温から守られ、起立性蛋白尿を患う児童は少ないが、中学生は真珠などの作業に従事するため、起立性蛋白尿を患う生徒は小学生に比べ多かったという[21]1959年(昭和34年)、伊勢湾台風が襲来したことを契機として防波堤が築かれたため、大野集落の自然災害による被害の軽減が実現した[8]1975年(昭和50年)12月10日には麦崎灯台が設置され、航行目標となった[7]

片田大野の防波堤は2001年(平成13年)に台風11号の上陸などによって基部が侵食され、同年に補修された[8]。2014年(平成26年)3月31日、統合により志摩町片田にあった片田中学校が閉校した[22]

沿革[編集]

地名の由来[編集]

干潟干拓して田としたことから「潟田」と呼ばれ、「片田」の字が当てられた[23]

人口の変遷[編集]

総数 [戸数または世帯数: R10.png 、人口: G10.png ]

1746年延享3年)[4] R10.pngR01.pngR01.pngR01.pngR01.png 294戸
G50.pngG10.pngG10.pngG01.pngG01.pngG01.png 1,461人
1908年(明治41年)[4] R10.pngR10.pngR10.pngR01.pngR01.png 642戸
G100.pngG50.pngG10.pngG10.pngG10.pngG01.png 3,622人
1960年(昭和35年)[24] R10.pngR10.pngR10.pngR10.pngR01.png 833世帯
G100.pngG50.pngG10.pngG10.pngG10.pngG10.pngG05.pngG01.pngG01.pngG01.png 3,960人
1980年(昭和55年)[6] R10.pngR10.pngR10.pngR10.pngR05.pngR01.pngR01.pngR01.png 966世帯
G100.pngG50.pngG10.pngG01.pngG01.pngG01.pngG01.png 3,281人
2000年(平成12年)[24] R50.pngR01.pngR01.png 1,056世帯
G100.pngG10.pngG10.pngG10.pngG10.pngG05.pngG01.pngG01.png 2,959人
2012年(平成24年)[25] R50.pngR01.pngR01.pngR01.png 1,074世帯
G100.pngG10.pngG10.pngG01.pngG01.pngG01.png 2,467人

経済[編集]

戦前まで半農半漁の地域であったが、戦後真珠養殖が普及し隆盛した[8]。戦後の農家数は少なくなったが、野菜サツマイモを生産している[6]民宿もある[6]

水産業[編集]

あわび王国の看板(2008年、現存せず)

海女漁業や真珠養殖が注目されがちであるが、現実には多種多様な漁法が展開されている[5]。麦崎沖は、東西の潮流がぶつかり、潮目を形成する[5]。熊野灘沿岸ではブリ定置網漁、エビの刺網漁、カツオ一本釣り漁と海女によるアワビサザエ海藻採取が展開され、英虞湾岸は専ら真珠養殖である[6]。刺網と海女漁は郷(乙里郷・大野郷)単位で行われるが、海女漁の一部は夫婦単位で操業する[26]。志摩町の他の大字と同じく、真珠養殖が主で海女漁業が従となっている一方、海女の操業日数は志摩地方では多い方である[27]

大野には砂浜海岸があるため、地曳網が大規模に行われていたが、戦後に停止した[28]。片田の地曳網には網元がおらず、平等な村人総出の漁法であった[26]。戦後は地曳網に代わって大型定置組合が発足、平等性は引き継がれた[26]。大型定置組合とは、1952年(昭和27年)に発足した「片田定置網漁業組合」を指し、当時毎日のように何千何万ものブリが獲れたことから設立されたものである[29]2000年代には最盛期の3分の1ほどの漁獲量となったが、2003年(平成15年)8月1日には組合を片田定置株式会社に組織変更して、事業を続けている[30]

片田漁港[編集]

片田漁港(かただぎょこう)は、三重県志摩市志摩町片田にある第1種漁港1953年(昭和28年)3月5日に港湾指定を受け、志摩市が管理する[31]2009年(平成21年)の統計では属地陸揚量と属人漁獲量はともに45.0t、属地陸揚げ金額は113百万円であった[31]。漁港は外洋に面しており、1970年(昭和45年)前後には漁港施設がほとんどなく、漁船の停泊にも苦労するほどであった[31]

片田漁港を拠点としていた片田漁業協同組合(志摩の国漁業協同組合を経て三重外湾漁業協同組合に統合)は、1911年(明治44年)4月1日に片田漁業組合として発足した[32]。組合長を片田村長が兼務していたため、実務は専務が全権を掌握した[32]。明治時代には、伊勢・河崎朝市に間に合わせるためにカチニモチによって深夜に輸送し、アワビは明鮑(干しアワビ)に、ナマコきんこに加工して大阪や神戸の貿易商に販売した[33]。地曳網でイワシ、寄網でムツ・ブリ、建切網でボラサンマ、刺網でエビ・磯魚、海女による採取で真珠貝・海藻を採取する漁業が営まれてきた[34]

平成に入ると、昭和後期から続いていたブリの大漁が終わり、海女数も減少し、片田漁協の経営は厳しくなり、深谷漁港と片田漁港の改修にかかる地元負担金が支払えず、工事が中断することもあった[35]

釣り場としては、アジ・メバルアオリイカなどを釣ることができる[36]

交通[編集]

鉄道
鉄道は通っていない。最寄り駅は陸路なら阿児町鵜方にある近鉄志摩線鵜方駅
バス
片田バス停三重交通三重交通志摩営業所管内)
道路
  • 国道260号 - 北部を通る志摩バイパスと南部を通る本線が深谷大橋西交差点で分岐する。志摩バイパスには長田橋と志摩丸山橋、本線には歩道橋がある。

施設[編集]

志摩片田郵便局
  • 志摩市片田共同福祉施設
  • 志摩市立片田小学校
  • 志摩市立片田保育所
  • 志摩片田郵便局
  • 鳥羽警察署片田警察官駐在所
  • 中部電力片田変電所
  • 鳥羽志摩農業協同組合志摩支店片田
  • 三重外湾漁業協同組合志摩支所片田
  • 片田真珠養殖漁業協同組合
  • 中京銀行伊勢支店片田出張所
  • 株式会社三橋組本社
  • デイサービスセンターはまみの里
  • 志摩市介護老人保健施設志摩の里

史跡[編集]

  • 八雲神社 - 小字宮の前にある、片田の鎮守[4]。江戸時代は牛頭天王社と称し、明治4年に改称した[4]。明治末期に稲田姫神社ほか13社を合祀した[4]
  • 麦崎神社 - 八雲神社の分社であり、竜宮井戸の伝説が残る[7]
  • 仏寿山来迎寺 - 曹洞宗仏教寺院で、鳥羽市にある常安寺の末寺[4]慶長年間の創建[4]
  • 玉峰山金剛院 - 常安寺の末寺[4]
  • 慈眼山如意庵 - 常安寺の末寺で、境内に薬師堂と金比羅堂がある[4]

片田稲荷神社[編集]

片田稲荷神社

大野浜付近に鎮座する、京都から勧請した神社[37]安政2年(1855年)創建[38]朱色鳥居が並び立つ参道を抜けると、本殿の隣に石段があり、その上に日和山だった名残の方位石がある[37]。漁業神として信仰を集め[37]1月7日縁日には多くの参詣者が集う[38]

宝珠山三蔵寺[編集]

真言宗醍醐派醍醐寺三宝院の末寺[4]。創建は仁安2年(1167年)、脇田雄良阿闍梨によると伝わる[12]本尊観音菩薩で、円空作の観音木像も安置する[12]。江戸時代に藩命で片田村内の曹洞宗3寺に檀徒が規制されるまでは、地域の有力寺院であった[12]

寛文4年(1664年)に当時の住職・明鏡院文盛が『三蔵寺世代相伝系譜』を著し、片田・布施田・和具の3村による地先争いや真言宗の信者が曹洞宗に圧迫される様子などを記録する[12]。三蔵寺の栄枯盛衰と志摩の民俗を伝える重要な史料となっている[4]

伊東里きの姉・なをの嫁ぎ先でもあり、里きがアメリカ土産として送ったフェニックスが境内に植えられていたが、大阪府吹田市万博記念公園に移植されたため、三蔵寺には残っていない[39]

出身者[編集]

  • 伊東里き[8] - 明治時代に渡米し、片田村の移民の先駆けとなった。
  • 平賀亀祐[8] - 画家

脚注[編集]

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  1. ^ 志摩市役所"志摩市の人口について|新しい里海のまち・志摩"(2012年11月17日閲覧。)
  2. ^ 志摩町役場企画課(2004):95ページ
  3. ^ a b c 志摩町史編纂委員会 編(2004):803ページ
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編(1983):321ページ
  5. ^ a b c d 高木(2008):71ページ
  6. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編(1983):1422ページ
  7. ^ a b c 伊勢志摩きらり千選実行グループ"志摩町片田麦崎灯台/伊勢志摩きらり千選"(2012年11月11日閲覧。)
  8. ^ a b c d e f g 志摩町史編纂委員会 編(2004):238ページ
  9. ^ a b 学校通学区”. 志摩市教育委員会事務局学校人権教育課. 2014年8月6日閲覧。
  10. ^ 学校通学区”. 志摩市教育委員会事務局学校人権教育課. 2014年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月6日閲覧。
  11. ^ a b c 志摩町史編纂委員会 編(2004):237ページ
  12. ^ a b c d e f g h i 平凡社(1983):698ページ
  13. ^ 里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):20ページ
  14. ^ a b 志摩町史編纂委員会 編(2004):802ページ
  15. ^ 郡長昭(2011):14ページ
  16. ^ コトバンク"平賀亀祐とは"(2012年11月18日閲覧。)
  17. ^ 志摩市小学校社会科副読本編集委員会 編(2009):153ページ
  18. ^ 大島(1955):105, 114ページ
  19. ^ 青野(1936):274, 276ページ
  20. ^ 谷野(1954):123ページ
  21. ^ 谷野(1954):123 - 125ページ
  22. ^ 「誇りに思える中学に」3校統合の志摩中が開校式”. 伊勢新聞 (2014年4月8日). 2014年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月6日閲覧。
  23. ^ 中村(1951):16ページ
  24. ^ a b 志摩町役場企画課(2004):96ページ
  25. ^ 志摩市役所"志摩市の人口について|新しい里海のまち・志摩"(2012年11月17日閲覧。)
  26. ^ a b c 高木(2008):72ページ
  27. ^ 大喜多(1973):350ページ
  28. ^ 高木(2008):71 - 72ページ
  29. ^ 志摩町史編纂委員会 編(2004):295ページ
  30. ^ 志摩町史編纂委員会 編(2004):295 - 296ページ
  31. ^ a b c 三重県農林水産部水産基盤整備課"三重県農林水産部水産基盤整備課/片田漁港"(2012年11月17日閲覧。)
  32. ^ a b 志摩町史編纂委員会 編(2004):282ページ
  33. ^ 志摩町史編纂委員会 編(2004):282 - 283ページ
  34. ^ 志摩町史編纂委員会 編(2004):283ページ
  35. ^ 志摩町史編纂委員会 編(2004):285ページ
  36. ^ 海の釣り場情報"片田漁港 - 海の釣り場情報"(2012年11月11日閲覧。)
  37. ^ a b c 『伊勢神宮参宮公式ガイドブック 辛卯版』講談社(2011):62ページ
  38. ^ a b 伊勢志摩きらり千選実行グループ"片田稲荷縁日/伊勢志摩きらり千選"(2012年11月11日閲覧。)
  39. ^ 里き・源吉の手紙を読む会 編(2011):42 - 43ページ

参考文献[編集]

  • 青野壽郎(1936)"水産統計より観たる紀伊牛島東部沿岸漁村(紀伊半島に於ける漁村の地理學的研究第一報)"地学雑誌(東京地学協会).48(6):258-278.
  • 大喜多甫文(1973)"志摩地方における海女漁村の生産形態"人文地理(人文地理学会).25(3):344-359.
  • 大島襄二(1955)"地理的に見た水産養殖業地域―英虞湾の真珠について ―"人文地理(人文地理学会).7(2):102-116.
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24三重県』角川書店、昭和58年6月8日、1643pp.
  • 郡長昭(2011)"ふるさと再発見 北米移民の先駆者―伊東里き 渡米開いた庶民の女性"2011年9月10日付中日新聞朝刊、伊勢志摩版14ページ
  • 志摩市小学校社会科副読本編集委員会 編『わたしたちの志摩市』志摩市教育委員会、平成21年4月、156pp.
  • 志摩町史編纂委員会 編『志摩町史 改訂版』志摩町教育委員会、平成16年9月1日、1164pp.
  • 志摩町役場企画課『志摩町町勢要覧 町制50周年記念号 〜磯笛と潮騒のまちを記録する〜』志摩町役場企画課、2004年7月、121p.
  • 高木秀和(2008)"志摩市片田漁村における村落構造の性格と漁法との関係について"経済地理学年報(経済地理学会).54(1):71-72.
  • 谷野良之(1954)"三重県志摩郡片田村に於ける小中学校生徒の「起立性蛋白尿」及び中学校に於ける指導例に就て (『起立性蛋白尿第7報』)"生活文化研究(生活文化同好会).3:123-128.
  • 中村精貮『志摩の地名の話』伊勢志摩国立公園協会、昭和26年11月3日、167p.
  • 里き・源吉の手紙を読む会 編『故国遙かなり―太平洋を渡った里き・源吉の手紙』ドメス出版、2011年3月15日、207pp. ISBN 978-4-8107-0750-2
  • 『伊勢神宮参宮公式ガイドブック 辛卯版』講談社MOOK、講談社、2011年5月25日、105pp. ISBN 978-4-06-389562-9
  • 『三重県の地名』日本歴史地名大系24、平凡社、1983年5月20日、1081pp.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]